とある夏の午前中、友人の家で。2

 おずおずと、千香は切り出した。

 千香の座る場所は決まって下座。入り口側。

 この部屋で上座と下座なんてものが決まっていれば、だが。

 窓辺に立った富美は心持ち口角を上げると、そんな千香を見遣り、鼻息を鳴らした。心底からの侮蔑を含んだその一連の動作に千香の肺が縮み上がる。呼吸が浅くなるのを自覚する。

「立って」

「うん」

 はじめてのとき。

 いや、正確に云うと、二回目、二回戦目、か。数え方によっては三回目四回目三戦目四戦目……どうにも曖昧だ。間というものがない。堺というものがない。隔たりといったものまるでない。記憶は混濁していて、それでいて希薄。目の前の女との関係は地続きで、出会ってから延々続いているような気さえしてくる。

 結局。

 出会ってしまった時点でそこが運命の分かれ道だったのだろう。

 引き返せば良かったのだろう。

 戻ることは出来たのだ。少なくとも、その場所に至るまでに。

 ここまで曲がりくねった足元の悪い畦道は歩まなかったはず。

 自分は、自ら道を踏み外し、この女と共に歩むことにしたのだ。

 溺れたのだ。はじめから。

 千香はここまで引っ掛けてきたブラウスのボタンを全て外した。だぼっとしたシルエットの灰色のブラウス。これがないと、本当に子供みたいで嫌だった。けれど、富美が望むのなら仕方がないことだと割り切っている。

 表れたのは、シンプルなデザインの白のワンピースだった。

 これも、以前着てきたものはおばさん臭いと酷く嫌がられた。脚回りをきゅっと絞ったタイトなデザインがお気に召さなかったらしい。富美が望むのは……、富美が千香という存在に望むのは……、千香の容姿に望むのは――、子供っぽいそれである。

 す、と幽霊が動いた。

 どきりとする。

 そこではじめて富美の姿に気付いた。黒のワンピース。は、いつものこと。だが、

「裾」

「長すぎたの。部屋着として使ってるやつ」

 千香の着ている通販で買った安物と違って、富美のそれは随分と高そうであった。首や腕周りが透けてみえるデザインで、よくよく見ればスカート部分も二重になっている。まるでパーティードレスだ。皺がなく裾さえ無事ならば、これから結婚式でもあるのかと云いたくなるほど。彼女がどこで服を購入しているのか知らないが、自分のものより安いということは絶対にないだろう。そのワンピースの裾が、床に付き、引き摺られている。裾はボロボロだった。

 そうして見ると、カーテンでも上から被っているようにも見えた。ますます幽霊っぽい。

「喋るな」

「は……、うん」

 富美はこれをするとき敬語を使われるのを嫌がった。それは千香からすれば、ちぐはぐにも思えた。

 自分のやっている行為は、そうするのが一種、マナーであるようにさえ感じられたからだ。けれど、富美は違うらしい。ならば従うしかない。

 彼女なりのこだわりがあるのだろう。

 馬鹿らしいが。

 そう、馬鹿らしい。だって――。

 ギ。

 と、音が響いた。

 富美は部屋の中央に据えてあったテーブルに腰掛けると、右足をそのまま千香の眼前に差し出した。白く、透き通った肌。目線を心持ちあげると、太ももの内側に血管が透けてみえた。それで悟る。富美がスカートを両手で持って捲りあげているのだ。それがなんだか可愛らしく思えて笑ってしまいそうになるが、努めて自分を抑えた。

 今から行うこれに笑顔は相応しくない。

 口腔から舌を差し出した。

 目を閉じ、顔を上げて、富美にそんな自分を見せるようにする。恭順の意。あなたの求める通りにします。そんなわたしに今からなります。意思表示は儀式である。自分なりの。

「ん」

 屈み込み、足の甲を舐めた。富美の皮膚表面。舌と、不意に触れてしまった唇からその体温が自分で思っていたよりもよっぽど高いことに毎回驚く。彼女も生きている人間なんだ。それが嬉しくて、心が、焦りを帯びたときのようにきゅうっとなり、彼女の体温がもっと知りたくて舌はそのまま甲から踵の内側部分まで伸びる。

「くちゅくちゅ」

 一度舌を離し、唾液を口の中で絡ませる。彼女を伺い見るようにすると、スカートに手は掛けたまま、両の肩を持ち上げてくすぐったさに耐えるようにしていた。普段の澄ました顔との落差。それをもっと知ってみたい。だから、ちらちらと千香は富美を見る。その高低差から見上げるようにする視線を富美は好むはずだ。

 唇が目に入る。早く、と、動いた気がして居住まいを正した。畳に両手を付き、前屈みになった。

 再び舌を這わせる。甲から足首へ。それを三度四度ゆっくりと繰り返し、今度は円を描くように甲の内側で遊んでいると、富美から、

「指も。おね……舐めてみて」

 と、降ってきた。

 お願い……とは言いたくなかったらしい。

 富美から言葉を聞き出せたことで、調子を良くした千香は彼女の言われた通りにする。親指にしゃぶりついた。切ったばかりなのか、爪が鋭利で口腔を少し傷つけた。気にしない。そのまま先のように唾液を絡ませ、富美の小さな親指をぬるぬるにしたり、吸ったりしごくようにしたりして堪能する。たっぷりと味わう。

「ふ、ふ」

 鼻息が聞こえてきた。

 千香じゃない。富美のもの。彼女みたいな人から興奮を示すその音が聞こえてくる。それはとても下品だ。程度を、千香のところにまで貶め堕せた。それをほんのわずかに感じた。嬉しい。嬉しい。満たされていく。まだまだ。まだまだ。

 千香は唇を親指から離し、わざと糸を引かせる。舌を出し、彼女に見せる。見ているのかは分からない。けれど、「はあ……あ」と、糸を引くような吐息が上がったことで、たぶん、見てくれているはずだ、と願いそのまま人差し指へと移る。今度はゆっくりじゃない。速度を上げて勢い込んでしゃぶってみる。しゃぶって舐める。舌の蠢く限りを彼女に尽くす。自分も今だけは下品なろうと努める。前後を顧みない子供のように。

 彼女が声にならない声をあげた。

 興奮している喜んでいる。その証拠に、今まで畳をなぞるようにしていた左足が千香の腿に触れてきた。開かせたその状態じゃ耐えられなくなったのだ。ぴんと伸ばした左足にぎゅっと千香の腿が押さえつけられている。

 ちら、と見た。

 彼女の大腿部の隙き間から覗く向こう。暗くて黒くて遠くて見通せない。きっとあるはずのその向こう側を千香は見たことがない。見せてはくれない。

「ん」

 富美が千香の腿に足を乗せてきた。何をするでもない。ただ、乗せている。どうしていいか分からず、富美を伺うと、そこに冷たい視線があった。戸惑い。温度の急落が激しい。彼女が求めること以外をしてしまったのではないか。千香は俯き、前髪でさらにその目から逃れるようにし、しゃぶっていた薬指から口を放して、腿に乗っていた左足に触れた。

 足首に右手を這わせ、ふくらはぎに左手を添え、だらりとした左足を自分の顔の前にまで掲げてみせる。

 右足とは違ったことを求められているようで、千香は最初から親指にむしゃぶりついた。彼女が冷静になっている気がする。右足から左足に移った今の一連の動作が、ひどく恥ずかしく思えた。顔が赤くなるのを自覚する。

「んんっ!」

 富美がべとべとになった己が左足を、千香の腿の内に当ててきた。床に広がったワンピースの裾から滑り込ませるようにして。

 千香は両手を付きながら、左足をしゃぶったままで、正座にした脚を少しだけ開く。富美がその動作に左足を引いた。合わせて千香も体を持ち上げ腰を持ち上げ首を伸ばす。おかしな格好だ。「いじわる」声に出さず頭の中で呟き、富美を見上げようとしたところで、這わせていた左足が千香の股間まで伸びてきた。

「ん、ん」

 親指で千香の秘所をす、す、と擦る。その度、触れる左右の内腿に自分の唾液が付いて気持ちが悪い。まさぐる足指が時々止まる。「いじわる」ともう一度呟く。今度はしゃぶりながら。火の付いた彼女は止められない。ひどくゆっくりと今度は自分から尻を上げたり下げたりして富美の左足に押し付け擦る。もちろん指はしゃぶったままでだ。親指、人差し指、中指……、と順番にしゃぶり舐めながら堪能し、その間、動いたり止まったりする友人の足。

 ここに来て思い直す。冷めた瞳はいつものこと。それを自分が勘違いしてしまっただけで、千香は彼女の心に火を灯せていたんだ。変に自分が焦ってみせたことで彼女の嗜虐心を余計に煽ってしまった。今日も失敗かもしれない。

 足を舐め終え、次はふくらはぎへ。かくかくと自分の腰が動いている。犬か猿にでもなったみたいだ。ふくらはぎへの愛撫は、最早、今までのような丁寧なそれじゃない。千香は、股間に押し付けられた左足にしなだれかかるようにしていた。さらとしたふくらはぎに千香は自分の舌から頬から押し付けているが、それは舐めているというより、己が股間の動きに合わせてただ擦り合わせているというのが正しい。

 跪き、友人の足を舐め、自慰行為をする。こんな自分はどう見えているのだろう。一人で盛り上がってしまっている自分を自覚しつつも、このまま最後まで。富美もそれを許してくれている。

 腰の動きが一段と激しくなる。当初は畳を付いていた両手も今や、富美のふくらはぎとそれから腿へ縛り付けるようにしている。富美が伸ばしていた爪先の角度を変えた。鋭利な爪の先っちょが千香の下着に守られた小さな突起に引っかかる。背中が痙攣する。股からの刺激が背中を伝わり、頭蓋を揺さぶるような衝撃が走る。

 果てた、らしい……と、自覚した時にはもう二度目三度目を求めていた。友人の綺麗な足に自分の爪跡が残っているのを霞んだ瞳で捉え、喉の奥から「あえあえ」と、奇人の狂態にも似た声を上げ、千香は気付いたときには畳へ横倒しになっていた。

「富……お姉ちゃん」

「なに」

 汗はあまりかかない方だ。昔から。

 ならば、この頬にまとわりつくような不快な感触は自分の涎か。

 夏の午前の日差しが畳の一部を焼いている。眩しすぎて塵すら見えない。千香は逃れるようにごろんと仰向けになった。角度的に茶色い木目の天井と、てらてらに光った富美の右足の爪先しか見えなかった。

「先に、いっちゃってごめんなさい。お姉ちゃんもやろ」

 先走った自戒の言葉と心からの懇願と嘆願をなるべく拙い言葉で口にする。彼女の求めるそれを意識して。ともすれば、難しい言葉を重ねてしまいそうになる自分を抑えて。

 降り下りてきたのは言葉でも下着でもその下に隠れた富美の秘部でもなく足だった。よりによって、今の今まで自分がべちょべちょにした左足。

「んっ、んっ」

 苦しかった。

 額に目に鼻に口に。生臭い自分の涎の匂いを塗りたくられる。むせ返るようなむわっとした空気と空間、それからこの暗闇。それは足で塞がれたせいばかりではない。富美の身に付ける黒のワンピースのせいだ。

 それが今、千香を包んでいる。

 ……あの奥に何があるのだろう――。

 頬に垂れてきたその雫を舌を出して舐め取った。それが自分の涎か、彼女のそれか判然としない。富美の足に踏まれながら、富美の纏う黒に包まれながら、千香の意識はゆっくりと薄らぐ。

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