四
「廣田さん」
名前を呼ぶと、廣田が窓の外から、目線を店内に移す。
「どうぞ」
耕輔は、廣田の前にコーヒーを置いた。
「ありがと、伊川くん」
廣田は、耕輔の心遣いに柔らかい微笑みを返す。
「…何か、気になるものでも?」
廣田が視線を向けていた方向を眺め、耕輔は尋ねた。
「…おんなじ柄の傘って、意外とないんだなぁって…」
そろそろ、家路に着く人たちが増えてくる時間帯だ。昨日からの雨は、小降りになってきたようだが、往来は傘を差して歩く人々が行き交う。
「…ほんとですね」
確かに同じものは見つからない。
自分だったら、きっとなんとも思わずに見送っている。
「あ、今日はありがとう。無理言って悪かったね」
「いえ、大丈夫ですよ」
午前中、廣田から「今日の午後、定期点検に対応できないか」という問い合わせの連絡が入ったとき、たまたま、今日予定していた一台がキャンセルが出たところだった。
「運が良かった。…あ、いただくね」
カップの持ち手に指が絡まる。廣田はコーヒーを一口飲んで、複雑そうな表情をした。
「…美味しいね、相変わらず」
「所長こだわりの豆ですから」
耕輔が微笑むと、廣田は納得いかないというように、
「ここ、車の販売店だよね…?」
と、わざとらしく周囲を見渡す。
所長の永井は趣味が高じて、職場でも自分で挽いた豆でコーヒーを淹れる。
耕輔も、この営業所に異動して少し経った頃から「今後、お客様に振る舞うことが増えるから」と、永井からコーヒーの淹れ方を「指導」された。
「伊川くんも、コーヒー淹れるの上手になったよね」
廣田がそう言ってくれるのが何より嬉しい。
「ありがとうございます。所長には及びませんが」
「これ以上極めたら、本当に『マスター』じゃん…。…あれ、そういや、『マスター』、姿が見えないね?」
廣田の言い方に耕輔は苦笑した。
「『マスター』は、本日は本社で会議です」
「『マスター』、所長みたいな仕事もするんだ」
「それが、所長なんですよ、実は」
「知ってる」
二人でくすくすと笑い合う。時折訪れる、こういう時間が、たまらなく幸福だ。しかし、廣田の左手に目が行き、その幸福が、ほんの一瞬のものだと思い知る。出会ったときと変わらず、薬指に光る指輪の存在。
廣田が、
「どうかした?」
耕輔をじっと見返してきた。無意識なのだろうが、その上目遣いや甘さを含む声は、その年齢の男性のものとしては「可愛い」と思う。
一瞬前、気が滅入ったのに、顔が緩みかけ、なんとかそれを営業用の微笑みに変える。
「いえ…。平日にいらっしゃるのが珍しいな、と」
もっともらしく取り繕った。
「…ああ、この前休日出勤した分、今日午後から半休なんだ。明日も休み。仕事終わって、会社から直接来た」
「ああ、だからスーツなんですね」
土日か祝日に来店することの多い廣田は、ゆったりとした、シンプルなデザインの私服を身に付けている。今日の黒みがかった濃いグレーのスーツは、廣田のスタイルの良さ、肌の白さを際立たせていた。デザイン自体はシンプルだが、体にしっくりと馴染んいるところをみると、オーダーメイドではないだろうか。
「よくお似合いです、そのスーツ」
私服も若々しくて良いが、スーツ姿も、
(…かっこいい)
それを、「お似合いです」という言葉で言い換えたのに、廣田は、
「ふふ、ありがとう。『かっこいい』?」
と、いたずらっぽく笑った。心の中の呟きを、廣田自身の声で聞いて耕輔は顔を赤らめた。出会ったばかりの頃、思わず口にしてしまった自分の言葉でもある。
「!…その節は…失礼を…」
「ふふ」
「勘弁してください…」
顔の下半分を手で覆いながら、耕輔は恥ずかしさに耐えた。
「はは、ごめん、ごめん」
ことあるごとに、こうしてあのときの言葉で耕輔をからかう。からかわれて嬉しいと思う自分も大概だと思う。ただ、廣田の方に特別な感情があるわけではないことも、重々理解している。
「んんっ」とわざとらしく咳払いをして、耕輔は表情と声を作り直した。
「…それでは、点検が終了するまで今しばらくお待ちください。失礼します」
耕輔は、廣田に笑顔を向ける。廣田もそれに答える。
「…ありがとう」
名残惜しいが、業務を疎かにするわけにはいかない。耕輔は軽く頭を下げ、その場を後にした。
(たぶん、今、廣田さんは「独り」)
耕輔は、そう予想している。
出会ってから今まで、廣田の口から妻のことが語られたことはない。
(なのに、指輪をはずさないのは…)
と、この二年ずっと考えて、
「別れた妻を今でも愛しているのだろう」
という結論を出した。
離別か死別か…恐らく後者ではないかと推察している。そして自分の仮説に胸が痛む。
(そこに自分が入り込む余地は無い)
と!考え、
(余地?そんなもの、最初から、無いじゃないか…)
「自動車販売店の副所長」そして「幼馴染みの部下」でしかない自分には。
耕輔は自嘲した。
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