「廣田さん」

名前を呼ぶと、廣田が窓の外から、目線を店内に移す。

「どうぞ」

耕輔は、廣田の前にコーヒーを置いた。

「ありがと、伊川くん」

廣田は、耕輔の心遣いに柔らかい微笑みを返す。

「…何か、気になるものでも?」

廣田が視線を向けていた方向を眺め、耕輔は尋ねた。

「…おんなじ柄の傘って、意外とないんだなぁって…」

そろそろ、家路に着く人たちが増えてくる時間帯だ。昨日からの雨は、小降りになってきたようだが、往来は傘を差して歩く人々が行き交う。

「…ほんとですね」

確かに同じものは見つからない。

自分だったら、きっとなんとも思わずに見送っている。

「あ、今日はありがとう。無理言って悪かったね」

「いえ、大丈夫ですよ」

午前中、廣田から「今日の午後、定期点検に対応できないか」という問い合わせの連絡が入ったとき、たまたま、今日予定していた一台がキャンセルが出たところだった。

「運が良かった。…あ、いただくね」

カップの持ち手に指が絡まる。廣田はコーヒーを一口飲んで、複雑そうな表情をした。

「…美味しいね、相変わらず」

「所長こだわりの豆ですから」

耕輔が微笑むと、廣田は納得いかないというように、

「ここ、車の販売店だよね…?」

と、わざとらしく周囲を見渡す。

所長の永井は趣味が高じて、職場でも自分で挽いた豆でコーヒーを淹れる。

耕輔も、この営業所に異動して少し経った頃から「今後、お客様に振る舞うことが増えるから」と、永井からコーヒーの淹れ方を「指導」された。

「伊川くんも、コーヒー淹れるの上手になったよね」

廣田がそう言ってくれるのが何より嬉しい。

「ありがとうございます。所長には及びませんが」

「これ以上極めたら、本当に『マスター』じゃん…。…あれ、そういや、『マスター』、姿が見えないね?」

廣田の言い方に耕輔は苦笑した。

「『マスター』は、本日は本社で会議です」

「『マスター』、所長みたいな仕事もするんだ」

「それが、所長なんですよ、実は」

「知ってる」

二人でくすくすと笑い合う。時折訪れる、こういう時間が、たまらなく幸福だ。しかし、廣田の左手に目が行き、その幸福が、ほんの一瞬のものだと思い知る。出会ったときと変わらず、薬指に光る指輪の存在。

廣田が、

「どうかした?」

耕輔をじっと見返してきた。無意識なのだろうが、その上目遣いや甘さを含む声は、その年齢の男性のものとしては「可愛い」と思う。

一瞬前、気が滅入ったのに、顔が緩みかけ、なんとかそれを営業用の微笑みに変える。

「いえ…。平日にいらっしゃるのが珍しいな、と」

もっともらしく取り繕った。

「…ああ、この前休日出勤した分、今日午後から半休なんだ。明日も休み。仕事終わって、会社から直接来た」

「ああ、だからスーツなんですね」

土日か祝日に来店することの多い廣田は、ゆったりとした、シンプルなデザインの私服を身に付けている。今日の黒みがかった濃いグレーのスーツは、廣田のスタイルの良さ、肌の白さを際立たせていた。デザイン自体はシンプルだが、体にしっくりと馴染んいるところをみると、オーダーメイドではないだろうか。

「よくお似合いです、そのスーツ」

私服も若々しくて良いが、スーツ姿も、

(…かっこいい)

それを、「お似合いです」という言葉で言い換えたのに、廣田は、

「ふふ、ありがとう。『かっこいい』?」

と、いたずらっぽく笑った。心の中の呟きを、廣田自身の声で聞いて耕輔は顔を赤らめた。出会ったばかりの頃、思わず口にしてしまった自分の言葉でもある。

「!…その節は…失礼を…」

「ふふ」

「勘弁してください…」

顔の下半分を手で覆いながら、耕輔は恥ずかしさに耐えた。

「はは、ごめん、ごめん」

ことあるごとに、こうしてあのときの言葉で耕輔をからかう。からかわれて嬉しいと思う自分も大概だと思う。ただ、廣田の方に特別な感情があるわけではないことも、重々理解している。

「んんっ」とわざとらしく咳払いをして、耕輔は表情と声を作り直した。

「…それでは、点検が終了するまで今しばらくお待ちください。失礼します」

耕輔は、廣田に笑顔を向ける。廣田もそれに答える。

「…ありがとう」

名残惜しいが、業務を疎かにするわけにはいかない。耕輔は軽く頭を下げ、その場を後にした。

(たぶん、今、廣田さんは「独り」)

耕輔は、そう予想している。

出会ってから今まで、廣田の口から妻のことが語られたことはない。

(なのに、指輪をはずさないのは…)

と、この二年ずっと考えて、

「別れた妻を今でも愛しているのだろう」

という結論を出した。

離別か死別か…恐らく後者ではないかと推察している。そして自分の仮説に胸が痛む。

(そこに自分が入り込む余地は無い)

と!考え、

(余地?そんなもの、最初から、無いじゃないか…)

「自動車販売店の副所長」そして「幼馴染みの部下」でしかない自分には。

耕輔は自嘲した。


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