第5話 東雲視点

 今日のデートに誘う際、俺は不安で仕方がなかった。

 カラオケに夢中になっている空音サンを見つめながら小さくため息を吐く。

 彼女自身の言葉を借りるなら、空音サンは他の人と比べると忘れっぽいところがあるので、もしかしたら俺が恋人であるということさえも忘れているのではないだろうか、と。

 人よりネガティブ思考に陥りやすいため、それが不安で仕方なかった。


「ねえ、晴陽サン。一緒に歌お?」

「ガンバリマス」


 マイクを差し出してきた空音サンの頬はもう濡れていなかった。

 ニコニコと楽しそうな彼女に、先程の涙の理由を問いかけたところで答えは返ってこないだろう。

 答え合わせの必要などないようにも思える。

 生き生きとした彼女の様子に、先程のことなどすっかり忘れてしまったのだということを察した。

 俺はけして空音サンを傷付けようと思って言ったわけではない。

 自分を好いてくれる可愛い彼女を泣かせるようなことをするほど愚かではないつもりだ。

 しかし、そうは思っていても人の心とは複雑なもので理解し難い。

 一番驚き、そして喜ぶタイミングで口付けられ、咄嗟に出た言葉が彼女の心の傷に触れてしまったらしい。

 褒めたつもりだったのだが、上手くいかないものだ。


「ねェ、晴陽サン。キス、して?」


 先程とは打って変わった甘えた様子でねだってきた空音サンに動揺した。

 慣れた様子で口付けられるのもなかなかに緊張したが、自分からというのはその比ではないくらいに緊張する。

 俺には彼女のようなスマートなキスなどできはしない。

 おそるおそる抱き寄せて唇を重ねれば、空音サンが舌で唇をつついてくる。

 ゆっくりと口を開いてより深く交わそうとした時、歯と歯が強くぶつかった。


「ごめん、上手く出来なくて……っ」


 仕切り直しを願ったけれど、熱く濡れた瞳に見つめられて叶わなかった。

 空音サンがそこでようやくマイクをテーブルに置いて首に腕を回してきた。

 溶け合うように何度も角度を変えてキスを交わして、脇腹に触れていた手を揺らした時だった。

 空音サンが突然弾かれたように身体を離して、誤魔化すように一つ咳払いをして次の曲を入れた。

 よりにもよって、とため息を吐きたい気持ちになった。

 空音サンが次に歌ったのはセクシーで際どい一曲。

 官能的なフレーズを熱い吐息混じりに歌い上げる空音サンに、つい。


「ごめん、ちょっとトイレ」


 あまりにも露骨すぎてバレやしないかと思ったが、このままでいるよりはいい、と判断して席を立った。

 彼女は特に気にすることもなく誘うような振り付けを加えながら歌い続けている。


──晴陽サンは、おれのことそこまで好きじゃないと思う。


 自信が無い、不安で仕方がないというように空音サンが漏らした言葉を思い出し、壁にもたれかかってゆっくりと息を吐く。

 こんなにも夢中にさせておいて、自信が無いだなんて。


「罪な人だよ、空音サン」


 恨み言を言うように呟き、兆したものが治まるのを待つ。

 空音サンの方こそ、好きでもなんでもないんじゃないの。

 もしかしたらからかっているだけなんじゃないの。

 嫌な想像をしてしまって顔を覆った。

 空音サンは養父から性的な行為を求められた時、まだよく分かっていなかった彼女はそれに応じてしまったのだそうだ。

 そこから、彼女は徐々に崩れ始めたという。

 女としての尊厳を踏みにじられる行為に逆らえない自分。

 彼女が心を病んでしまったのは必然のようにも思える。

 そんな話を聞かされた時に俺は、空音サンが嫌われようとしているように思えた。

 付き合ったばかりで、何故。

 理由などないのかもしれない。

 色々と考えた結果、もしかしたらそうではないのかも、と思いつく。


 たすけて


 微かな声が聞こえたようだった。


《清いお付き合いなんて、おれは知らないよ》


 自嘲気味に彼女が投げ捨てた言葉を拾って、優しく包んで返してあげたことを少し後悔している。


《じゃあ、俺とはそういう付き合いでいいんじゃない?》


 何が清いお付き合いだ。

 一向に治まる様子のないモノが腹立たしくて盛大に舌打ちをした。

 何か別のことを、と考えると、ふと空音サンの寂しげな声が聞こえたような気がした。


 だいじょぶ。しんじてないから。


 信じているから、ではなく、信じていないから、

 その言葉が頭をよぎった時、冷水を浴びせられたような気になった。


「晴陽サン、おれ、疲れた。次晴陽サンね」

「ごめん、遅くなっちゃって」

「だいじょぶだいじょぶ」


 部屋に戻るなりマイクを差し出されて笑みを返す。

 チクチクと痛む胸に気付かれてはいけない。

 画面には全国平均よりも少し上の点数が表示されている。

 空音サンから、歌は下手では無いと思う、と聞いたことがある。

 下手では無いどころかとても上手だ。

 手を繋いで二人で交互に歌う。

 何曲目に入った頃だったろうか。

 空音サンがこちらをじっと見つめるようになった。

 どこか居心地の悪さを感じて「どうしたの」と問いかける。

 繋いだままの手に視線を落として口を薄く開き、何も言わずにそのまま閉じた。

 もしかして嫌だったんだろうか、と手を離そうとしたら、その手はしっかりと握られた。

 何度か唇を動かしていたけれど、ついに言葉を紡ぎ出すことはなかった。

 リモコンを操作して新しい曲を入れて歌い始める。

 なんだか寒いな。

 この冬の季節に冷房なんてかかっているはずもないのけれど、ひやりとした空気についエアコンに視線を向けた。

 異常を知らせるランプなどが点灯していないことを確認してから空音サンの方に視線を戻す。


「好きだよ、空音サン」


 無性に抑えられない気持ちになって彼女にそう告げた。

 彼女は振り返りにっこりと微笑む。

 そこでおかしな疑問を持ってしまった。

 、と。

 歌い終えた彼女が不思議そうに首を傾げている。


「どしたの?」


 心配そうな彼女の声を聞いたら、先程覚えた違和感はさっと消えてしまった。

 なんでもないよと首を横に振り、リモコンを操作する。


「晴陽サン」


 名前を呼ばれて空音サンを見ると、いつもより少し潤んだ瞳がイタズラに細められた。

 ゆるりと口角を上げた彼女は繋いでいない方の手でこちらを指差す。

 そして少し指を下げて言った。


「全開だよ、社会の窓」

「うわ、ホントだ。え、いつからだろう。恥ずかしい」


 悪い笑みを浮かべたままの彼女はとても楽しそうだった。

 ファスナーを閉めながらつられて笑ってほっと息を吐く。

 終了5分前の連絡がきて、二人で名残惜しむようにゆっくりと手を解き、コートを着た。

 会計を済ませてからカラオケの前に寄った居酒屋の前に戻ることにする。

 すぐ近くの場所までたっぷりと時間をかけて歩きながら自然と手を繋いでいた。


「ちょっと自信なくしちゃったな」

「何の自信? どうして?」

「せっかくいい曲歌ってたら途中でいなくなっちゃったから」


 あの際どい曲の話か、と遠い目をしたけれど彼女はそれに気付いてくれない。


「あの曲、アズがすっごい褒めてくれるんだよ」

「前園サンは空音サンが何歌っても褒めるでしょ」


 それもそうかも、と顎に手を当てた空音サンは純真にも見えて可愛らしい。

 カラオケ店のブースで見せた妖艶な様子とは大違いだ。

 一体いくつの顔を持っているのだろう、と興味が湧いたが問うことはしなかった。


「あの曲はズルい。それに、あんな声で歌われたらさぁ……」

「ズルいって何? 声が何?」


 からかうためにわざと聞いてきているのかと思ったけれど、空音サンはキョトンと目を丸くしておりいつもより幼い印象を見せていた。

 これが演技だったらすごいな、と思いながら短く告げる。


「トイレで察して」


 すると、彼女は途端に嬉しそうな顔をする。

 彼女にはどうやら欲をかきたてることができたかどうかの方が重要らしい。

 空音サンの過去など関係ないと言ったことはあるのだが、彼女を歪めてしまったであろう養父の存在に怒りが湧いた。

 あまり多感な方ではないつもりだったけれど、さすがに我慢ならなかった。


「今度はホテルにでも行く?」


 ニマニマとしている空音サン。


「オジサンをからかうんじゃありません」


 ぴしりと言うと空音サンが笑顔のまま固まった。

 じわりと瞳が潤み、溢れだしそうになっている。


「ごめん、びっくりさせた? 怒ったわけじゃないからね?」


 強い口調で怖がらせてしまったかとすぐに謝罪したが、彼女の瞳からはそのまま涙がこぼれ落ちてしまった。

 ゆっくりと離れていく指先を掴めない。

 俺はただ静かに彼女の後に続いて歩いていくことしかできなかった。

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BiteRing〜この傷が愛の証〜 月神 奏空 @PlayMusic_SKY

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