はじまりの一枚

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はじまりの一枚

 春信はるのぶが顔を上げると垣根の向こうから小さい顔がひょこひょこのぞいていた。目が合うとぴゅっと逃げていく。だがしばらくすると知らぬうちにまた戻ってきていた。


「取って食うわけじゃないんだがなあ」


 目当ては何本も連ねたひもに吊り下げられている絵だろう。部屋中に色があふれている。

 春信は苦笑しながらまた机の上に目を落とした。すみ一色でられた絵に色をつけるのが目下もっかの仕事なのだ。


 役者絵に華やかなあかが目を引く。緑や黄が塗られることでそれがより引き立てられていた。この彩色は『紅絵べにえ』という浮世絵版画の手法だが、そう言われるだけある表現だ。


「また来た……」


 垣根にのぞく頭が動くにつれて春信の口元もほころぶ。

 春信が色付けをしている浮世絵は町人が買えない金額ではない。

 だが徳川とくがわ家重いえしげが将軍の座に着いたとはいえ大御所の吉宗よしむねが質素倹約に目を光らせている。この娯楽には気を遣いつつ手を出しているというところだ。


 色を付けている最中さいちゅうを見られるのは近所に住む役得やくとくというものだろう。春信もそれを知っているから素知らぬ顔で縁側えんがわ障子しょうじを開け放している。


「さて、乾いたら版元はんもとに持っていかないと……今日は少し暑くなりそうだなあ」


 立ち上がって庭に下りた春信は胸いっぱいに息を吸い込んで伸びをした。

 そろそろ暑くなってくるこの季節は、春信だけでなくどこの家でも開け放して風を入れている。赤子あかごを背負いながら使いに飛び出してくる子ども。手習てならいに向かう兄弟。井戸の周りではおかみさんたちの声が飛び交う。笑いさざめく女たちは絵に描いてみたくなるほどに楽しそうだ。


 ひるがえって自分を見れば親はとうに死んでひとりきりだ。家はあれどその中には人も物もない。こういう様子を見れば少しさびしく思ったりもする。


「いけないねえ、しんみりしてる場合じゃない。今日こそはあたしの絵を買ってもらわなくちゃあ」


 ぱしっとほおを叩いて気合いを入れ直し春信は馬喰町ばくろちょうの版元、江見屋えみやへ向かった。

 版元に仕事の成果を納めた後、春信は自分の絵を差し出す。


「今回のはどうでしょう。清信きよのぶ清倍きよますもだいぶ研究してみたんですが」


 絵を取上げた江見屋はさらりと目を通しただけでそれを返してきた。


「前にも言ったが今は役者絵が流行りなんだ。せめて市川いちかわ團十郎だんじゅうろうを描いておくれよ。鳥居とりい派の絵を研究したんならわかってるだろう」


 やはり美人画は駄目だめかと春信は肩を落とす。

 春信の好みは昔の物語にあるような美人画だ。華奢きゃしゃな見た目の柔らかいやまと絵風は二枚目役者の武者姿に比べて勢いが弱い。女形おやまの絵もあるのだからと描いてみたのだが突っ返されてしまってはどうしようもない。

 それに追い打ちをかけるように江見屋が言った。


「それともうひとつ。悪いがこれからは色付けの仕事は減るよ」


 春信はきょとんとして首をかしげる。


「どういうことですか」

「彫りも摺りも変わるんだ。これからは一枚の絵に色を摺れるようになる」


 その時のことを思い出したらしく江見屋は興奮したように話しだした。


「いや、実は摺りの工夫を提案してくれたお人がいてね。目から鱗とはあのことだ。私らはすっかり頭が固くなっていたんだな……おっ、噂をすれば影だ。あの人だよ」


 江見屋が入ってきた人影に声をかける。


「いらっしゃいませ、平賀ひらが様。今お話をしていたところですよ」

「お侍……」


 腰に差された刀を見て思わず春信は呟いた。

 しかもだいぶ若い。二十歳はたちの自分よりも若いようだ。はしっこい目をきらめかせた若者はちらりと春信に視線を投げて、それからにこにこと江見屋に話しかけた。


「江見屋さん、あの工夫はどうだった」


 そうして笑顔のまま縁台えんだいに腰かける。


彫師ほりし摺師すりしの尻を叩いているところですよ。あれは面白いご提案でした」

「俺は何も知らないから思いつきを適当に言っただけだよ。そこからあれこれ考えたのは江見屋さんじゃないか」

「あの……」


 春信は話の中に割り込んだ。


「すみませんがそのお話をもう少し詳しく伺えませんか」


 春信の前でふたりは顔を見合せて笑いだす。


「確かにこれは話を知らないと何もわからない」


 笑いながら江見屋が版木はんぎを持ってくるよう奥へ言いつけた。


「つまり彫った版木のここと」


 江見屋の指が持ってこさせた版木を差す。右下に彫られたかどが印ということらしい。指はさらにそこから少し左へ辿たどり真ん中で止まる。そちらは紙の線に合うようにまっすぐな線が印として彫られていた。


「ここに合わせて紙を乗せるんだ」


 輪郭線りんかくせんを彫り出す版も、たとえば赤色だけを写した版も、版木はすべて同じように印をつけるのだという。

 確かに同じ印を見て紙を当てるようにすれば版がずれることはないだろう。


「なるほど。何十枚版木を彫って色を重ねても、その印がある限り色がずれることはない。そういうことなんですね」


 春信が言うと江見屋は苦笑しながらもうなずく。


「まあ、いくらなんでも何十枚は言い過ぎだがね。見当けんとうをつけたところに合わせれば間違いはないはずだよ」

「けんとう?」

「印を『見て』紙を『当てる』だろう? だから見て当てる印、見当をつけるんだ」


 縁台から声が聞こえた。

 顔を向けると自分の名づけだと若者が胸をはっている。

 それを見る春信の口元から笑みがこぼれた。平賀と呼ばれた若者の稚気ちきにあふれた自慢顔には愛嬌あいきょうがある。


「確かに妙案みょうあんですね」


 彫師も摺師もこの技法に慣れたらどれだけ色が乗せられるだろう。これは面白いと心をおどらせたが、そこで春信は先ほどの江見屋の言葉を思い出し納得した。


「それで今の仕事がなくなるっていうことですか」

「すぐにはなくならないよ。この技がものになるまでは色付けした紅絵べにえを売るからね。次の分も頼んだよ」


 どうあれ色摺りの版画に変わっていくのだろう。

 春信は納めた分の手間賃てまちんと次の絵を受け取り、最後に自分の絵も風呂敷ふろしきに包んだ。


 江見屋をし、歩きながら色摺りの話を思い返す。確かにあの方法ならもっと多くの絵を華やかにいろどれる。

 いつか自分の描いた絵が色彩豊かな版画になり多くの人の手に渡る。それを想像するだけでも春信の心は浮き立った。


「売れる絵を描かなきゃならないねえ」

「なら、俺と芝居見物に行かないか」


 春信は急に後ろから聞こえた声に驚いて振り向く。


「さっきの……」

「絵描きの先生は役者絵を描くんだろ? なら一緒に役者を見に行かないか」

「ずいぶんとあたしのことに詳しいようですね」


 どこから聞いていたと問い詰めると平賀は照れくさそうに目をらした。


「江見屋へ向かうところさ。見かけて気になったんだ」

「あたしは絵を見せびらかして歩いてはいなかったと思うんですが」


 れ馴れしく胡散臭うさんくさい。なにか目当てがあるのだろうが。いぶかしむ春信の眉間みけんしわが寄ってくる。


「さっき江見屋でも見たよ。本当に絵が気に入ったんだ。あの絵の華奢な雰囲気は先生にもあるね。俺は好きだな」

「……本当ですか」


 あのわずかな時間でそこまで見てくれたのかと驚いた。こんな言葉に心が動くとは他愛たあいもないと春信は思ったが嬉しいことには違いない。


「ああ! もちろん本当だよ。だから役者絵も描いてほしい。先生ならきっといい絵が描ける。芝居も俺ひとりで行くよりは誰かと観たいじゃないか。ちょうど面白そうなのがかかっているんだよ」


 大仰おおぎょうな言葉が重ねられ強引に誘ってくる。春信はこの若者がなんのためにこれほどに言ってくるのか目的が知りたくなった。


「そういうことなら一回くらい芝居につきあうのも悪くないですね」

「なら決まりだ。明日、市村座いちむらざで落ち合おう」


 春信はさっと歩き出そうとした平賀を慌てて呼び止めた。


「あの、もし! 名を申し上げておらず失礼しました。あたしは鈴木すずき春信はるのぶと申します」

「拙者、高松藩たかまつはんの者で平賀ひらが源内げんないと申す」


 互いに改まって挨拶した後、くすりと笑った源内が春信の耳元にささやいた。


「俺にだまされてると思ったら来なくてもいいんだぞ」

狐狸こりたぐいには見えませんし、平賀様は多分あたしより年下でしょう。子どもをひとりで芝居見物にやるわけにはいきませんよ。どちらにしろ役者絵は描かなきゃなりませんし」

「これは参ったね」


 子どものようにぺろりと舌を出し、源内は手を振って去っていった。


「お武家らしくない子だったねえ。何者だろう」


 藩の名前を出したのだからそれは間違いないのだろう。だが可愛げはあるが図々しい。


「これは本当に狐狸の類かもしれない。ま、化かされるのも一興いっきょうだ」


 春信はくすくすと笑いながら家へ向かった。

 翌日、市村座で芝居を観た後、帰る途中の水茶屋みずぢゃやで茶を飲みながら春信は言った。


「平賀様は何者ですか。お武家ではないでしょう。はかまも二本差しもとってつけたようだったし、今は着流きながしだ。そもそも言葉がぞんざい過ぎませんか」


 源内はばつが悪そうに黙っていたが、春信に向き直るとすまないと頭を下げた。


「俺は足軽の子なんだ。父に代わって藩のお役目にはついたがまだ日が浅い。似合わないのはそのせいだ」


 諸藩における足軽は番人や雑用、事務方の仕事をけ負うのだそうだ。身分は町人と同等だから士分とは違い袴や足袋たびを用いてはならないという。

 それを聞いた春信は驚いて声をひそめた。


「昨日の袴も刀もどうしたんだ。おとがめを受けるんじゃないのかい」


 春信は驚きのあまり言葉が戻ったことにも気づいていない。


「変装してることにした。全部借り物だよ」


 見つからなくてよかったと源内は笑ったが、下手をすれば命がなかったかもしれない。


あきれたねえ、なんでそんなことしたんだ」


 春信の問いに、言ったら嫌われるからと源内が下を向く。捨てられた子犬のようにしおれているが事が事だ。それじゃあ何のことかわからないと重ねて聞いた。


「絵描きの先生と知り合いになりたかったんだ。絵も好きだけど先生自身にも興味があって」

「あたしのせいかい?」

「知り合いになるのに勢いとか驚きとかがあったほうが印象に残るだろ。だって先生は男女関わらず色目を使われるじゃないか。考えなしだったのは認めるよ……ああ、だから嫌われるって言ったんだ」


 源内は軽い気持ちだったのかもしれないが、ひとつ間違えば生死に関わるような、そんな気持ちは重すぎる。


「ほんと、馬鹿だねえ」


 若気わかげいたりで済ますには重い話だが好意を向けられていることには違いない。可愛いところもあると思っていたから少しばかり気の毒な気もする。


「お武家の権威みたいなもんを押しつけたら江戸っ子は反発するもんさ。むしろ今のままの姿で最初から会いたかったねえ」

「ごめん先生」

「ああもう、男が人前でべそべそおしでないよ。みっともない」


 春信が手拭てぬぐいを差し出すと、ようやく源内が顔を上げた。


「それやるから、ちゃんと顔いときな」

「先生の手拭い……」


 涙と鼻水はそでぬぐい、受け取った手拭いはふところにねじ込んで返すものかと源内がえりを合わせる。

 なにやら恍惚こうこつとした源内の表情で春信は、はっと気がついた。


「やっぱり返しとくれ」


 眉を寄せたまま春信はそっちの趣味はないと突っぱねる。


「だからまあ、友人から始めるってのはどうだい」

「絵描き先生……」


 わん、と尻尾を振っている子犬が見えたような気がした。


 あれから連れ立って出かけることが増えている。

 源内が押しかけてきて、やれ芝居だ、天文台を見に行こうだと春信を誘い出す。話題が豊富なこともあって連れだって歩くのが楽しくなってきた。


「どうだい春さん、いいのは描けそうかい」

「だいぶ勉強させてもらってるからねえ。今度の坂東ばんどう彦三郎ひこさぶろうるのを描こうと思ってる」

「俺は瀬川せがわ菊之丞きくのじょうもいいと思うんだがなあ」

「菊之丞は女形だろう。源さんは好きそうだが、あたしは二枚目役者を描かなきゃならないんだよ」


 今までの柔らかい物語絵だけではない。力強い男役者も描けるようになった。その自信が言わせる。


「まあ、見ていておくれよ。次こそ色摺りを出してみせるから」


 その春信の言葉通り、弥生やよい三月の芝居に出ていた役者の絵に『春信筆』と落款らっかんも版木に彫られた。

 江見屋が春信の前に摺りあがった絵を一枚差し出す。それには赤と緑の色も摺られていた。特にべにの赤色があざやかに出ている。

 この浮世絵版画は『紅摺絵べにずりえ』と名づけて売り出すそうだ。


「仕上がりはどうですか、春信先生」


 摺りあがった自身の役者絵、最初の一枚を見ながら春信はうなずく。


「はじめて色摺りの仕上がりを見ましたが素晴らしいですね」

「春信先生の絵があってこそですよ」


 やっと江見屋に春信の名を呼んでもらえた。これが浮世絵師としての第一歩になる。

 それにしてもと江見屋の対応の変わりざまに驚く。こうまで変わるかと春信は苦笑をもらした。だがこれで自分も絵描きの卵ではない。浮世絵師の仲間になれたのだと誇らしい気持ちになる。


「春信先生は次の画題を考えておられますか」

「そうですね……『市川いちかわ亀蔵かめぞう曾我五郎そがの ごろう坂東ばんどう三八さんぱち三保谷四郎みおの やしろう』なんてどうしょう」

「いいですね、それでいきましょう」


 にこやかな笑顔で店先まで見送られ春信は礼を言って版元を後にした。


「春さんどうだった?」


 源内が駆け寄ってきて首尾しゅびかす。


「なんだい、もしかして待ってたのかい? 結果を御覧ごろうじろさ。あたしは色摺りを出すって言ったろう」


 春信は試し摺りの最初の一枚を出してみせた。


「……色摺りってのはすごいな。綺麗なもんだ。ああ、でもこの色の配置は春さんが工夫したんだろ。赤と緑の色分けが引き立てあって華やかだ」

「そこをめてくれるのは嬉しいねえ」

「今日は祝いだな! 浮世絵師、鈴木春信の誕生だ」

「馬鹿言ってんじゃないよ。浮かれてなんかいられない。もっと描いて腕を上げなくちゃならないんだから」


 最初の一枚など通過点に過ぎないと春信は笑う。

 いつか自分好みの華やかで柔らかな絵を描きたい。その時はもっとたくさんの色を乗せてにしきのような絵を描きたい。


「江戸の色を全部乗っけた絵を描きたいねえ」


 江戸の町にあふれる春の色をながめながら春信は青い空に手を伸ばした。

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