試乗車を車庫に戻し、営業所内に入ると、応接スペースの広瀬と永井の姿が見えた。

「戻りました」

耕輔が声をかけると、

「おう」

永井が上機嫌で返し、

「伊川、お前孝明に何言ったんだ?」

と、凄みのある笑顔を向けてくる。

「何って…」

「あんだけ渋ってたのに、あっさり『新車買う』って言うからよ」

「え?マ…本当ですか?」

「うん。決めた」

廣田がひらひらと手を振る。

「伊川くんの説明、分かりやすくて『ぐっときた』からね」

「だとよ」

廣田は永井に見えないように、唇にそっと人差し指を当てて微笑んだ。

同じように、自分の唇にも指を当てられたことを思い出し、耕輔の顔はみるみる赤くなっていく。

「それじゃあ…って、おい、大丈夫か?なんか、顔赤いけど…。そういや昼間、薬飲んでたな。…なあ、お前、どっか悪いの?よく、薬飲んでるけど」

「え?」

驚いた。頭痛薬を飲むときには、給湯室や休憩所など、あまり人目のない時に飲むようにしていたはずなのに。

「だ、大丈夫です。低気圧頭痛なので…」

「あ、それ、僕もなる」

廣田が言うと、

「お前のは二日酔いだろ」

すかさず永井が廣田に突っ込む。

「ひどい…」

廣田がぼやいた。そのやりとりに思わず笑ってしまう。

「ほんとに痛いのに、『気の持ち様』とか言われて、大変なんだから!ね、伊川くん」

「はい。家族まで『気のせいじゃないの?』とか言いますから」

自嘲気味に話すと、永井が真面目な声で、

「痛みなんて、本人にしか分かんねえのにな。ま、周りが何言おうと無理はすんな。な、伊川」

「!…は、はい」

耕輔は、ふわふわとした気分になった。頭痛の辛さを受け止めてもらえたことが嬉しかったのだ。

「…今、薬効いているので、大丈夫です」

実際、朝と比べるとずいぶん軽い。

「ああ、伊川。孝明の新車、オプションと、最終的な契約、お前がやれ」

「え?」

「今回はお前の手柄にしてやる。つーか、お前の手柄だな」

永井がにやりとした。

「え?は、はい!廣田さん、少々お待ちください!」

「慌てなくていいよ~」

耕輔は、早速カタログや契約書を準備しはじめた。


その日のうちに廣田との契約がまとまった。耕輔ははじめて「車を売る」という取引を成功させ、少し浮かれていた。

だから、永井から、

「言っただろ、『あとで説教』って」

と言われた時は、地べたに叩き落とされた気分になった。就業時間が終わってから、強引に飲みに連れ出されたのだ。行き先は友達がやっている居酒屋だという。そこは職場から程近い飲食街にある店で、歩いて向かう。

(飲まされるのか…)

気が重い。あまり、酒は強くない。嫌いではないが、すぐに酔ってしまう。店が駅から近いということだけが救いだった。

店に着き、暖簾をくぐってすぐ、「いらっしゃいませ!…ああ、いつもありがとうございます。こちらです」と案内された。友達の店だと言うだけあって、永井と店員は顔見知りらしい。

案内されたのは個室になっているところで、引き戸を開けると、なぜか廣田がいた。

「やあ」

「え?廣田さん?」

「待ってたよ~。ささ、座って」

とにっこりと声を掛けてくる。

「え?」

今、気持ちを視覚化できたら、耕輔の頭上には大きな「?」が出ているだろう。

「お祝いする、って言うから、交ぜてもらっちゃった」

廣田の言葉に、さらに耕輔の周りに「?」マークが飛び交う。

「伊川の初契約を祝して、ってとこだ」

「え?え?」

「はは、伊川くんテンパりすぎ~。とりあえず、座りなよ」

個室の中は、六人ほど座れるくらいの堀炬燵になっていて、廣田に言われるまま、耕輔は廣田の向かいに座った。永井は、廣田の隣に腰を下ろす。

メニューを開きながら永井が、

「俺はビール。伊川、お前、あんまり飲めないんだったよな?ここ、定食も旨いから。好きなもん食え」

(知って…。ああ、そう言えば、異動したばかりの時…)

歓迎会の際、ずっとソフトドリンクだった耕輔は、古参の事務員に酒を勧められ、「すぐ酔うから」と断りを入れた。その近くの席に永井もいたような気がする。

しかし、先程は「説教」と言われた。

「あの、『説教』ってのは…」

「え?そんなこと言って連れてきたの?冗談だよ」

廣田は笑ったが、

「いや、説教したいことならある。…伊川」

という永井に、耕輔は居住まいを直す。

「お前、来たばっかの頃より痩せただろ?ちゃんと飯食ってんのか?夜とかも、ちゃんと寝てんのか?」

(説教?)

というより母親の小言だな、と耕輔が思うと同時に廣田が、

「『おかん』か」

と突っ込んだ。

「『おかん』みたいなもんだ。部下の体調ケアだって、上司の仕事のうちだからな」

至極、真面目な表情だったが、そこに義務感のようなものはなく、ただ、耕輔を気遣っている様子が見て取れた。

「ええ、所長が「おかん」ですかぁ?」

耕輔は抗議するような声を上げた。その声に、廣田から視線を戻した永井が、

「ああ?!おま…」

と言い掛けて、廣田に止められる。

「…」

耕輔はもう言葉にならなかった。

涙が止まらない。自分でも驚くくらい、耕輔はボロボロと泣いた。

何も言わず肩を震わせる耕輔を、永井も広田も何もいわず、ただ見守った。

どれだけ時間がたっただろう、泣くだけ泣いて、なんだかすっきりしていた。耕輔は、二人に改めて礼を言い、笑顔を見せた。

「無理すんな」

永井は言った。

「いいんだよ、それで」

廣田も言った。

二人が自分に向ける視線はとても優しい。

自分を気遣ってくれる誰かがいる。それだけで、体も気持ちもずいぶんと軽くなった。

そろそろ薬が切れる時間なのに、頭痛も起きていない。とても落ち着いた気持ちだった。


「ありがとうございました。それにごちそうさまでした。お二人も、あんまり飲み過ぎないでくださいね」

「二件目に行く」という二人とは、そこで別れる。

「明日は定休日だ。ゆっくり休め」

「大丈夫、大丈夫。僕お酒強いから~!」

二人同時に話されたのでよく聞き取れず、耕輔は苦笑した。

(もう少し、頑張れそうな気がする。うん、できることから頑張ってみよう…)

その日は久しぶりに、ちゃんと食事を取ったし、すごく穏やかな気持ちだった。頭痛も大分軽くなった。っと、ぐっすりと眠れるだろう。

「じゃあね、伊川くん。おやすみ」

そう言って左手をあげた廣田の薬指に光るものがあった。それを見て耕輔は、

(結婚、してるんだ。そりゃそうか。…この人の奥さん、幸せだろうな)

などと少しだけ切なく思ったが、その日の帰り道、歩みはとても軽やかで、電車に揺られるのも心地よかった。








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