六
「ところで、伊川くん、恋人は?」
廣田が唐突に聞いてきた。
「あ~…。今は、いません…」
耕輔は、一瞬迷いつつ、正直に答えた。
「今は、ってことは、前はいた?」
「…えと…それはまあ…。何年も前のことですけど」
学生時代の話だ。同じ専門学校に通っていた人で、向こうから告白され、付き合った。
「へえ…付き合ってるときって、どんな感じ?デートとか、どんなとこ行くの?」
「…ぐいぐい来ますね」
「…若者の恋愛事情、興味あるな、って」
「…話せるような面白いこと、ないですよ」
本当になにもない。お互いに学校とバイトで忙しく、共に出掛ける、といったことは殆どなかったと思う。たまに一緒に食事して、その後どちらかの家に行ってセックスし、事が済んだらそれぞれの家に帰る。それだけだった。
卒業、就職を機に相手は引っ越していき、そのまま疎遠になった。ちゃんと別れてすらいない。付き合ったのは、その人が最初で最後だが、そこに恋愛感情があったのかすら、もう、思い出せない。
「伊川くん?」
耕輔ははっとした。物思いに耽ってしまった。
「あ、すいません。やっぱ、話せるようなこと、ないな~、って」
「そっか…なんか、ごめん」
廣田はそれ以上何も聞かなかった。少し気まずい。
「あ、そう言えば、所長の「外せない用」って、なんだったんでしょうね?」
話題を変える。
「ああ…」
廣田が少し皮肉っぽく微笑んだ。
「『結婚記念日』」
「結婚」という言葉を聞いて耕輔は、ドキリとした。
「十四…五年かな?結婚して」
(所長って、ずいぶん若いうちに結婚したんだな…)
と思う。
「それは、確かに『外せない用』ですね」
「あいつあれでマメだし、そう言うの大事にするタイプ」
「あ~、分かる気がします」
強面で一見ぶっきらぼうだが、実は気配りのひとで、その言葉や態度は偽りがない。
そんな永井だから、好きな相手には尚更、惜しみ無く愛を注ぐのでないだろうか?
「尽くしそうですもんね、所長…」
「そうだね。今でもベタ惚れだし」
奥さんに惜しみ無く愛を囁いて、献身する様子が、意外なほど簡単に想像できた。
「かなり時間かけて口説き落とした相手だからね」
なんとなく、よく知った相手のようだ、と思った。
「…ご存じの方なんですか?」
「あ~、うん、…僕の姉」
「え?!」
と大きな声を上げて、耕輔は慌てて口を押さえた。
「お、お姉さん?」
耕輔は声のトーンを落として、聞き返す。廣田は頷いて、苦笑いを浮かべた。
「…幼稚園の頃からだよ?」
永井は五歳年上の廣田の姉に「結婚して」と言い続けたのだという。
「もちろん、最初は相手にもされないさ」
子どもの頃の五歳差はかなり大きい。
大人なってもことあるごとに口説き続けたらしい。
「姉の方が絆された。もう、今じゃ五歳差なんて気になんないしね」
「それは…なんか、すごい、ですね」
耕輔は自分の語彙力のなさに呆れたが、廣田は、
「うん、すごい」
と、同意した。
「姉さん女房の尻に敷かれて、ものすご~く幸せそうだよ、冬彦」
「一途なんですね」想像の永井の姿を勝手にほほえましく思い、おもわず耕輔も微笑んでしまった。
そんな耕輔を見ながら、廣田が少し呆れたような顔で言った。
「…意外と冷静だね?」
「え?」
耕輔は、廣田の言葉の意味が分からず、聞き返す。
「妬いたりとかしない?」
「焼く?何をですか?」
ますます分からずにいると、廣田も少し困惑した様子で、
「なんでもない…」
と、グラスのサワーを一口飲んだ。
自分のこと、所長のことが話題になったので、耕輔は思い切って廣田のことも尋ねてみた。
「え、と…廣田さんも、ご結婚、されてます?その、左手…」
「ああ、これ?」
廣田は、自分の薬指を見つめた。
「あ~、ここじゃ言えないかな」
ハッキリと言われ、耕輔は一気に体温が下がったように感じた。
「…すみません、図々しく。どんな奥さまか気になってたもので」
耕輔はそう言って頭を下げるしかなかった。
「どんな方って、僕の…妻が?なんで?」
「…なんでって」
廣田が身を乗り出す。
(「好きな人」が「好きな人」だからです)
とは言えず、
「な、なんとなく…」
その言葉に、廣田は「ふうん…」と、一度身を引いたが、なんだか機嫌がよく、
「…聞きたい?」
「え?…」
「いいよ。教えてあげる。でも、ここじゃ言えない。家に行こ。あ、お会計ー」
店員を呼び止めたかと思うと、耕輔が財布を出すまもなく、廣田は会計を済ませてしまった。
「じゃ、行こうか」
と、耕輔の腕を取る。
拒否しようと思えばできたと思う。でもそれはせず、耕輔は「仕方ない」という顔をして廣田に従った。
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