破綻人間が二人 ~バレーボールと数学者~

境 仁論(せきゆ)

第1話

1/G・W


ビー! ビー! ビー! ビー! ビー! ビー!

コートに着地するたびに鳴り響くブザー音は、いい加減けたたましい。砦のように聳え立つネットの網目越しに、リベロが腕を痙攣させながら倒れているのが見える。

 俺が見る世界と聞く世界は常に同じだ。撃ち、倒す世界。破裂音に続く警報音。今も掌でひりつく熱。痛み。数千もの針を刺したような感覚は、勝利の喜びと比べれば些細なものだ。この俺の役割は常に一つ。跳び、腕を振り、捉えた悉くを破壊すること。スポーツマンシップに乗っとりゃ一発退場ぎりぎりの思想だろうがそこは折り合いだ。現に俺は破壊するモノとして名を馳せ、こうして世界の大舞台に立っている。

 ——『ゴールデンウィンガー

 日本で最も強く白球を撃つことが出来るのはこの俺——上ヶ戸あがと踏牙とうがただ一人。

 この肉体は高く跳び、コート上全ての「俺以外」を噛み砕くために生まれた。


 ゴールデンウィーク、俺の故郷である双藏市のアリーナで、俺の異名「G・W」に乗っ取ったエキシビションマッチが行われていた。

俺がエースを務める「金雷スパークライズ」は、前回のVリーグで決勝を争った「楢葉工業シックス」と大試合を繰り広げている。

 前の試合じゃ俺とまともに張り合えなかったチームだったが、今回は少し違う。俺の動きを予測して常にマークしてきやがる。そのせいでまともにブロックを喰らう羽目になったわけだが、俺の前じゃあ意味がない。

なぜ俺がゴールデン・ウィンガーと呼ばれるのか。それは髪を金色に染めているからってだけじゃない。俺のアタックは常に相手選手の肉体を破壊する。比喩じゃない。数枚のブロックが重ねられたところで破壊し、威力を下げることなく相手コートに被弾させる。日本でもっとも頂点に近づける腕。故に、黄金の比翼。

 ブロックなしのアタックをモロに喰らった相手は再起できなくなる。今、相手のリベロが立ち上がれないように——俺の全身全霊のアタックは、まともな人間が耐えきれる攻撃の許容範囲を逸脱していた。時に、撃っただけで骨を砕くこともある。比喩じゃない。

 しかし言い換えれば、ここまで鍛え上げなければ世界に太刀打ちできないということだ。そして俺には最強を示さなければならない理由がある。世界の頂点に立つ……確かに立派な目標だ。俺にしては大いに結構。だが、それは原点じゃない。

 ここ、双藏市に俺が戻ってくるとなれば……アイツが、試合を見にやってくるかもしれない。



0/


 朝練が無くとも早起きする俺だが、ヤツも朝が早い。例のニュースを聞いた俺は普段より十数分も早く登校し、校門の裏でソイツがやってくるのを待っていた。教師も学生もいないがらんとした通学路。その奥からゆるりと霧が晴れるように親友が歩いてきた。


「——よお沼木! 数学オリンピック優勝、またやりやがったな!?」


 前髪の長かったその男子生徒は近くから見ても目を見つけられない。しかし沼木美鶴はちゃんと俺の顔を見つけられたようで、その華奢な指で髪を分けると朗らかに笑った。


「やあ、踏牙」


 誰もいない教室。沼木の前の席に座る。


「君も懲りないね。どうして僕なんかとつるもうとするんだい」


「同じだからだよ。スポーツの俺、数学のお前。土壌は違うがどっちも最強なのは変わりない。世界で一番強い俺様が対等に喋れるのはお前だけなんだよ」


 そして沼木は困るように笑った。

 この高校には二人の天才がいる。

 一人は小学生のときから抜群の身体能力を世界に示し続けた、プロ入り確定のバレーボール選手。上ヶ戸踏牙。

 一人は俺よりさらに前——小学校に上がるより前から演算能力の高さ故に注目を集めた、沼木美鶴ぬまきみつるという男。

 天才と天才。これが一つの高校に同時に存在してしまっているのは奇跡だ。当然俺はすぐに沼木と接触し、対等に話し合える関係を築き上げたわけだった。


「僕たちは常に孤独——そう言ったのは君だったね。僕は別に、周囲との関係性なんて気にしたことも無かったんだけど。やっぱり君と話す時間は面白いよ。これが友達、というものなんだね」

「俺たちに寄ってかかるのはいつだって虫けらさ。無償でたかろうって魂胆が透けて見えてる。天才に群がる自分もまた天才かってか? 馬鹿な話だよ」

「それなら直接そう言えばいいのに」

「俺は世間体が大事なんだよ。プロにならなきゃいけないしな。変に払って噂が立てば危うい」

「僕だって同じだよ……まあでも、僕は君と違って人を寄せ付けるようなタイプじゃないからね」


 はにかむ沼木だったが、俺は笑えなかった。

俺とこいつは同じだ。だから天才には天才なりの世間からの報酬ってものがなくちゃいけない。タダで恩恵に預かろうとする雑多な無個性共ではなく、もっと輝くための環境が用意されるべきだ。俺はスポンサーもついて練習の環境が整えられているが沼木は違う。ただ計算能力がずば抜けているというだけでは大きな援助は受けられない。だからこいつは生まれてこのかた、全く同じ環境、何の変化もない街で才能を持て余している。世界はもっとこいつにも目を向けるべきなんだ。スポーツと数学。たかがその違いで得られる名誉にどうして差が出ようか。


「お前はもっと自分を誇れよ、沼木。こんな小さな町で腐ってるつもりもないだろ? どこに行くんだよお前は」


 聞くと沼木は「うーん」と難しい顔をした。指で机を数回叩き、俺の顔を見つめる。


「極めたいよ。僕の能力を」


 ……そう。こいつは、自身の力以外を望みはしない。スポーツと数学に差はあってほしくないが、違いは明確にある。

 スポーツとは複数の人間ありきで成り立つものだが、研究とは常に孤独の戦いだからだ。かつての学者を倣うことを含めれば孤独ではないかもしれないが、研究者の戦いには実質的に、対戦相手がいない。相手取るものが目の前にいない。競い、高め合うライバルは常に昨日の自分——それが学者というものだ。きっと俺以上の苦しみをこいつは知っていて、これからも苦しみ続ける。

 沼木という男は、一生苦しみ続ける——それが放っておけないから、俺はこいつが報われることを願うんだ。


「そうだ、ちょっと待ってろ」


 カバンからノートを取り出してページを一枚破く。切れ端に油性ペンで文字を書き込み、将来の名誉数学教授に手渡した。


「これは?」

「チケットだよ。未来の俺のな。俺は絶対に最強になる。それが何年後になるかわからないが、いつかこの町に称号を持って帰ってくる。恐らく俺は、この町で凱旋試合をやることだろう。そのときには俺を見に来てほしい。俺の終着点をお前にこそ見届けてほしい」


 沼木は呆れるように口端を釣り上げた。


「恥ずかしいこと言うね。そういうの、部活の仲間とか家族にこそ言うものじゃない?」

「それは対等な関係を築けていたときだけだ。俺はな、お前と戦いたいんだよ。いつまでも決着のつかない泥仕合を、生涯かけてやっていきたいんだよ」


 あっけらかんとした表情。

 ……うん。今のはひょっとして、変な意味に取られてしまっただろうか。


「いいよ。これは預かっておく。ある意味——僕の人生の指標、になってくれた。遠い将来で会った時に、今日みたいに語り合おう」


 この日は忘れられない。俺と沼木のターニングポイント。舞台は違えど、俺たちは羽ばたかなければならないと、約束を取り付けたのだった。

 ————だからこそ、許されない。


2/G・W


 ビー、ビー、ビー。

 ワンアクションでブザーが鳴る。こちら側にボールが回れば後はもう俺が攻撃するだけだ。仮に失点することがあるとすれば後方のサーブミスか、向こうのサーブが厄介か。確実に言えるのは俺の撃ったボールを受けきれるプレイヤーはいないということだ。


「——————ひゅー」


 集中。腹に溜まった空気を吹かす。気管を煙突として不要な養分を入れ替える。

 撃ちあがるサーブは弧を描くように相手コートに飛び込んでいく。当然レシーブ受けられる。これは上手い。セッター目掛けて届けられるボールは適切な高さ、程よいスピードを伴っていた。視界を広げる。今この状況、セッターは何を狙う? 俺の抑制は前提。ローテはセンター。190もある壁に対してむざむざと無駄玉を飛ばすつもりはないだろう。当然俺はクイックにも対応可能だ。ではセッターとスパイカーの挙動を見てみよう。

 ——瞬間、世界がスローになる。

 センター位置にスパイカーが一人……いや、二人いる。なるほど、これは————

 隣の仲間に目配せした。

 壁を二枚用意。奴ら、勝負に出るな。

 バレーボールは一瞬一瞬のプレイが大きく戦局を揺らがす。ボールが落ちない間は息をついている暇もない。観客席から見る風景とプレイヤーから見るコートは大いに違う。観客は上部から立体的に戦況を俯瞰することが出来るが、俺たちはコートの内部、さらに言えば、狭い視界の中しか見ることが出来ない。故に、味方の挙動は常に脳内で推測した上で相手の動きを見なければならない。全てを、予測しなければならない。

 セッターにボールが渡る。スパイカー二人が同時に出る。クイックとバッククイックの二択問題。さあ、どちらが来る。見ろ、見ろ、見ろ。

 セッターがボールを上げる。同時に隣のブロッカーが跳躍する——俺は、飛び立たない。

 予想通り。セッターはクイックでもバックでもなく、ライトに上げた。しかしそれよりも前に俺がスパイカーを止めに行く。

 俺を抑えるなら消耗させることを優先させるだろう。比較的動きの少ないセンターポジの俺を前に、わざわざセンタークイックで惑わすような真似はしない。意識を誘導させて一点奪い取る算段……仮に外したとしても、俺を動かして疲労を溜めさせる——その策略は俯瞰していた。いいぜ、乗ってやるよ。


「タッチ!」


 果たして相手側の凄まじい攻撃は俺の手によって威力を弱めた。

 後方の仲間は無事にボールをセッターへ届ける。センターに戻る必要はない。この位置でいい。来い。

 そして、俺を目指してボールが上げられる。

 助走。数歩、幅を持たせて大地を駆る。そして踏み込み、並行だった運動エネルギーの流動を押しとどめ、縦方向へと変換させる。跳躍。助走分のエネルギーはそのままバネとなり、浮き上がった俺の眼は瞬間コートを俯瞰する。どこを狙っても同じだが——あそこにでも撃つか。

 そして、ボールは俺の目の前に落ちていく。

 イメージはボウガン。右腕を大きく引き、左手でボールに照準を合わせる。解放するエネルギーとボールのタイミングが合致したとき、この俺の粉砕奥義は完遂される。

 そして掌に、バレーボールは収束した。


 ビー!

 俺は空いている場所を狙った。だから、それを防ごうと飛び込んだ相手プレイヤーに運がなかった。しばらくの間、彼は立ち上がれずそのまま退場を余儀なくされた。

 ——全く、我ながら残虐な。

 G・Wとは暴力の名である。俺のアタックは常に人の身を壊す。

 観客席を見上げた。相変わらずファンファーレを吹いている。少しは相手の身にでもなったらどうだ、虫けら。気持ちの良くない応援だ。さながらデスレースに駆けるギャンブラーを眺めている気分だよ。

 だが、お前だけは違うはずだ。沼木。どこだ、どこにいる? お前はどこから、俺を見てくれている?

 ビー!

 ブザーの音でコートに意識を引き戻すと、相手チームは再び選手交代を行っていた。負傷したプレイヤーの代わりに入ってくるのは、前の試合では見なかった小柄な青年。身体も細く、鍛えられた肉体とは思えない。そして彼はゴーグルをかけていて——待て。


「——な、に?」


 なぜ、お前が、そこにいる?



1/M・L


 チケットを握りしめて歩く。数年前に親友が渡してくれた手書きのチケットだ。

事案が起きている施設にやっとの思いで到着するやいなや、自動ドアから大勢の一般客が悲鳴を上げて跳び出してきた。漏れ出るブザー音。


「……ああ」


 僕は、全てを察した。



0.5/


「今、なんて言った」


 卒業の近い二月の頃だった。俺たちは相変わらず誰もいない早朝の教室で語り合っていた。俺はとっくにプロのチームへの配属が決まっていて、既に練習にも参加させてもらっている。確実に世界への道は拓かれている。止まる理由はない。俺は生涯を通してバレーボールに身を捧げる。そんな覚悟をとうの昔に定めたはずだったのに。


「うん。大学では——哲学について学ぼうと思う」


 沼木が、数学を捨てた。

 何気ない会話の途中で唐突に切り出された告白。まるで昨日の空の色の感想を言うような気だるさで、沼木は微笑みながら伝えてきたのだ。

 納得できるはずが無い。拳が震えた。つま先から血が巡っていくのがわかった。気づけば俺は、ヤツの両腕を掴んでいた。


「何があった?」


 心配の気持ちは込めたつもりだ。心に黒いものがどさりと落とされたのは事実だったが、今は隠さなければならない。

 しかし沼木は一向に表情を変えず、


「新しいものを学んでみたいと思ったんだ。数学ばかりの人生じゃもったいないからね」


などと抜かした。


「俺との約束はどうなる」

「君のことは応援するよ。もちろん試合も見に行く」

「そうじゃない。お前、わかってるのか。お前が数学を捨てたということは、もう俺とは対等にいられないということなんだぞ」


 語気が強まる。汗が滲む。沼木の身体を握りしめる手に、なおさら力が入る。

 だが、骨の浮き上がった亡霊のような少年は痛がる素振りも見せずに返した。


「——やっぱり、君はそう思うんだね」


 表情が暗い。視線が冷たい。なんだそれは。裏切ったのはお前の方だろう。それを、俺の方が期待を裏切ったかのように。


「嘘だと言え。誰かに何か吹き込まれたか? 疲れでもしてるのか?」


 何度も揺さぶった。夢から醒まそうと。夢から醒めようと身体を揺り動かした。だがそれでも沼木の顔は変わることが無かった。


「僕が決めたことだよ。変わらなければ、僕は自分を認識できなくなる」

「それは何かの哲学か? 変な本でも読んだんだな、そうだろ」

「いや? たまたまそう思い至っただけだよ」


 馬鹿な。

 偶然の思いつきが、今までの人生を全て無駄にするような選択に繋がるものか。


「目を醒ませ。頼むから、沼木。お前は——俺が尊敬した、沼木のままであってくれ!」


 しかし、ヤツは……光の消えた目で、俺を嘲笑った。


「無理な相談だ。僕はもう、天才になってはいけないんだよ。君も同じように」


 ……俺も、同じ? 俺にもこの道を捨てろと?


「誰だ、お前は」


 手を放す。怒りで我を忘れそうだ。目の前の優男は、俺の知っている沼木美鶴ではない。


「誰だ、お前は」


 何度も何度も聞き返す。そして……男は諦めたように伝えた。


「今はまだ、沼木美鶴だよ。かろうじてね」


 ビー!

 ブザー音。

 区切りの音。

 気づけば何気ない日常の中でもブザーの音が聞こえていた。体育館の床を軋ませるシューズの音もまた、俺の全ての生活の中に入り込み始めていたころだった。

 砂嵐のようなその音を頭に押しとどめながら、一人で教室から出て行った。



3/G・W


「そうかよ。お前、ただの飽き性か」


 ネット越しにゴーグルをかけたプレイヤーに話しかける。見間違うはずのない顔。裏切り者。


「なんか言えよ沼木」


 ヤツは返さない。ただじっと、俺の目を見つめ返すだけだ。あのときの、光が消えた目のままで。

 軽蔑する。そんな貧相な身体でよくもまあ俺と同じ舞台に立てたもんだ。その点は評価してやる。だから——


「潰す」


 俺がG・Wでよかった。この力はまさしく、お前を破壊するためにあったんだ。

 ビー!

 ブザー音がなる。サーブボールは相手のコートに向かい、そして攻撃へと繋がっていく。


「あ?」


 沼木はぼーっと突っ立ったままだ。おい、何してる。連携しろ。お前はバレーをしに来たんだろ。

 相手のスパイクはうちのリベロが受けきった。そしてセッターが前に出て俺にサインを送る。


「……そうかよ」


 白い線の位置まで下がる。俺のスパイクはどこを狙っても結果は変わらない。今までだって気まぐれで狙うフリをし続けていただけだ。だが……


「初めてだよ。こんな攻撃の仕方は」


 明確に、殺意を持って、人を狙って攻撃しようと思った。

 上がったボール目掛けて飛び込んでいく。

 飛翔。瞬間コートを俯瞰する。だが最初から狙いは一つだ。さっきから立ってばかりで何もしようとしないお前目掛けて、この一撃をくれてやる。


「ぶっ壊れろ、沼木——!」


 今まで一番の力を込める。運動エネルギー、位置エネルギー、筋力、握力、怒り。

 刹那、頭に稲妻が奔り、何かが壊れるような音がした。

 びー、びー、びー……

 鳴っていない警報音が、響いている。

 そしてボールはコンマ秒で撃ち落とされ————沼木は、平然と殺した。



「——は?」


 ボールの勢い全てが無へと化し、敵側のセッターに打ち上げられる。ぷかりと風船のように浮いたボール……俺の方が、何もできなくなった。

 あり得ない。俺のアタックを、レシーブした? あの貧相な身体で? どのように?

 沼木は、ぼーっと立ち上がった。痙攣もしていない。痛みに喘いでもいない。死人にように、俺を見つめている。俺のアタックに意味はないと告げるかのように。

 愕然としていた俺は、そのままブザー音を聞き漏らした。

 気づけばこのチームは初めて、相手側の攻撃による失点を許した。


「何をした」


 問いかける。しかし無言しか返ってこない。


「何をした、沼木」


 石のように固まったままの沼木に、俺は更に声を荒げた。


「……なんなんだよ、お前は!?」


 そこまでしてようやく、ヤツは口を開いた。沼木美鶴は、喋った。


「39763897295054278695476^2755287860768682986^39861962^9869^09269868976\7-9-376-38792868935670287376^386368^683-8^87830」


 俺の知らない言語を。






2/M・L


 ——思えば僕は、自分ながらに気づけていた。自分の異常に。何かが致命的に外れていることに。頭のネジ一本。それだけで説明がつけばよかったのだろうけれど、どうにも数百本くらい欠けている自覚があった。

 僕が外れているなら、同じである踏牙も同じのはずだった。でも彼は全く気付いている様子はなく、まだ子どもだった僕は気にしないことにした。

 それが、気にしなければならないことに気づいたのは、高校最後の年の秋ごろ。ある大学の数学部を志していた僕は突然、世界の異変に気付いた。


「23564い5う3う54yp3う@45いうy389うq45t^y90うw458-59353q866y^38753t-9ゆ54wgんわ8gんvw85495q7386-2」


 ……あれ?

 言葉が、言葉でない。世界が、世界でない。

 目に見える物全てが。耳に聞こえるもの全てが、数値化されるようになってしまったのだ。

 かろうじて口から出るものはまだ日本語のままだった。

 でもその日の夜、僕は不安に駆られた。気づいたのは家族と夕飯を食べていたときだった。

 朝から続いていたその現象に、夜になってやっと異常だと気づけたのだ。

 つまり言い換えれば、世界が数字に置き換わるというこの現象を、僕は何の疑問もなく受け入れてしまっていたということになる。

 まだ自分が自分でいられているうちに……ツテを使って医者を頼った。

 結果として。僕は脳が、氾濫していたのだ。

 人間が記憶を貯蔵する場所、大脳皮質。さらに長期的な記憶の保持や新たな記憶を蓄積する海馬という部分が、僕の数学に関する知識量に耐えられなくなったのだ。そして破損した脳の部位を補うように、他の機能が肩代わりする。その際、言語野の方に連鎖して異常が発生した。言語の生成や発話、理解を司る言語野にまで僕の病的なまでの数学への探究心が侵食し——僕にとっての言語が、書き換えられたのだ。つまり、日本語を、数字で理解するようになってしまっている。

 本当にそんなことがありえるのか。そもそも破損した機能を他の脳の部位が補う、なんてことは聞いたことがない——しかし、現に起きてしまっている。

 この事実を、視覚野までもが乗っ取られる前に気づけて良かった。全てが変えられてしまう前に僕は勉学から離れ、脳を治していくことに集中した。

 だがそれはつまり、数学という自分の夢を捨てることに他ならなかった。一番の親友である踏牙との約束を反故にしてしまう。

 だがそれでも、言語を取り込んだ。人の言葉を取り返すために。僕のこれからの人生は、それだけのために費やすと決めた。そのために一切の数字を視界に入れずに生きなければならない。では何をすればいいか。

 そうだ。読もう。人の紡いだ人の言葉を読もう。数学というものが思い出せなくなってしまうくらいに読み続けよう。それも難しいものがいい。簡単で退屈なものじゃ、すぐに数学の道に戻ってしまいそうだ。

 そうして、僕は、あっさりと親友の夢を裏切った。躊躇はなかった。夢を壊すこと以上に僕は、僕デナイ者に身体を奪われることが恐ろしかったのだ。


3/M・L


「君は僕と同じだ。踏牙。頭が壊れている」


 ゴールデンウィークで賑わう双藏市のショッピングモール。数年前に取り壊されたアリーナの代わりに建てられたこの施設の中で、一体の怪人が暴れている。

 ビー、ビー、ビー。

 施設中にサイレンが鳴り響く。これら全て、館内の危険を伝えるものだ。

 その音を嬉々として身体全体で受け止める半裸の怪人——かつて上ヶ戸踏牙だった男は、恍惚とした表情で天蓋を見上げている。

 哀れだ。

 それはアリーナの照明じゃない。ガラスを通した太陽の光だ。君が聞いているこの音も、試合の開始を告げるブザー音じゃない。君を危険と判断した世界からの隔絶の証だ。


「僕は最初に知識が逝った。君の場合は、運動をつかさどる部位がやられたのか」


 脳には詳しくないが、運動野のあたりか。

 力の制御ができなくなった踏牙はいつしか本当にバレーボールを破裂させられるようになり、プレーするだけで死傷者を出す危険因子として追放された。ルールのないスポーツは存在しない。ルールはプレイヤーをしばりつけ、逸脱した行為を行わせない役割を持つ。しかし踏牙は、ルールの中にありながら人の道を外した。

 アイツの頭には何が残っている? スポーツで勝利する以外に何を記憶している?


「キコエルカ、ヌマキ……コノカンキャクタチノ、カンセイガ!」

「……そうか。君はもう見えていないのか」


 僕よりも酷い。目がやられてる。彼はもう、コートという自分の世界しか認識できていない。今もまだあいつは試合を続けているのか。幻想のコート、存在しない観客の声援を浴びて、殺人を繰り返しているのか。

 踏牙の後方に広がる凄惨な風景をちらと見る。この怪人を止めようと飛び込んでいった警官たちの死体だ。血だまりがそこかしこに広がっていて、ゴールデンウィークも酷い休日になってしまった。この事件はどうせ公には広まらない。せめて僕だけでも祈りを捧げてやりたいところだが、上司は叶えてくれるだろうか。

 彼のような異端者を、隠語で「モグラ」と呼ぶ。人間社会の地下に潜む外れ者。本来人の限界を抑制する脳の働きが生まれつき破損してしまっていた人間の成れの果て。彼らは肉体の成長に歯止めを効かなくして、このように怪人化する。

 これでも、人間だ。決して非人間ではない。脳の働きを度外視した成長の結果がこれなのだから、人間とは不思議なものだ。まだまだ未知の可能性を秘めている。僕としてはもう勘弁してもらいたいところだが。

 ポケットから一枚の紙きれを取り出す。そこには大雑把に、「G・W記念試合!!!」と太い黒文字で書かれている。僕がずっと大切に持っていたものだ。

 彼にまだ意識が残っているなら、もしくは。


「踏牙。チケットだ。どうだい、僕たちは……この世界で、ちゃんと生きれているかい」


 近づき、見せる。

 踏牙はしばらくそれを眺めていた。憧憬に思いを馳せるように目を見開き、口を大きく開けて。しかし————


「シネヌマキィ!」


 彼は、払い落した。

 僕は、笑うしかなかった。


「……君はずっと、コートと、僕しか見えていなかったんだな」


 それじゃあ、もう君は戻ってこられないじゃないか。サヨナラも言えずにこの有様か。


「思えば君から強引にでも、夢を捨てさせればよかった」


 怪人が肥大化した掌を振り上げるのを見て大きく後退した。地面に叩きつけられたそれは施設全体を揺れ動かすほどの地震を起こす。ぐらぐらと横に揺れる視界に朦朧としながら、改めて目前の敵を標準に入れた。


「これが、君の終わりか。僕もいつか、後を追おう」


 もう、アレは止められない。

 だから僕も——リミッターを外した。













4/M・L

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 ——そして、上ヶ戸踏牙はようやく破壊された。





5/M・L


「沼木ちゃんお手柄ぁ、今回のモグラは中々レアケースだった。これは私のラボに運んで、要解剖しておくよ」


 組織の人間たちが次々に施設内になだれ込み、一斉に証拠隠滅を行う。ここで発生した事故と被害者の存在は無へと帰す。そのことをちゃんと日本語で思い出せていることに安堵しながら僕は本を取り出して文字をなぞりつづけていた。


「数字病、治まんないん? 私としてはもうちょっと観察してたいんだけどさぁ」

「099j……や、めてくださ29ekい、金三津さん、い、今、とりこぉ……取り込んでい、るので」


 僕らのような破綻者を治療、および研究している金三津きむみと 湖林こりんは、地面にまで延びている髪を柳のように揺らしながらケラケラ笑った。


「ははは! 今日はキルケゴール? 病んじゃうってそんなの読んでたらさー!……それよりさ、今日の友達だったんでしょ? どうよ感想は。知り合いを手にかけるってどんな気分―?」

「……仮にも、医者が」


 気分が悪く、本を閉じてドクターの前から消える。後方から野次が聞こえてくるが、僕はもういい加減帰りたい。

 言うものか。僕と踏牙の関係なんて。

 互いに孤独のままだった僕たちのことなど……虫けらに、わかるはずがないだろう。


 ふと後ろから、囁きの声が耳に届いた。


「悲しいねえ——全てを理解できてしまうなんて。ねえ、Math Limiter」

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破綻人間が二人 ~バレーボールと数学者~ 境 仁論(せきゆ) @sekiyu_niron

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