3rd sg 苦くて深い出会いと歯車
梅雨時期の休日、午後から降り始めた雨が歯車を回し始めた。
この日俺は、父親が営んでいる喫茶店の手伝いで朝から外へ出ていた。
入口のドアがチリンと鳴り、上品そうな婦人が慌てて入ってきた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へお座りください。ご注文お決まりになりましたらお声がけください」
父がそう声をかける。
「颯太。注文入ったら対応頼む」
「わかった」
俺は父親とは比較的関係が良好な方だと思う。この17年間のうち少なくとも10年は男手一つで育ててくれている。母親は大手総合商社に勤務している関係で海外にいることが殆どで、もう何年も会っていない。
「すみません。コーヒーあんまり詳しくなくて……おすすめとかってありますか?」
「本日のおすすめですと、マンデリンですね。酸味が少なくやや強めの苦みが特徴でブラックもおすすめですが、苦手な場合はカフェオレにしても美味しく頂ける豆になっております。後は店に因んだ星衛ブレンドというものがありまして、こちらは先程のマンデリンにコロンビアという豆とブラジル豆を2割ずつブレンドしており、より深みのある味わいとなっております」
今までは裏にいることが多く、接客というのはあまり経験がなかったがしっかり伝わっただろうか。
「じゃあ、マンデリンをカフェオレにしてくださる? 湿度が高くて蒸し暑いからアイスで頼めるかしら」
「かしこまりました。少々お待ちください」
カウンターに戻ると注文内容が聞こえていたのか、すでに父はコーヒー豆を煎っていた。
「あ、そうだマスターさん? 私が来たとき雨降ってきたから、なんかこの後大雨になるらしいですし、お気をつけてください」
婦人は父にそう言った。
「お気遣いありがとうございます」
「颯太、お前今日はもう上がっていいぞ」
「わかった、じゃあまた後で」
そう言って俺は席に座っていた婦人に会釈をして店を後にした。
あの日――温泉川沙那の引退発表から既に一週間が経過しようとしていた。
俺はあの日以来、優希と話をしていない。きっとお互い会えば話をしただろう。だけど会うことがなかったから話さなかった、ただそれだけの話。
毎朝、俺と優希が話しているのを後ろからじーっと眺めていた馬淵のようなうるさい野次馬も、優希が教室に来なくなったせいもあってか、すっかり静かになった。
優希のことも俺のことも今はそっとしておこうという、あいつらなりの気遣いなのだろう。あそこら辺の中じゃ俺と優希のユアヒロインへのというより温泉川沙那への思いの強さは有名だったからな。当然なのかは分からないが温泉川沙那自身も引退発表以来、学校には来ていないらしい。
そんな事を考えながら歩いているとさっきの婦人の話の通り急に雨足が強まり、一気に土砂降りになった。
「まじかよっ!」
俺はダッシュで街を駆け抜けた。
生憎カフェにに傘はなく、手持ちもない。
だから父さんは早くに俺を帰らせたのだろうか。
走っていると、公園に一人の人影があった。
俺は不思議に思い、おずおずと近づいた。
大雨の中、公園のベンチに座る人を俺は見たことがあった。
「えっと…………温泉川先輩? こんなところで何してるんですか? びしょ濡れじゃないですか」
「…………あなたは?」
彼女はゆっくりと顔を上げ、震えた声でそう言った。
前まで見ていた、美しく、完璧で、何にでもなれそうなスーパースターの温泉川沙那はここにはいなかった。
「俺は星衛颯太です。先輩と同じ桜華学園の2年B組に通っていて、先輩の大ファン」
「……私の? まだファンがいてくれたのね。あんな風に突然発表しちゃったしガッカリされてもうファンなんかいなくなっちゃったって思ってた」
そう言いながら僕を見つめる彼女の瞳は今すぐ助けてほしいと言わんばかりに儚くて、放っておいたらどこかへ消えてしまうんじゃないかと思ってしまった。
「先輩に何があったのかは僕には分かりません。だけど、先輩のファンはこんなにもいっぱいいるんです」
そう言って俺はSNSの沙那の引退発表のリプ欄を見せた。
そこには『辞めないで!』『いつでもいいからまた戻ってきてほしい』『沙那の思いなら尊重してあげよう』などのコメントが何万件にもわたって伝えられていた。
「……これは」
「これが先輩の人望なんです。だから、こんな雨の中でたった一人で何かを抱え込む必要なんてない。先輩には何万人ものファンがいるんだから」
俺たちがこうして会話している間も、しだいに雨は激しくなっていく。
普段だったらきっとこうして沙那と話している時間があれば大興奮だっただろう。だけど、雨と状況のおかげで冷静に話すことができる。
「……そうね。ありがとう、あなたのおかげで少し楽になった気がする。あなたも風邪を引いちゃいけないし、帰りましょうか」
「じゃあ最後まで送り届けます」
さっきまでの憂いが嘘かのように、彼女は笑顔で走り始めた。
ときどき俺の方を見てはにかんだり、もう元気そうでよかったと思う反面、まだ全てを払拭できていないような偽りの笑顔もそこにはあった。
「え、ここって。もしかして先輩……」
着いた、と言った彼女の目の前にあったのは比較的新しく綺麗めなビジネスホテルだった。
「そうよ。今はここで寝泊まりしてるの」
「でも、ご自宅があるんじゃ……?」
「ええ。けどもうあそこに帰る気はないし、何よりもうマンションのお部屋買ってあるから。明日からはそっちに住むわ」
何とも俺には想像し難い話が聞こえてきた。
「これが年間で数億は稼いでると言われている大人気アイドルの力……」なんて言うと、彼女は両手で俺の頬をつまんで「こらっ!」と言ってきた。
流石に大のファンからすればご褒美でしかないのでニヘラと笑うと、そういう癖の持ち主かとちょっと引かれてしまった。
「それじゃあ、また」
「はい、ちゃんと学校にも来てくださいね。先輩が元気じゃないと、僕のクラスが静かなんで」
「ふふっ、なにそれ。……そうね、考えとく」
先輩は小さく手を振ってホテルの中に消えていった。
思えばあのとき、なんでクラスの話をしたのだろう。
いつもはうるさくて煩わしいはずなのに、自分でも気づかない心の中の自分が、いつの間にかあれを心地よいものにしていたのかもしれない。
「ま、いいか」
パシャリ
その時怪しげな一台の車の中からぱちりとシャッターを切る人がいた。
俺は怪訝に思ったが、まさか一般人の自分ではないだろうとその場は無視して帰宅した。
この一枚の写真が意味することを、歯車が回り始めたことを、俺は知らなかった。
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