いつか夏の木陰の下、少女は、お姉さんに。

 富美は小児性愛者(ロリコン)で、加虐性愛者(サディスト)である。

 富美曰く、その性欲の対象は女児限定らしい。

 富美は罪を犯している。


「だいじょうぶ?」

 声掛けてきたお姉さんは目の前で屈み、千香を覗き込んでいた。

 千香の目にまずついたのは、彼女のとろんとした瞳に伏せた長いまつげであった。瞬きをする度、上下に動くそのカーブ。天然か偽物か判じかね、じっと見つめてしまったほどだ。

 ざり、

 と、両手で脚を抱え込んだまま、にじり寄られ、もう一度、

「だいじょうぶ? どっか、いたいの?」

 と、喉奥で発したが如き高い声音で訊かれたところで、やっと千香は我に帰る。

 あ、話しかけられてるんだ、わたし、

 と。

 そこでその足がサンダルだったことに気付く。サンダルといっても、千香が庭やコンビニに行くのに履いている、ドンキで売っていそうな二千円もしないサンダル……ではなく、細部の装飾にまで拘ったデザイン製の高いものだった。底が厚く足首に紐が巻き付いている。

「ん」

「ん?」

「んーん」

 口を付いて出たのは言葉にもなってない幼児みたいなそれ。

 サンダルから顔を上げると、思ったよりも近くに『お姉さん』の顔があって、千香はその瞳に映るツインテールを結った自分自身に、暗示を掛けるみたいに、

「なんでー?」

 と、語尾を伸ばし言っていた。

 普段の千香なら「どうしてですか」と答えていたろう。

「なんでって。痛そうだったから。こんな顔して。このへんの子? 見ないね」

 お姉さんは千香のすぐ真横に座る。ミニスカートを履いていた千香は、同じく丈の短い黒のワンピースを着ていたお姉さんのふくらはぎに触れて驚いてしまう。直前まで短いとはいえ、汗を流していた千香と違って、お姉さんの脚は冷たい。地声は先より低い。

 お姉さんはこめかみに人差し指をやり、ぐにぐにと眉を動かしてみせた。

 笑いを取っているのかもしれない。いや、というより警戒心を解いているのか。千香はぎこちなく唇を動かし笑顔をつくった。

「ちょっとだけ。遠くから」

「遠く? 歩いて? お母さんは?」

「おしごと」

「ひとり?」

「うん」

 嘘ではない。

 この時の千香は明確に、近づいてきたこのお姉さんを警戒していた。

 とはいっても、いきなり近づいて話しかけてきた不審者に対するそれじゃない。単純に、明らかに同年代、いっても少し上くらいな彼女が、万が一にも、千香の知り合い、の、友人知人だったりしたら、と考え、びくびくしていたのだ。

 なりきり。

 ここは、一旦女児になりきろう。そう決心。

 自分は一体何歳なのだ。目の前にこのお姉さんが現れてからここまで。小学生でも高学年ならもう少しマシな喋り方をするだろうと心配になった。

「何歳?」

 はいきた。

「じ」

「じ?」

「じっさい」

(いったなぁ!)

 自分でも「ないよ。それはいくらなんでもないよっ!」と、千香はこの時、形容しがたい表情を浮かべていただろうと自分で思う。言ってから後悔するとは正にこの事。脂汗。

 がしかし、

「十歳! 見えない! すごいっ。大人っぽいってよく言われない!?」

 横のお姉さんは信じたらしい。手をすり合わせ露骨にわざとらしく驚いた仕草をしている。だが、彼女のそれが冗談なのか本気なのか、はたまた分かった上――たまたま同じ大学で千香を見たことがあって、だとか――でしているのか千香は判じ兼ねている。変な顔継続中。

「あ、いやだった? 大人っぽく見られるの」

 勘違いした。

「いや。えっと」

 一瞬躊躇する。けれど、少しばかり踏み込んでみる気になった。

「何歳に見えたの?」

「十二歳くらい」

「へー……」

 間髪入れずだった。

 自分でした格好とはいえ、お姉さんへの好感度が若干下がった千香である。

「お姉さんもひとりなの? 誰かと一緒じゃないの?」

 面倒くさくなってきた。早いところどこかへ行って欲しい気持ちでいっぱいだった。

 とてもじゃないがこの後も晴天の下、着想を求め思索に耽る、なんてできそうにない。早く着替えて馬鹿な自分を忘れたい。去りたい。出来れば今後一生。

 着想も取っ掛かりも、家に帰ればネットとかに転がっているだろう。たぶん。

 気持ちは投げやりだった。だから、

「ひとりっ。ね。お姉さんといいことしない? いっしょに大人の遊びしよ」

 問われ付いて行ったのは、期待の気持ちがあったわけじゃない。決してだ。投げやった気持ちだったから。

 こう言えばあたしに絶対付いて来るはず、と云わんばかりに、ただそれだけ言って背中を見せたお姉さんは、千香の返事も聞かずにベンチから立ち上がった。子供燥ぐ遊具広場へ上がるでもない。老若男女走っているランニングコース突っ切るでもない。

 四阿から、さらに、奥へ、奥へとゆく。

 その先は栗の木やけやきの木が乱立する光のあまり差さない場所だ。駐車場を囲むコンクリート造りの壁の際を行き、途中ある公共トイレの裏を行けば、四方を壁や木で遮られた、誰の通ることもない場所へと至る。変な場所にある水受けのない、蛇口の外された屋外水道。誰かがやって片付けないままの花火跡。知っている。その場所は知っている。もう千香にとっては大昔だ。友達と……、今は連絡を取ることもなくなった近所の友人たちと、千香はここでよくかくれんぼをした記憶がある。本当に誰も来ないのだ。隠れるつもりでもない限り。

 背中越しに差し出された手は誘うように千香へと伸びていた。もちろん千香は握った。

 引っ掛けるみたいに掴んだ指は細かった。掻くように擽るように誂うように、歩いている間中かりかりとやってくるその人差し指が、千香の心を戸惑わせた。

 巻き上げてアップにしていることで見えているうなじを、千香はずっと見ていた。後れ毛や首から背中に掛けてうっすらと生えている産毛を千香はずっと見ていた。

 人差し指はずっと千香の心の奥を掻いて擽り誂っていた。

 触って欲しい。それだけは確かだった。

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