第3話 君が見る世界
夜鷹が入院している間に、窓の外の景色はすっかり冬になっていた。随分と通い詰めたおかげで、受付の看護師とも少し話せるようになった。吟太が病室に向かう途中、慌ただしく医師が廊下を走っていた。
部屋のドアを開けると先ほどの医師と夜鷹の母親である和江が話していて、横たわっている夜鷹には人工呼吸器が繋がれていた。
「あ、吟太君、来てくれてたんだ」
「先輩」
吟太の気配に誰よりも早く気が付いたのは夜鷹だった。彼女の頬が緩むのを和江が見逃すわけもなく、和江は銀太の頬を向く。
「吟太さん、お久しぶりです。娘から話は聞いております」
「いえいえこちらこそ、こんな大事な時にすみません」
「こんな時だからこそ、よ。まったくあの子と来たら、最期は私たちじゃなくて君と迎えたいなんていうもので。これが大人になるってことなのかしらね」
「え?」
吟太は室内を見渡す。医師が頷いた。夜鷹は嬉しがっているのか悲しんでいるのかわからない顔をしていた。
吟太は2人を病室の外に連れ出して問い詰める。
「そんな、最期って」
「こちらも最善の手を尽くしたのですが、いかんせん病状の進行が早く」
「嘘だ、先輩が」
「もって今日、早ければ一時間以内といったところでしょう」
「どうして、今日なんですか」
「それは私たちにはどうすることもできません。欲を言うのなら、あと数週間だけでも早期発見ができていれば。もう少しだけ違う結果になっていたかもしれません」
吟太は強く拳を握りしめた。
「せっかく泉さんのご両親が許可してくださったので、今は残りの時間を一緒に過ごしてあげてください。積もる話もあるでしょう」
医師の言葉を和江が継ぐ。
「そうよ。生活も忙しいでしょうに、夜鷹に気をかけてくださって。感謝しきれませんよ」
「はい、どうもありがとうございます」
吟太は力なく頷き、2人にお辞儀をしてから病室のドアを開ける。ここまでスライドドアが開けにくいのは初めてだろう。部屋に入り、重い足取りでベッドの横まで移動する。吟太はあらかじめ出してあった面会用の椅子に座った。
「先輩」
声をかけると、夜鷹はにこやかに微笑む。
「そんな顔をしないでくれよ。探し物は、見つかったかい?」
「っ!」
吟太の脳にある記憶が蘇る。あれは2年ほど前、夜鷹たち3年生が引退を控えた最後の大会、その前日。たびたび話す関係だった2人は、練習終わりに体育館外の石段に並んで座っていた。
「先輩はどうして大学に行くんですか?」
水筒片手に吟太が問いかける。
「なに、藪から棒に。何か嫌なことでもあったの?」
「親や先生の言うことが、少し信じられなくなってしまって」
「それは困ったね。よし、部長が悩める子羊に知恵を授けよう」
夜鷹は少し悩んでから結論を出す。
「夢を叶えるためかな。私、カメラマンになりたいんだ」
「カメラマン?」
吟太は目を見開く。
「うん。ロバート・キャパのような戦場カメラマンだって、行事のたびに来る写真館の人だっていい。とにかく、私の写真で人を笑顔にしたいんだ」
「笑顔にできますかね」
ぶっきらぼうに吟太は吐き捨てる。家族写真を見るたびにフラッシュバックする惨劇を追い払うかのように。
「できるんじゃなくて、するんだよ。私には根拠のない自信があるからね」
「いつかはそう思えるんでしょうか」
「そう思えるんじゃない? 私と一緒にいれば。いつまでも私についてきてほしい。いろんなことをして、最後に何かを見つける旅をしよう」
吟太は目に涙を浮かべる。
「それなら、一生掛けてついていきますよ。どこまでだって」
夢から覚めた時、その旅は中断された。
「それは、それは……」
吟太はポケットからカメラを取り出す。
「これだと、思います」
「その道で満足かい?」
「はい」
「なら私の人生にも価値があったようだ。君が憧れるようなかっこいい先輩を、何にも負けない先輩を演じた甲斐があった」
そこで夜鷹は吟太のカメラに目をつける。
「2人とも、随分長い旅をしてきたんだね。もうずいぶんと、ボロボロじゃないか」
「先輩がいたから、いろんなことを教えてもらったから、ここまで来れました」
「確かに道は教えたけど、ここまで歩いて来れたのは、紛れもなく、君の力だ。しかし、いざそのシーンを見ると、感慨深いものがあるな」
「ようやく、追いつけましたよ」
「じゃあ、ここからは新しい物語だ。そこの戸棚を開けてみてくれ」
「はい」
吟太は立ち上がり、戸棚の引き出しの取っ手を掴む。 確かな手ごたえを感じながらゆっくりと引いていくと、そこには見覚えのある黒い物体が静かに眠っていた。
「これって」
「もう私には、必要のないものだ。このままそこで朽ちていくより、連れて行って、広い世界を見せてあげてほしい。それが、私の唯一の願いだ」
「なんで、そんなこと言うんですか」
「自分の体のことだ。当然私が一番よくわかっているよ。もう長くはないのだろう?」
「今日が峠だと」
早ければもう一時間も無いんですよ、とは流石に言えなかった。
「そうか。いろいろ迷惑を掛けて、悪かった。人生を変えてしまって」
「いいんです。十分幸せでしたから」
「よかった。なら、最後の宿題だ。この子が持っているSDカード、その1TBの容量を使い切ること! いくつか私のほうで写真は撮ってあるから、あと4万枚と少しかな。毎日一枚以上撮っておけば、すぐになくなるはずさ」
「わかりました。じゃあ、最初の一枚は、先輩のことを撮りたいです」
「困ったなあ。私のことなんて忘れて、さっさと次の人を見つけてほしいのに」
「嫌です。忘れないように、この瞬間を切り取るんですから」
吟太はカメラの重さに戸惑いながら紐を肩にかけ、ピントを合わせる。夜鷹は寝転がったまま、ピースをしようと腕を動かす。今度は万全の状態で残るように。
「はい、チーズ!」
吟太は顔をくしゃくしゃにしながら言った。
その夜鷹の表情は、衰弱しきっていたものの――彼女の人生で最も輝いていた瞬間であった。
「可愛いですよ、先輩」
「そ、そうか」
夜鷹は大きな咳払いを一つして言った。
「これで、正真正銘君のものだ。って、どうしたんだい、そんな悲しい顔をして」
「だって、少しも嬉しくないんですから。先輩が前とは違って完璧にレンズの中に収まってしまったから、まるで卒業式の予行練習のように別れが想像できてしまうんですよ」
吟太はカメラを戸棚にしまいなおして、夜鷹に抱き着いた。
夜鷹は驚いた表情をしたが、特に抵抗するような素振りは見せなかった。吟太の顔が涙と鼻水で汚れているのが見えたからだ。確かな人体の重みと温かさが心地よかった。
「どこにも、行かないでくださいよ、勝手に」
吟太はどのチューブにも触れないようにして、その細い体に縋りついた。締め付けがより一層強くなっていく。
「行くものか。私は、こうして」
夜鷹が吟太の頭を優しくなでる。
「いつまでも、君の、そばに」
吟太がうずめて居た顔を上げたその瞬間、けたたましい警告音が鳴り響いた。
それが無音の部屋にこだましていく。吟太にはこの状況が理解できていなかった。
医師が部屋に飛び込む。数人の医師と看護師も連れてきていた。何やら指示を出しているのを聞こえてくる。
「下がっていなさい。ここからは私たちの仕事だ」
吟太は夜鷹から引きはがされた。そして、医師は彼女の体に触れた後にこう言った。
「残念ながら、もう終わりだろう」
「何ですか、先輩は、まだ」
医師と吟太の口論が始まったころ、和江も部屋に入ってくる。
「お母さんからも言ってあげてくださいよ。先輩は、まだ生きてるって、寝ているだけだって」
「もういいの。これ以上は必要ないの。あの子は、精一杯、生きたのよ」
「せん、ぱいは」
「18時26分」
一通りの診察をした医師は腕時計を見てそう言った。
「まだ、今も」
「もういいの」
「生きて」
「もういいの!」
「いない、んですね」
「もういいのよ。あなたも、よくがんばったわ」
「僕は、何も」
和江は微笑みながらこう言った。
「いいえ、違うわ。今日あの子と話したらね、君の話しかしないのよ」
「え」
「どうか自分だけじゃなくて、人から見える景色も大事にしてほしいの。あの子にとって、君は十分特別な存在なのよ。それを覚えておいて」
「はい」
吟太は顔をくしゃくしゃにしながら頷いた。
「あと、事前にあの子から聞いてると思うけど。これ、受け取って頂戴。君に渡したいそうだったから」
母は戸棚を開け、一眼レフを吟太に手渡した。
「ありがとうございます」
「あとさっきの会話、お医者さんと聞いていましたけどね。写真撮ったんですね」
「え、聞かれてたんですか?」
「ええ。悪いとは思ってたのですが、2人のやり取りが気になってしまって。あの子の声のトーンがすごく上がっていたから、ついね」
「ちょっと恥ずかしいですね」
吟太は頬を掻く。
「それでね、少しおこがましいとは思うのだけれど、遺影として使わせてもらえないでしょうか」
「いいですよ。先輩も、喜ぶと思います」
「ありがとうね。データで送ってもらうことってできますか?」
「ちょっと方法がわからないので、いったんお預けします。葬式の日に、受け取りに来ますから」
紙に氏名と電話番号を記入した後、吟太は病室を飛び出した。
夜鷹が亡くなってから5年後。吟太は写真館に就職した。今はまだ新人だが、少しづつ仕事にも慣れてきた。上司が吟太の机の前まで来て言った。
「高梨、次の客はお前が相手してやれ。知り合いだそうだ」
「え、いいんですか! ありがとうございます」
「俺もついていくけどな」
「はい!」
吟太は急いで支度を済ませると、写真立てに視線を送る。あの日2人で撮った、ぎこちない写真。
「高梨、ぼさっとしてないで早く行くぞ! もう衣装選ばせてあっから!」
「はい!」
事務所スペースから出て扉を開けると、そこには夜鷹の友達である燈がいた。
「燈先輩、お久しぶりです」
「うん、久しぶり」
「今回はどういったご用件で?」
「あたし、結婚するんだ。式は面倒だから写真で済ませておこうと思って」
「おめでとうございます」
「それで、お相手の方が見えないのですが」
「あの人はまだ衣装選んでるわ。まったく、優柔不断なんだから」
そんな話をしているうちに、燈の旦那が出てきた。
一通りの設営と説明を終える。
「それでは、撮影のほうを始めさせていただきます」
写真を撮るとき、人は必ずしも満足しているわけではない。だからこそ、いつの日かそれを見たときに心から笑えていることを願って、その一瞬を永遠に切り取るために、人はカメラを手に取るのだろう。
「はい、チーズ」
FILLMERS フィルマーズ レンズが見た世界 青木一人 @Aoki-Kazuhito
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