第3話 森に入る
これは、まるで、ちょっとした、
「マトリョーシカ現象」
で、
小さくなっていく人形が、いつも間にか、ゼロに近づいていることを感じると、
「これ以上情けなくなることはない」
と感じるのだ。
どんどん小さくなっていくうえで、最後までゼロになってしまわないことが情けない。
「早く、ゼロになってくれれば、これほど気が楽なことはない」
と考えるのだが、結局は
「限りなくゼロに近い」
という存在にしかならないことが情けないのだった。
旅行のその日は、キャリーケースを引きずりながら、歩いていると、
「まるで都会の人間のようだ」
と思うのだが、次の瞬間、
「田舎者が都会者のふりをして、情けなくないのか?」
と考えさせられることで、
「田舎に旅行に来たんだな」
と感じることが、よかったと思うのだった。
「電車に1時間。そしてバスで、約2時間、かなり奥まったところに、写真にあったような、大きな湖を囲むような森があるなんて」
と考えるのだ。
まるで、古代史の、
「古墳時代にあった、天皇陵」
のようなものが見えてくるはずだ。
というイメージをずっと持っていたのだ。
確かに、奈良や飛鳥に近づくと、大きな天皇陵があるので、ここのような、駅地であれば、
「本当に、古代古墳が存在するのだろうか?」
と感じるのだった。
旅館の人の話によると、
「バスは、最寄りのバス停があるにはあるが、そこから宿までは結構あるので、最寄りのバス停まで、マイクロバスでお迎えに伺います」
ということであった。
どうやら、バス停は、森の近くにあり、停留場は、
「憩いの泉前」
というのだという。
「泉というには、あまりにも大きすぎるのだが、元々は、富士五湖に通じるもう一つの湖であり、そこが、富士五湖に比べれば小さい」
ということで、だったら、
「泉でいいだろう」
という話になって、じゃあ、
「憩いの泉」
にしようという話になったのだという。
「憩いの泉」
というバス停までくると、その時バスの中に乗っているのは、あと2人だけ、
「この先、どこまで行くのだろう?」
と思えるほどで、その先にあるのは、欲わからなかった。
バス停を降りると、なるほど、バスの少し前に、マイクロバスが泊っている。
といっても、自分一人だけを載せるのに、マイクロバス一台というのは、実に贅沢なものであった。
バスに乗り込むと、表から見るよりも、かなりこじんまりとしたマイクエロバスで、それだけ、まわりが大きいのか、小さいのか、何かの錯覚を感じさせられた気がしたのだった。
「こんにちは。よろしくお願いします」
といって挨拶をすると、運転手は、頭を少しだけ下げる形であいさつをした、
変に堅苦しい挨拶をされるというのも、鬱陶しいが、ここまで無作法であれば、さすがに気分を害するというものであった。
しかし、運転手は、別に悪気もなければ、失礼だという感覚もない。あくまでも、
「これが当たり前だ」
といってもいいようである。
秋元が、バスの手前の運転手の反対側に座ると、バスが扉を閉めて、
「では、発車します」
と、相変わらずの不愛想な感じで発射したのだった。
当然、運転手は何も言おうとしない。
どうせ、話しかけてくることはないだろう。
と思っているとまさにその通りで、黙っていればいるで、自分がイライラしてくるのを感じたが、決して、文句を言わないようにしようと思うのだった。
運転手が何も言わずに走っていると、スピードだけがやたらに出ているような気がした。
実際には、さほどのスピードが出ていないのを感じると、、まわりの木々が、想像以上に大きくなってくるのを感じると、森に囲まれた道を少し進んでいたが、こちらも、まるで、
「木々のトンネルの中を、吸い込まれるように進んでいる」
というように感じられた。
今度は、スピードがどんどん増してくるように感じ、気が付けば、森の中に入っていく、細いあぜ道のようなところに入っていった。
こんなところを走るのに、スピードなど出すわけにもいかず、ゆっくりと入っていくことで、今度は、まわりが、どんどん迫ってくるような大きな木々に見えてきたのであった。
前を見ていると、さっきまで見えていたと思った入り口が、急になくなったかのようにで、隣の道を進んでいくと、今度は、さっき見た道の戻ってきたかのように感じたのだった。
「一周回って、戻ってきたのだろうか?」
という感覚になり、
「見えているそこにあるのは、本当にさっきの道なのだろうか?」
ということであった。
まさか、さっき見えたものが、ここに移動してくるわけはない。
それを考えると、
「狭い木々の間を走っていくことで、いつも同じ光景だということを感じさせられ、次第に小さく見えてくるという錯覚を浴びせられながら、その大きさを欺かれていたのではないだろうか?」
と感じるのであった。
そんな道を歩いていると、どこか、自分の意識が薄れていくのを感じた。
そう、指先が痺れてくるような感覚だった。痺れる指先が意識を中途半端な状態にしてしまう。
「こんな意識。どこかで感じたことがあったな」
という感覚を思い出した。
あれは子供の頃だったような気がする。
まだ、中学生くらいだったか、あの頃は、食べても食べてもお腹が空いてくる。腹が減ると、とことん減ってきて、指先が痺れて、意識が朦朧としてくるのだった。
そう、あの時の意識と、ほぼ寸分狂わぬ感じだったのだが、今とは、どこかが違っている。
それが何かということは比較的すぐに分かった。
「そうだ、あの時は、お腹が減って、食べれば、すぐに痺れは収まったのだが、お腹が空いているのは、まだまだで、指先の震えは消えても、空腹は残るというのが、本音だった」
のである。
しかし、今回は最初の症状は似ているのだが、
「今回は、食べればすぐに、空腹状態は治ってくるのだが、なぜか痺れが収まるわけではない」
と考える。
つまり、
「指の痺れの原因が、空腹だと思って食したとしても、収まらないということは、指先の痺れの原因は、別のところにある」
ということになるのであろう。
それを考えると、
「同じ症状でも、子供の頃と大人で違うのだろう」
ということであった。
ただ、一つ考えるのは、最初に感じた時が、
「本当に子供だったといえるのでろうか?」
ということである。
なるほど、確かに中学生の頃だったので、思春期というものが微妙な頃だった。
「声変わりをした時期だったかな?」
と考えるが、本当はどうだったのだろう?
そう思うと、
「もし、あの時が子供だったとすれば、今回の症状は、大人と子供という境界があったということで、大人になった時点で、指先の痺れが空腹によるものだけではない時期に入った」
と言えるのかも知れない。
しかし、逆に、あれが、大人になってからだということになると、
「指先の痺れは、空腹の時もあるが、そうでない時もある」
ということは、結局、理由が分からないということで、
「最初の時は、たまたま空腹だったからだ」
ということになるのだろう。
そうやって考えると、少なくとも大人になってしまうと、
「似たような指先の痺れは、原因の一つには空腹もあるかも知れないが、空腹だけが理由ではないということの可能性が大である」
と言えるということだ。
ただ、空腹を満たされれば、空腹からの痺れは弱まり、少しは楽になるというものであろう。
それに、モノを食べるということは、身体に力を与えることで、痺れが意識の薄れを誘発するのであれば、その融沸を抑えるとするのであれば、
「何かを食べる」
ということが大切になるだろう。
迷信的な、都市伝説の類なのかも知れないが、昔から真剣に言われ続けてきたことを、おろそかにもできないということであろう。
そこから、いつの間にか、狭い通りに入っていた。その時、
「俺は一瞬、気を失っていたのかも知れないな」
と感じた。
だが、狭い道に入ってからは、それまでの意識を失っていたような気分の悪さは消えていた。
その瞬間のことを思い出していたが、その時に思ったのが、
「何か、嫌な臭いだったような気するな」
という思いであった。
最初は何の臭いかは分からなかったが、よく思い出してみると、その臭いは、アンモニアの臭いだった。
アンモニアというのは、
「確か、ハチに刺された時に使ったような」
と思った。
だが、実際に自分はハチに刺されたという記憶もない。それに、今、一般家庭に、アンモニアの瓶などがあるとは思えないので、果たして、
「いつ、どこで、その臭いを感じたのだろうか?」
と思うと、おかしな気分だった。
しかし、気を失うには十分な臭いであり、その臭いのせいで、
「意識を失ってしまったとしても、無理もないことだ」
ということであった。
臭いのひどさを思い出していたという意識があった。
元々、指先が痺れたという意識は思い出せる。そして、その時にアンモニアの臭いを感じていたともいえる。だが、この二つが連動したから一瞬ではあるが、
「意識を失ったのだろう」
と感じるのだった。
アンモニアという臭いを感じたのは間違いないだろう。
目の前にある、木々から差し込んでくる日差しの眩しさを感じると、アンモニアを意識させられるからである。
ただ、それが本当にたった今のことだったのかどうかというのは、意識があるだけで、定かなことではなかったのだ。
バスは、少しの間、密林のようなところを走ったかと思うと、そのまま、狭いところを通り過ぎ、今度は、大きな場所に出てきた。
そこは、今度は広い範囲で森が回り込むようにできているのが見えているところで、
「ああ、ここが、森の中にある、湖と呼ばれるところなのだ」
と感じるまでに、そんなに時間はかからなかった。
この思いが、
「先ほどの意識不明の時間が、短かったのではないか?」
と思わせる根拠のようなものだったのだ。
そこから先、横を向くと、少し眩しさが眼に飛び込んできた。
それを見ると、
「ささやかな風が吹いているのかな?」
と感じさせるのは、水面にまるで年輪のような、波紋が見えていることで、光が微妙に反射して、目に刺さっているように思うのだが、心地よさを感じることで、
「こんなに、心地よいと思えるような感覚を、今までに味わったことはない」
と言えるのであった。
目を差すような眩しさに、思わず視線をそらそうとするのだが、その先に見えるものを、
「見逃したくない」
という思いがあるからなのか、それとも、その場において、見逃してはいけない何かを感じることで、
「目を奪われてしまった」
という感覚が残ってしまったという思いが、まるで、
「マトリョシカ現象」
のように感じられるのだ。
「箱の中からまた、一回り小さな箱が出てきて、さらに箱を開けると、箱が入っている……」
というような感覚であった、
マトリョシカのように、どんどん開けていくと、小さくなっていき、
「最後には見えなくなるんだろうな」
とは感じながらも、
「最後には決して、ゼロにはならない」
という感覚があるのを意識していたのだ。
湖の広さは、果てしないように最初は感じたのだが、車が走っていくうちに、
「やはり、その先には行き止まりがあるんだろうな」
と感じるのが早かったのか、目の前に、白い、西洋のお城のような建物が見えた。
目を凝らして、見ようと、少し座席から乗り出すと、
「あそこが、お泊りになられるホテルです」
というではないか。
そういわれると、一瞬、ヨーロッパの城の佇まいを想像していたが、すぐに、
「ここが日本だ」
という意識を持つようになった。
「日本という国が、こんなにも美しいのか?」
と思ったが、それよりも、
「この美しさは、万国共通。ヨーロッパというイメージを勝手に抱いただけのことであり、日本であっても、環境が許せば、同じ気持ちになることができる」
と感じた。
そして、その環境は、ヨーロッパにだけあるわけではなく、日本にだってある。それは、「城のようなものがあるだけで、かなり印象が変わってくる」
ということだからであった。
どんどん、城に近づいてくると、写真でしか見たことがなかったという当たり前のことを思い知らされた気がした。
だが、いよいよ敷地内と思える場所までやってきて、宿の数名が、表にお出迎えをしてくれるのを見ると、
「ああ、やっぱり日本なんだ」
という思いを感じ、並んでいる日本人が、その場所にマッチしていないとは、思えなかったのだ。
バスは、建物に吸い込まれるように、従業員が並んでいる入り口に滑り込むように入っていった。
そこに立っている人は、5名程度であった。
人数的にはちょうどいいだろう。
それ以上の人がいたら、その状態は、本当にヨーロッパのようで、却って、景色に違和感しか残らなかっただろう。
バスから降りると、そこにいたのは、和服の人たちで、明らかに、建物をマッチしている服装ではなかった。
「いらっしゃいませ」
と深々と頭を下げている様子は、まるで、
「有名温泉地の老舗旅館かどこかの若女将」
と言ったところであろうか。
女将というには、少し若い気がする。まだ、年齢的には、20代後半であろうか?
しかし、女性の和服姿を見て、年齢を推測すると、今までの経験から、ほとんど当たったためしがないといってもいいだろう。
さすがに、5人とはいえ、番頭さんを含めたような佇まいには、さすがに拍子抜けした。
「ここは、元々、近くの温泉に老舗として構えていたところだったんですよ」
と女将はいうが、その時は、それだけしか言ってくれなかった。
「何か言いにくいような事情があるのだろうな」
と納得し、秋元も、それ以上詮索しようとは思わなかった。
かといって、知りたくないというわけではなく、好奇心は旺盛である。
「まずは、こちらの自慢の温泉にお浸かりになられると、旅の疲れも癒えますよ」
ということであった。
どうやらここは、
「佇まいこそ、西洋風であるが、中は、純日本風の旅館と言ってもいいようなところではないか」
と感じたのだ。
お風呂も露天部尾賀自慢のようで、目の前に張り出している湖との境が設けられていて、向こうに見える、森の壮大さを、ゆっくりと湯船に漬かりながら、見ることができるというのは、実に圧巻であった。
「ここの温泉は、素晴らしい」
という話は、聴いたことがあった。
ネットの聞き込みにも似たような話があったので、
「間違いではないだろう」
と、温泉に関しては、何らの疑いを抱くわけもなく、今回も、
「気づいたら、温泉に浸かっていた」
というように、どうやら、今日は、
「目の前に広がっている光景で、自分が満足した時、
「一瞬、意識を失う」
ということのようであった。
ただ、その時に、
「なぜかアンモニア臭がするんだ」
というのを、温泉に浸かったそのタイミングで思い出したので、暗の徐、アンモニアを思い出したのだ。
これは。
「記憶が残っているから、そのような妄想を忘れることができない」
ということなのか、
「妄想を抱くということが先にあって。それを、
「記憶だ」
として、思い出すことが必須であるかのような印象操作をすることで、せっかく分かりかけた理屈があったとしても、答えまでにはたどり着けないのではないか?」
と思うのだった。
そのことを感じると、
「自分の記憶力が、ここではまったく発揮させないのではないか?」
と思えた。
それによって。マヒさせられるであろう感覚への、正当性のようなものを感じてしまうということになるだろう。
記憶力というものが、
「ここでは、何の役に立つ者ではない」
と思うのだ。
だとすると、
「記憶喪失であっても、別に臆することはない。つまりは。記憶というものが、潜在意識の中にあることで、ムダな何かを感じてしまう」
ということになるのだ。
記憶喪失の中において、
「覚えておかなければいけない記憶と、断捨離しなければいけない記憶とを、選別するための時間なのではないか?」
ということを考えさせられるのだった。
そのどちらの方が大きいのかを考えると、少し違った感覚も生まれてきた。
「記憶というのは、覚えてお金蹴ればいけないものと、断捨離をして、消し去ることが最良と言われるようなものだけではないのではないか?」
ということを考えるのであった。
温泉に浸かっていると、どうしても、眩しさを避けて通ることはできないと感じた。
その眩しさの原因がどこからくるのかということは、
「火を見るよりも明らか」
といってもいいのに、すぐに分からなかったその時、何とも言えないおかしな気分になるのだった。
後ろにある、聳えたっている、お城のような建物からの光の反射であった。
純白な真っ白さを感じさせる光が、背中に突き刺さっているような気がすると、まともに後ろを振り返るのは、憚る気がして仕方がなかった。
「純白というのは、時として、恐ろしさを醸し出すものだ」
という感覚から、
「まともに見てはいけないもの。それが白い色なのだ」
と感じさせるようになった。
「決して見てはいけないもの」
それはいわゆる、日本の神話。聖書やギリシャ神話のような、西洋の書物の中にも存在する、
「見るなのタブー」
と呼ばれる暗示のようなものであった。
日本の昔話なのでも、
「浦島太郎」
であったり、
「鶴の恩返し」
さらに、
「雪女」
のような話があそうであろう。
西洋であれば、
「ギリシャ神話」
における、
「パンドラの匣」
さらには、
「聖書」
における、
「ソドムとゴモラ」
のような話にも引用されているものであった。
それらの話の一律に言えることとしては、
「ハッピーエンドにはならない」
ということであった。
例えば、
「浦島太郎」
であれば、
「玉手箱をあけると、お爺さんになってしまう」
というもの。ただし、浦島太郎に関しては、ラストシーンには、諸説あるのだと言われる。
「ソドムとゴモラ」
では、
「決して振り返ってはいけない」
ということを言われているのに、好奇心に勝てず、振り返った瞬間、砂になってしまったという話。
さらに、
「パンドラの匣」
では、神様からもらった箱を好奇心から開けてしまったことで、ありとあらゆる、
「不幸や災難」
が箱の中から飛び出し、最後の箱の中に、希望が残ったという話であった。
こちらも、空けてはいけないと言われたものだったのだ。
それらの話を思い出すと、
「あれほど昔に、しかも、成立年代は、バラバラで、さらには、世界各国に伝わるかのような話」
というものであったが。もし、何らかの手段で伝わったとしても、それぞれの文化の違いをいかに理解させる形でこれらの話が出来上がったのかということである。
それは、
「西洋文化、日本文化などというのは、それぞれの民族が勝手に言っているだけで、実際には、もっと広い意味での発想が渦巻いているのではないか」
と思うのだった。
そんなおとぎ話や神話を考えていると、ここでの真っ白いお城は、
「明らかに、西洋風」
であり、まわりの森は、日本の樹海を思わせ、大きな湖は、アメリカの五大湖を彷彿させる。
といっても、秋元は、海外に行ったことがなかった。
それなのに、海外を彷彿されるだけの光景が広がっているわけで、行ったこともない場所を、まるで知っているかのような感覚に、自分なりにビックリさせられたのを、怪奇な思いと感じさせるのであった。
後ろの眩しい真っ白建物を凝視できないと、今度は、池をじっと見ていると、今度は水面からの乱反射をした光が眼に差し込んできた。
白い建物を眩しいと思い、勢いをつけて目を逸らすということが普通にできるのに、今回は、目の前に見える水面に映る光から、目を逸らすことができなくなっていたのであった。
それを考えると、
「建物は、微動だにしないが、その大きさに圧倒されるが、水面は本当に小さな隙間が、一瞬にして、形を変える」
ということを感じている。
と思うと、
「圧倒されるものからは、目を逸らすことができるが、圧倒されるわけではなく、微妙に変化するという感覚は、今度は目が離せないという理屈からか、顔を逸らしても、目線だけは離すことができない」
というものであった。
「これは、本当にすごい。
という感覚があった。
というのも、差し込んでくる光の眩しさに、
「目をあけていられない」
と思いながらも、必死に開けていると、眠気が襲ってくるのだった。
先ほどの、痺れのようなものなのだが、今回は、気絶するほどのひどさではない。
しかし、その感覚を感じながら、今度は、目が森の方に行ってしまった。
森は今までと違って、
「決して明るさを目に焼き付ける」
という感じではない。
むしろ、実に眩しいわけではなく、動きから目が離せないわけではない。
それなのに、気になって仕方がないのは、やはり、
「色というものがついている」
ということだろうか。
今までであれば、これらの感覚は、
「ゆっくりと目の前にある、目立ちもしない、動きもしない深緑の、決して眩しきはないその光景が、今までと違って、なぜ、このようなハッキリとした光になっているのかが分からなかった:
と感じるのだった。
「本当に、明るいわけではないのに」
と思って緑色を見ていると、目を瞑ると、瞼の裏に写ってる、今まで感じたことのないような明るさが瞼の裏に映っていた。
そして、今度は、目の前の緑を見てから、おもむろに後ろを振り返ると、そこには、真っ白なお城の大きな壁が佇んでいるはずだったのだが、そこにあるのは、真っ赤な色を感じさせるのだった。
色や光には、残像として残るのは、
「絶対色というものなのではないか?」
と感じていた。
そもそも、そんな、
「絶対色」
などというものが存在するのかどうなのか分からないが、
目の残像として残っているものは、その色が、対照的なものであるということを、人間は無意識なのか、知っているのだ。
「赤い色をずっと見ていると、瞼の裏の残像には、青い色が残っている」
これは、逆でも一緒である。
赤いという眩しさを感じさせる色から、青い目だない色を連想させるのは、きっと人間の中にある、
「中和効果」
と言われるものが作用しているからではないかと感じるのだった。
「人間というものは、中和させることで、どちらかに寄ろうとするものを抑えるという、自浄効果のようなものがある」
という。
それは、中和させることで、
「どちらかによることで、平衡感覚が失われることを防いでいるのではないか?」
と考えられるのだった。
中和というものは、
「ハチに刺された時に、アンモニアを塗ることで、その痛みや奥性を中和させることができる」
という発想に至り、
「待てよ」
という思いは、
「一周回って、先ほどの感覚に戻ってきたのではないか?」
と考えられるようになるのだった。
瞼の裏において、残る残像がいかなるものかということを思っていると、
「このあたりの光景は、絶対色というものを、絶えず考えさせることで、光っているものが、自分の中でちゃんと消化できているものかどうかということが、分からなくなってきている」
と感じさせるのだ。
この池に来たのは、偶然だったが、見つけたことは偶然ではなかったのかも知れない。そんな感覚に陥るのだった。
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