点検作業が終わったと整備場の方から報告があったのは、それから三十分程経ってからだった。

「お待たせしました、廣田さん」

応接スペースで待つ廣田の下に向かい、作業内容の明細を手渡す。

「ありがとう。助かったよ、急だったのに…」

「いえ、その点はお気になさらず。こちらこそ、毎回きちんと点検を受けていただきありがとうこざいます」

耕輔が丁寧なお辞儀で謝意を示すと、

「ふふ、大事な愛車だからね」

廣田が、照れながらも嬉しそうに答えた。

「おう、来てたのか」

所長の永井が、事務室のドアから顔を出した。

「おかえりなさい、所長」

「ああ、邪魔してるよ。…『マスター』」

「ふっ…」

最後の一言はごくごく小さい声だったので、耕輔の耳にだけ届き、その不意打ちに耕輔は吹き出してしまった。

「なんだ、伊川。風邪か?」

永井が耕輔の顔を覗き込む。くしゃみだと思ったらしい。

「いえ…大丈夫です」

少し肩が震える。

「ほんとか?」

気遣いが申し訳ない。異動したばかりの際、頭痛薬を常用していたためか、永井は耕輔の体調をよく気にかけてくれる。

「おかん」とは思わないが、「兄がいたらこんな感じかな?」と思うくらいに、耕輔は永井のことを慕っていた。

「とにかく無理すんなよ」

永井が、耕輔の背中を叩く。

「ってぇ!所長~…」

ガタイが良いだけに、永井は力も強く、広野って叩かれると本気で痛いことがある。

「あ、悪い」

「…もう。…でも、お気持ちはありがたいです。ありがとうございます」

にっこりと微笑んだ。

「おう」

あの日以来、ずいぶんと打ち解けることができた。仕事の悩みなども気軽に相談できている。

その会話に廣田が割って入ってくる。

「…ちょっと、冬彦」

声に少し不機嫌そうな雰囲気を感じて、廣田の顔を見る。でも表情はいつもの柔和は廣田だった。

「今日、飲みにいかない?久しぶりに」

廣田が、声をかけると、

「…あ~、今夜はちょっと無理だな…」

と、永井がカレンダーをちらりと見る。

「…今日は、どうしても外せない用があんだよ」

廣田もカレンダーを見て、何かに気づいたらしく廣田は、

「あ~、そうか…はいはい、分かった」

とすぐに引き下がった。普段なら、見ている側も笑ってしまう程仲の良い幼馴染みの間に、微妙な空気が流れている。しばし沈黙の時間があり、居たたまれなくなった耕輔は思わず、

「よかったら、俺、お付き合いしましょうか?」

と、廣田に声を掛けてしまった。全く本気でなかったとは言わないが、社交辞令と取られるだろう、と予想していた耕輔は、「え、いいの?」と廣田が乗り気になったことも、永井が、「お、じゃ、そうしてやってくれ」と言ったことも意外だった。

そうこうしている内に、耕輔の仕事が終わったら合流することで決まった。

一度車を置きに家に戻るという廣田を見送る。

「じゃ、また後でね、伊川くん。仕事終わったら連絡して」

「はい」

運転席でハンドルを握る廣田は、今日もかっこよかった。

二人で飲みに行くことは始めてて、冷静を装ってはいたが、耕輔はかなり興奮していた。

雨はいつの間にか上がり、空は夕方の色に染まり始めている。耕輔の頭痛も殆ど感じなくなっていて、

(そろそろ梅雨明けかな?)

そんなことを思った。


◇◇◇◇


待ち合わせは、二年前に「お祝い」した居酒屋に決まった。廣田と永井の友達がやっているその店は、耕輔のお気に入りになった。酒はあまり飲めない耕輔だが、この店は食事のメニューも豊富で、仕事帰りに、週に一、二回はここで夕食をとる。そのため、店員や常連客など顔見知りも増えた。

店に入ると、入り口から廣田の姿が見えた。向こうも耕輔に気付いて手を振ってきた。いつものゆったりとした服装に着替えている。

「すみません、お待たせして」

「うん、待ってた」

笑顔で言われ、また耕輔の心臓が跳ねた。

「すみません…あ、すいません、烏龍茶

一つください」

通りかかった顔見知りの店員に飲み物を注文し、廣田の向かいに座る。

「…あんまりお酒強くないんだっけ?」

二年前、それとなく会話の端に上っただけなのに、覚えていたらしい。

(やばい。嬉しい…)

そのことに顔が緩みそうになる。なんとか堪えて、応じる。

「はい。それに、今日は車なもので…。」

帰りは送ります、と申し出るのは馴れ馴れしいような気がしてやめた。しかし、

「じゃ、帰りは送ってもらおうかな?」

と、廣田の方から言われ、

「もちろんです」

慌てて答えたら思いの外、声が大きくなってしまった。周囲からの視線を強く感じる。

平日なのに店の中はほぼ満席。しかし、それにしても、この席が注目されている気がするのは、自分の相手をしている美形の男性の存在も大きいと耕輔は思った。廣田が、

「盛況だね。いいことだ。個室取れなかったもん」

と、周囲をうかがっていた。

「個室が多いんですか?俺は、たこの席、俺もよく利用しています」

「ああ、それでか…」

何か、腑に落ちることがあったしい。廣田の表情が一瞬翳る。

「?」

「誰かと一緒?冬彦とか?」

「いえ、いつも 一人です。ここ、営業所から近いし、駅までの通り道なので、仕事帰りに食事するんです。帰っても一人なので」

「そっか」

いつもの明るい雰囲気の廣田だった。

「あ、来た来た」

耕輔の烏龍茶と、数品の料理が運ばれてくる。

「とりあえず適当に頼んだんだ。伊川くんも好きなの頼んで」

「はい。ありがとうございます」

「こちらこそ、今日は付き合ってくれてありがとう。乾杯」

「乾杯」

飲みかけのジョッキとグラスを合わせる。

耕輔は緊張し、浮かれていたが、とりとめのない話をしているうちに、共通の趣味があることも分かって、思っていたよりも会話が弾んだ。





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