第4話 サナトリウム
その日は、普通に温泉に入り、そして、おいしいものを食べるという、
「旅行という癒し」
を堪能していた。
それが、翌日になって、
朝の目覚めは、今までにないくらいにいいものだった。
「仕事に行かないでもいい」
というだけでも、気分が違う。しかも、いつもの喧騒とした街中にいるわけではなく、「空気のおいしいところにいる」
というだけでも気分がいいというものだ。
そんな状態において、目覚めが心地よいのは有難いことだった。
ただ、なぜか、軽い頭痛があったのも事実であった。
それでも、頭痛薬を呑まなければいけないほどではなかったのだが、気持ち的に、頭痛薬を呑んでおいた。
「せっかく空気がおいしいところにいるんだから、なるべく、気持ちいい時間を長く過ごしたい」
という気持ちになるというのは、当たり前にことだった。
そんな空気を感じながら、薬を飲むと、また、指先の痺れを感じてきた。
今回は、朝食を食べた後だったので、
「お腹が空いている」
という発想ではなかったのだ。
ただ、痺れは、
「お腹が空いている時」
と、ほとんど変わらない感じだったのだが、それを感じると、
「お腹が空いているわけではないのにな」
ということであった。
もっと言えば、
「空気のいいところに来ていることで、自分の中に、油断のようなものがあるのかな?」
という思いがあった。
確かに、いい空気を味わいながら、歩いていると、その向こうに、見える森が、自分の中で、
「額の中に映った絵画」
のように見えたのだった。
その時に感じたのが、
「最近になって、描き始めた絵」
のことであった。
今回も、実は、午前中、散歩から帰ってきてから、少し休憩して、このホテルの近くにいい場所を決めて、絵画に勤しもうと思っていたのだ。
特に今回の散歩も、
「絵を描くに最適の場所」
ということで、その場所を探すという、
「自分なりの使命を課していた」
のであった。
実際に、その場所を探そうと思いながら歩いていると、最初に痛かった頭が少しずつ、楽になっていくのを感じた。
「よかった」
と感じたが、
「このまま、歩いていると、見えている景色に、錯覚を覚えるのを感じた」
今までも、絵を描こうと思って、そういう場所を物色していると、
「何かの錯覚を覚えたことが何度あったことか」
と感じたのであった。
散歩自体は、それほどきついとも思わなかったし、
「ここがちょうどいい」
という場所も見つけることができた。
それを思うと、
「今回の散歩は、気持ちよかった」
ということで終わってもいいはずだった。
確かに、頭痛があったのも、無理もないことであったが、その代わり、頭痛を意識していると、
「頭痛が、錯覚を覚えさせるような気がする」
と感じるのだった。
そんな中において、
散歩をしていると、遠くの方から、
「ワオーン」
という犬の鳴き声が聞こえた。
「何だろう?」
普段から、犬が好きなので、近所で飼われている犬を数匹、馴染みだと思って、よく散歩の途中に頭をなでてあげたりして、自分では、
「可愛がっている」
と思っているが、実際には、
「自分が、構われているのかも知れない」
とも感じることがあった。
しかし、犬たちを見ていると、
「犬の顔を見ていると、その表情は、こちらが思っているよりも、意外と、あまり気にしていないのではないか?」
と思うことがあり、急に冷めた気分になることがあった。
飼い主も、
「ごめんなさいね。この子は、気まぐれなところがあるから」
と、こちらを気遣ってか、犬が気にしていないのを見て、そういって、言い訳をするのだった。
もちろん、犬もそんなつもりもないのだろうし、買主に何ら責任があるわけではない、むしろ、自分が犬にかまって、構ってくれない犬に対して、勝手に失望しているだけではないか。
そんなことを考えると、
「俺は、かまってちゃんというよりも、違う形の承認欲求が強いのかも知れないな:
と感じた。
ただ、犬の鳴き声は、自分で感じていることに、ある程度の自信はある。
「犬が何かを訴えている」
「何かをしたいと思っている」
などということは分かっているような気がするのだ。
しかし、だからといって、それが、確証があるものだとは言えない。
勝手に自分が感じていることが、
「正しい」
と思っているだけだ。
しかし、犬の顔を見ていると、
「その時の犬の気持ちが分かる」
と思うのだった。
気持ちが分かるから、吠えている理由が分かるというものだが、どうも、買主が考えていることと違うように思うのだ。
「だから、分かってくれない買主の代わりに、俺に訴えているのだろうか?」
と感じる。
その発想は、間違っていないような気がするのだが、そう考えると、これも、
「承認欲求の表れだ」
と言えるのではないだろうかと感じるのだった。
絵を描き始めた時のことを、秋元は思い出していた。
最初に絵を描きたいと思ったのは、高校生の頃だった。
正直、中学生になった頃から、
「美術」
「音楽」
などという芸術系のものには、一切の興味を失っていた。
絵画も、工作も、実際には小学校の頃から嫌だった。正直に言って、
「面倒くさがり」
なところがある。
だから、一番面倒臭いと思ったのは、
「絵具を使うことで、汚れる」
ということであった。
「汚さないように、気を付けてやればいいじゃないか?」
と他の人はいうだろう。
「それができないから、面倒臭がり屋だって言ってるんだよ」
というと、
「いやいや、そもそも、絵の具で汚れることと、面倒臭がり屋というのは、意味が違うのではないか?」
と言われるので、秋元は、その意味が分からなかった。
相手はそれを見て、
「言い訳を考えているのだろうが、その言い訳が見つからないから、考え込んでいるんだな。卑怯だ」
と思っているのかも知れない。
第三者が見れば、そう感じるだろう。
しかし、
「絵を描くのが面倒くさい」
と考える時点で、絵を描くだけの気持ちになっていない。
つまりは、
「初期段階から、心構えがなっていない」
ということであろう。
それが分かったので、
「もう絵を描くなんて俺が思わなければそれでいいんだ」
ということである。
特に、それ以上の授業では、
「もうどうでもいいや」
という感じになっていた。
真面目に授業として参加する気持ちもないし、そもそも、
「芸術って、押し付けるものなのか?」
と考えるのだった。
確かに、学校の授業として存在するのだから、
「やらなければいけない」
という理屈なのだろうが、
「嫌な人間に無理矢理押し付けるというのは、芸術という意味で、ありなのだろうか?」
と考えるのだ。
そんな芸術だったが、今から思えば、
「あの頃の学校の勉強というと、主要科目だけでなく、それ以外の科目も、すべてが押しつけだった」
と思っている。
主要科目は、もちろんのこと、好きな人でもない限り、
「受験に必要だから、仕方なく」
と思っていることだろう。
そういう意味で、学校の勉強を、
「学問」
として捉えている人がどれほどいることだろうか?
理科や社会科などは、必須科目の中でも、
「学問らしい」
と言えるのではないか?
数学や、英語、国語も、学問ではあるが、どうしても、学問として、社会に出てから必要となるであろうことは、
「理数系」
「文系」
という意味で、
「理科、社会、国語」
ではないだろうか?
もちろん、英語などは、仕事で海外に行く場合などは、取得必須であろうが、それ以外の学問としての、リアルな習得となると、
「化学、物理学、生物」
などの、理科全般ではないかと思えるのだった。
秋元は、理科の中でも、化学は好きだったが、他は嫌いで、
「自分に合わない」
と思ったので、文系に進んだ。
とりあえず、
「つぶしが利く」
と言われた、法学部に入学し、無難に卒業できたが、今から思えば、
「公務員試験でも受けておけばよかった」
と思うほど、就活の時、
「就活は大変だ」
と思い知らされたものだった。
だから、ブラック企業に入社する羽目になったのだが、今は少しでもマシになったことは、
「よかった」
と言えるだろう。
だが、もっと言えば、ブラックが少しずつでもマシになってきたところで、
「芸術にでも親しみたい」
と思うようになったのは、自分の中では、
「タイムリーだった」
と言えるだろう。
芸術に親しむということで、
「絵画にするか?」
それとも、
「工作にするか?」
それとも、
「音楽にするか?」
と考えた時、
まず、音楽は最初から消えていたといってもいい。
それはなぜかというと、楽器を弾く以前に、
「楽譜の読み方が分からない」
という状態だった。
「楽譜を見るというのは、今から勉強しなおして、英検の1級に合格を目指そうというようなものである」
と言えるくらいだった。
しかし、そんなことをいまさらできないと思ったことで、
「音楽を断念し、美術関係に絞ろう」
と考えたのだ。
絵画と、工作は正直悩んだのだが、
「工作は場所のいるし、汚くなる可能性がさらに高い」
ということで、
「大学時代であれば、美術室のような、アトリエのようなところで作業できるだろうが、社会人になると、そうもいかない」
ということになり、
「絵画の方がいい」
と思うようになった。
絵画だと、確かに、
「絵具で汚れる」
という、昔の課題をクリアできていないというのもあったが、最初から、下に敷くものを用意したりと、準備さえ整えておけば、そこの問題はないのだった。
それを思うと、
「俺が芸術を避けていたのは、そのあたりの前準備を面倒臭いと思い、その言い訳を考えていたからではないか?」
と感じるようになったのだ。
芸術というところを考えると、
「絵画の方が、持ち運びもできるし、旅行先などでも、キャンバスを広げて描ける」
ということを考えると、
「やりがいという意味でも、楽しきできそうな気がする」
と考えたのだ。
今回も、絵を描くための、セットを持ってきていた。
大きなものは、最初から宅配便で送っていたので、もちろん、そのことも、宿の人には話しているので、快く了承してくれた。
しかも、その時、
「僕は趣味なんですけど、絵を描きたいと思うんですが、いいスポットはありますか?」
という風に聞いた。
もちろん、絵画について相手が詳しいとは思わなかったが、含みとして、
「他の泊り客でも、絵を描くことを目的にしてくる人がいるのか?」
ということが知りたかったのだ。
すると、宿の人は。
「ええ、ありますよ。時々、絵を描くに来られる人も数組いらっしゃいますからね」
というではないか。
「それは、アマチュアの人ですか? プロの人ですか?」
と聞くと、
「どちらもおられますよ」
という。
それを聞いて秋元は安心できた。
「なるほど、ここで絵画を描くというのは、恥ずかしいことではないのだ」
と改めて思った。
もっとも、これだけの風光明媚なところなので、絵を描きに来る人、写真を撮りに来る人、または、釣りにくる人と、趣味は様々だろう。
そういう意味で、
「絵画や、写真は、明らかな芸術であるが、釣りは趣味でもあるし、もっといえば、スポーツでもある」
と言えるであろう。
今回は、
「芸術としての絵画を、趣味で勤しむ」
と思っていたので、
「プロだってくるところだから、アマチュアの遊びくらいは、宿の人も気を遣うこともないだろう」
と感じた。
今回、宿に泊まった昨日は、
「今日は、客は俺一人かな?」
と思っていると違ったようだ。
一人の客が、ちょうど温泉に入ると、先客として入っていたのだ。
初老と言ってもいいかも知れない人で、温泉に浸かりながら、遠くを見ているのが印象的であった。
こちらが入って行っても、何も言わない。
別にそれでいいのだが、
「見る限り、髪の毛がかなり白くなっていて、いかにも芸術家」
という感じだったので、思わず話しかけてみた。
「すみません。こちらは初めてですか?」
と聞いてみた。
自分が初めてなので、もし、前にも来たことがあるのだとすれば、そこから話が盛り上がると思ったからだ。
すると、その男性は。
「ええ、私は、ここ数日ここに泊まっておりますよ」
というではないか。
連泊ということは、少し考え方が違い、次に考えたのが、
「湯治目的ではないか?」
と思ったのだ。
「そういえば、お世辞にも、身体が丈夫そうにも見えないので、何か持病があって、それに対しての治療を兼ねての旅行ではないかと思ったのだ」
「どこか、お悪いんですか?」
と聞くと、男性は一瞬、こちらに眼を向けて、すぐに今まで見ていた明後日の方向に眼をやったのだ。
「いやいや、わしは湯治というわけではない」
と、こちらが思い描いたことを、すぐに分かったのだった。
「じゃあ、他に目的が?」
と、病気でもないのに、数日泊っているというのは、
「それなりに目的がハッキリとしているからだろう」
と感じたのだった。
「わしは、小説を書いておるのでね」
というではないか。
「ああ、なるほど、編集者から逃げるためかな?」
とも思ったが、結局は、逃げても作品を書かなければいけないというジレンマには変わりはないのだから、こんなに落ち着いているのを見ると、
「どうも、逃げてきているようには思えない」
ということであった。
「芸術というのは、どこまでが、考え方に沿うものなのだろうか?」
という、自分でもよく分からない発想をしたものだった。
そんな絵を描きたいと思って、絵を描けるような場所を探っていると、何やら、いつの間にか、
「森の中」
に彷徨いこんでいた。
森の中は、自分で思っているよりも、さらに、奥に入り込んでしまったのか、後ろを振り向くと、
「あれ? こんなに奥の方まで入り込んでしまったというのか?」
と感じたのだった。
その奥を覗いてみて、さらに突き進んでいくと、次第に、深緑が、さらに、黒さを増幅させているようだった。
その奥に入り込んでいることに気付くと。
「木々の隙間が、見えているようで見えなくなっていて、上を見ることで、帰り道が分からなくなっているのではないか?」
と感じるのだった。
まるで、
「つり橋の真ん中にいるような感じだ」
来た道を戻ればいいのか、さらに先に進めばいいのか、考えれば答えはおのずと見えてくるはずなのだが、見えている答えが、見えないのは、
「前と後ろの感覚も見えないくせに、上を気にするというのが、言語道断だといえるのだろう」
ということであった。
前を歩いていると、どんどん、寒気がしてくるのは、その空気に誘われているという感じを受けたからだった。
見えているつもりで見えないのは、
「半分まで来ているとつもりで、まだ、どこまでしか来ていないのかということを考えるという意識があってのことである」
と言えるだろう。
深く入り込むことで、
「まるで不治の樹海のようではないか?」
と感じた。
確かに、このあたりには、
「樹海」
というものが多く、
「自殺の名所」
として知られている場所で、
「このあたりの樹海を舞台に書かれた小説も多い」
という話を聴いたことがあった。
そういえば、バスの運転手が、ここの入り口のところで、そのあたりに、
「作家の石碑」
が建っているというような話を聴いたのだった。
「その先生は、ミステリー作家で、社会派小説家として有名だったけど、よくこのあたりの樹海で、自殺したという人の話を書きにきていたようですよ」
というのであった。
「このあたり出身の先生なんですか?」
と聞くと、
「いや、そういうわけではなく、社会派なので、自殺者の悲哀や、大手ゼネコンが関わっているかのような事件が多いので、どうしても、会社の倒産であったり、詐欺のような事件に巻き込まれたりと、自殺者が多いようです」
という。
「でも、自殺なんだから、一人で自殺するということだろうから、樹海などもありなんでしょうね」
というと、
「いえいえ、それが、かの先生の作品では、心中という事件も結構あります。その場合は、睡眠薬を服用しているんでそうが、その場合は、樹海に迷い込むというのが、セットになっているようですね」
というのだった。
「心中ですか?」
というと、
「ええ、心中だから、その相手との間にトリックがある作品もあって、社会派の中でも、トリックなどを用いた、
「本格派探偵小説」
という形のものも結構するようだということだった。
そういえば、その作家の名前は聴いたことがあった。トリックなどは、ほとんどが、叙述トリックに近いもので、本格派探偵小説のような、
「派手さ」
のようなものはないが、その代わり、
「大人の小説」
といっていい、内容の本だった。
流行ったのは、子供の頃だったが、
「社会派探偵小説」
呼ばれるものは、次第にすたれて行っていた。
その頃から後は、ほとんど本を読むようなことはなかったので、欲わからない。
たぶんであるが、その頃は、
「ケイタイ小説」
と呼ばれる、
「何チャンネル」
だったか、一世を風靡していたようだが、正直、
「くだらない」
と思っていたので、見る気もしなかった。
まるで子供が読む絵本のように、無駄に空白が多く、絵文字と言っていいのか、まるで、象形文字か、楔形文字のような、へんてこな図形なのか、文字なのかで作られた本であった。
「こんなものが、こんな作品が売れるんだ」
と、
「この世の末」
を感じた。
さらに、それまでテレビドラマというと、原作は、その時に売れている小説か、あるいは、脚本家のオリジナル作品のどちらかが主流であったが、最近は、脚本家の作品は普通に残っているが、小説家が書いている小説がドラマ化されるということは、ほとんどなくなった。
その代わりが、マンガで売れた作品である。
売れっ子作家にでもなれば、毎回、
「1クールで一作品」
が、ドラマ化されるというのが、通常だといえるだろう。
ただ、最近では、
「小説が原作で、マンガ化し、そこから、ドラマ化するという、ちょっと面倒臭いような作品も出てきた」
この、マンガの原作のようになる、小説などの原作本のことを、
「ライトノベル」
というのであった。
ライトノベルは、結構人気のようで、特に、最近では、ドラマ化に合わせる原作だけではなく、
「ファンタジー小説」
と呼ばれるものが多かったりする。
「転生モノ」
ということで、
「異世界ファンタジー系」
の作品も結構あったりする。
また、今度はドラマの原作にも徐々になっていきているものとして、
「BL」
お呼ばれるものがある。
「ボーイズラブ」
つまり、
「男同士の恋愛」
である。
昔であれば、
「男色」
「衆道」
などと言われ、
「汚いもの」
というイメージがあったが、今は、
「美少年同士のラブマンガ」
なのである。
その漫画家の名前は確か。
「工藤雄介」
と言った。
彼の作品を、秋元は、全部読んでいるわけではないが、本屋にあった作品を、結構読んだ気がした。
連続ものというよりも、
「連作」
という感じが多く、一冊で完結がほとんどなのだが、その内容は、短編の一話完結の連作というイメージである。
「なるほど、いわれてみれば、このあたりの様子は、あの人のマンガに出てきそうな気がするな」
そして、最近出たと言われる本が、まだ本屋に並んでいないので、読んでいないが、結構、評判となった作品で、
「なるべく早く読んでみたい」
と感じていた。
そんなことを考えながら進んでいると、その先に見えているのが、何なのか、何となく分かってきたような気がした。
「今、俺は、工藤作品の中にいるんだ」
と考えていたからだ。
工藤作品は、ファンタジーの中でも切ない物語を感じさせた。
作者が男なのに、どこか、
「女性マンガっぽい」
と、感じさせるのは、
「メルヘンチック」
なところがあると思わせるからだった。
マンガの中には、
「男性ペンネーム」
を使っているが、本当は女性作家だったり、
「女性ペンネーム」
を使っているが、本当は男性作家だったということも、少なくはない。
しかし、最近はそれも少なくなかった。どこか、
「読者を舐めている」
と思わせる場合があるからだった。
この漫画家は、元々は、小説家だったという。
ラノベ小説を書いていたが、
「絵がうまいということで、自分の書いた小説を、マンガに起こしてみると、編集者から、正式に、漫画家としての契約となった」
つまり、マンガ一筋で、そこには、ラノベを介さない、マンガオリジナルを求められた。
元々、ラノベ小説というのは、
「マンガになって、将来、ドラマ化などというクッションを置いた、作品の完成させるための過程の一つ」
だったのだといってもいいだろう。
工藤雄介の作品は、本当にロマンチックで、さらに、どこまで浸透されているのかということを考えさせられるのであった。
このあたりを歩いていると、思い出してくる光景があった。
それは、目を瞑ってでも、見えてくるものであり、それが、このあたりの森の雰囲気と酷似しているのだった。
工藤のマンガは、一度読んで、その内容を感じさせると、
「こんなにマンガって、想像できるものだったのか?」
と感じた。
工藤のマンガは、読んでいくうち、次第に目を閉じるようになり、そこに、覚悟のようなものが、醸し出されて、普通なら、
「ラノベから、マンガ」
という形が主流なのに、
「マンガから、ラノベに落とすことができる作品を書けるという、実に希少価値な漫画家ではないか?」
と言えるのではないかと感じるのだった。
実際に、そのラノベを思い浮べてみると、
「普通のマンガであれば、これを小説や、映像作品にするのは難しい気がした」
と感じた。
しかし、
「映像作品にするためのラノベ化」
ということは可能ではないかと感じたのだ。
ということは、まずはラノベとして起こせるように、この光景を、実況中継をし始めたのだ。
ただ、このやり方を感じながら、ラノベに起こそうとすると、何とも不思議なことに、
「最初から、ラノベが想像できていたかのように思うのは、ただの錯覚なのであろうか?」
と感じたが、そうではないようだ。
頭の中に、他の作品のラノベが残っていて、マンガを見るたびに、そこに、別の意味での、
「既視感」
というものが存在しているように、思えるのであろう。
「既視感」
というのは、
「初めて見るもののような気がするのだが、初めてではない」
という感覚に近いもので、現象としての、
「デジャブ」
に酷似している。
既視感というものが、目の前に見ている、
「動かない光景」
であり、
「一枚の絵」
として見えている感覚を味わうのだ。
その光景が、目の前の森が、そのままの既視感として、瞼の裏に映っているかのようであった。
だが、そのまま何もせずに、その場にずっといるわけにもいかず、ゆっくりと前を歩いていく必要はあった。
そのたびに、森の中から移動することで、最初に感じた既視感が薄れるだけではなく、デジャブとして妄想に走った光景が、果たして自分の中で、
「デジャブ」
として出てくるのかどうかというのも、意識の中のことである。
とにかく、歩かなければ、どうしようもない。絵を描きにきたのだから、
「絵を描きたい」
と感じるスポットを探す必要があるのだ。
そんなスポットの存在を意識しながら、
「最終的には、逃れられない状況」
というものが、
「この場所には、以前から備わっているのかも知れない」
と感じさせられるのだった。
どれくらい歩いたのか分からないが、脚が張っているのを感じると、
「結構歩いたのではないか?」
と感じるのだった。
まるで、脚が攣った時のような痛みが残っているのは、それが、
「筋肉痛」
なのか、精神的な疲れなどから来る、
「他の病気を誘発されるもの」
ということで、これからの恐怖感を感じさせられるものに思えてならなかった。
森を少し歩いていると、先ほどまで、そんなところに、
「そんなものが存在するのだろうか?」
と思えるものが佇んでいた。
それは建物であり、この建物に対しても、
「既視感」
というものを感じさせられた。
「いや、今回は、既視感ではなく、状況を思わせる、デジャブなのではないだろうか?」
と感じたのだった。
つまり、
「その建物は、当然建物なのだから、動くはずはないのだが、それでも、感じるのはデジャブであった」
ということは、問題は、
「その建物の中にある」
ということになるのだ。
その建物が見えてくると、初めて見る建物であれば、まず考えることとして、
「入り口はどこだろう?」
ということを考えるだろう。
それだけ、
「中に入る気、満々だ」
ということになるのであろう。
その建物の中を想像しながら、まわりをゆっくりを回っていると、なかなか入り口が見えてこない。
「このままいけば、一周してしまうじゃないか」
と感じるのだった。
そして、
「見覚えのある光景だ」
というところに出てくれば、それも当たり前のこと、このサナトリウムの存在を感じた時だったのだ。
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