ジョークか、マジか。

「ごめん。まさか、気絶するとは……」

「ほんとだよ。ふつーに呼吸困難」

 夏の陽光を浴び煮立った黒いワンピース、それもスカート部が二重になった分厚いものだ。どうして彼女が涼しいとはいえ、夏場にそんなものを着て平気にしているのか、千香は知ろうとも思わないし知りたくもないが、そんなものに包まれ、さらに二度三度と果てていたところに、ねっとりとした唾液に覆われべちょべちょになった足で鼻や口やを塞がれれば誰だってそうなる。千香だってそうなる。無論、そんなことになるのは自分だけだろうが。

 気付いたら富美の膝の上だった。

 どうやら自分は膝枕され、うちわで仰がれているらしい。違和感があったので、額に手をやるとそこに冷えピタが貼ってある。

「救急車呼ぼうか悩んだ。あと五分で目覚めなかったらそうしようって」

「やめて。本当にやめて……」

 傍らにスマートフォンが置いてあった。画面はエマージェンシーコール。タップひとつで緊急通報SOS。機能として最初から実装されているものだ。冗談なのか本気なのか。

 友人との過度なレズ行為における呼吸困難。恥ずかしさで死にたくなる。テクノブレイクはあれ、どうやらネットに蔓延るデマのひとつらしいが、プレイの果てによる『死』というのは普通にあり得るのだろう。珍ニュース扱いされていたそれらのいくつかを、ネットで見た記憶がある。それと一緒に並ぶのはごめんだ。

 次からないようにしよう。

 と、心に決めたところで、――この決意もどうかと自身思うが――、千香は未だうちわを仰いでくれている富美を見上げる。

 首を傾けられた。

「大丈夫?」

 と、声を出さずに、唇だけで問われ、千香は答えず前を向く。

 怠い。この怠さに身を任せ、もう少しこの状態を堪能していたかったが、不意に自分が涎まみれでそのまんま気絶してしまったことに気付き、ばっと身を起こした。

「どうしたの?」

「いや」

 口周りや頬がかぴかぴしている。

 化粧は薄めに施してあるが、その化粧も落ちているだろう。

 今自分がどんな顔をしていて、富美にどんな顔を晒しているのか。知りたいような知りたくないような。

 洗面所を借りようかと思ったが、なんとなくはばかられた。出来ればさっさとこの場を立ち去ってしまいたい。

「富美。その。あれ。お願い」

 脚はそのまま両手を付き身を捻ったさながらマーメイドのようなポーズで富美にいつものそれを要求した。もちろん行為の続きではない。

 これ以上言葉を重ねようとはしない。これ以上口を開けば、へりくだってしまいそうな自分がいた。自分が気絶した過程を思えば、自分と富美は対等な関係な……わけがない。どう考えても、富美の方が優位だ。いやしかし――。

 妙なポーズで変なところを煩悶し出した千香に、富美は何か勘違いしたのか、

「うん」

 と、素直に返事し立ち上がる。普段ならもうちょっと意地悪して引き伸ばすであろう。今日はやけに素直だ。それが少々残念である。先まで見せていた頬を彩るささやかな微笑みは失せていた。いつもの富美の、眠たげな、本に視線を落とすそれ、に、戻っていて、千香はこの空間を包んでいた魔法のようなひとときの終わりを知る。耳にじりじりとした蝉の声がつく。

 二重三重に合唱するあぶら蝉の音に混じって、砂利を敷いたアパート駐車場に車がやって来たのを知る。異空間に日常が侵食してきて、普段自分の生きている日常となんら変わらないものになっていく。

「はいこれ」

 と、差し出されたA4サイズの茶封筒。安い、ぺらぺらの封筒だ。わざわざこんなものに入れてくれなくていいのに。彼女はいつもそうする。必要以上に現実感に引き戻される為、これははっきり嫌いだった。もっとラフに渡して欲しい。けれど文句は言えない。

「ありがと」

 中身を確認する。封もされていないそれを覗くと底に五枚綴りのルーズリーフが見えた。引き出し手にとってみると、びっしりと書き込みがある。

『七日間の救済』という文字が目についた。

「聖書?」

 七と救済という文字からのなんとなくの連想。

 富美が顔の前で指を振ってみせる。

「それなら七日目の救済の方がしっくりくるでしょ。今回はいつものよりも実験的かもしれないから。まあ、家に帰ってじっくり読んでみて。だめそうだったらまた来てもいいから。たぶん、それまでには用意しておける」

「わかった」

 また来てもいいから――。

 胸の弾むせりふ。富美もわざと言ったのだろうが、そんな内心をおくびにも出さず、努めて冷静さを意識して、千香は持ってきたバッグにそれを大事にしまい立ち上がる。

 ふらついた。

「もう行くの? 引き止めているわけじゃなくて。その……、大丈夫?」

「まあ」

 ここは甘えてしまってもいい場面であるはず。

 しかし、かぴかぴになった顔をいつまでも晒しておくのが嫌だった。もっと単純に云えば、気持ちが悪い。

「帰るよ」

「そ。じゃ」

 見送る素振りもせず、富美はそれだけ言うと、自分が洗面所に向かっていった。シャワーでも浴びるのだろう。千香は目の前を通り過ぎる富美の背中越しに、部屋の中をちらと見る。その間に、謎めいた彼女を暴きたい衝動に駆られるも、何気なく左手で頬を擦った次の瞬間には玄関に足を向けていた。

 帰ろう。歩いて帰ろう。

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