第28話 救援をあなたへ

「出やがった!」


 一瞬、島かと見間違ったそれは、巨大なカメの魔物だった。大型船の半分ほどと言葉では聞いていたが、実際に目にするとそのデカさにドン引きする。

 何喰ったらあんなにデカくなるんだ——ってか、ここまでデカくなる前に誰も気付かなかったのだろうか、というのが最初に浮かんだ場違いな疑問。

 名前にタートルとついているものの頭部はカメというよりもワニそのもので、背中に甲羅を背負っているせいで、ワニと呼ぶか、カメと呼ぶかの議論の末、僅差でカメと呼称するに至ったのだろう、というのが次に浮かんだ間の抜けた感想。

 そして、その巨大なカメの体表には、アーリムの森で出現したヌードラビットと同じく、禍々しい黒い靄が纏わりついていた。


「ん?」


 違和感を覚えた俺は、スピノタートルを覆う黒い靄に意識を集中する。

 甲羅から無数に突き出る棘の一つ、首の付け根に最も近いものの先っぽに、わずかではあるが白い光が見て取れた。


「船長さん! アイツの首の辺りの棘を見てください。人がいるかもしれない!」


「アンタ、まだいたのか? ここは危ないから離れろと——」

「いいから早く!」


 俺の怒声が船長の言葉を遮ると、それに気圧されるように船長は懐から単眼鏡を取り出し、それをスピノタートルへと向けた。


「ロク!」


「父ちゃん!? 父ちゃんがいたの?」


 少年が涙を浮かべながら船長の腰に縋りつく。


「ああ。スピノタートルの棘に脚が突き刺さってやがる。今のところ生きちゃあいるが……」


「助けに行きましょう、船長!」

「ヤツが次潜っちまったらお手上げだ。それじゃあロクがもたねえ」


 船員や渡船場の職員が口々にそう訴える。しかし、船長は難しい顔をしていた。


「おい、キュウ。お前は外に出て、避難していろ。ここは危険だ。お前の父ちゃんのことは俺たちが考える」


「で、でも……」


「早くしろ!」


 最初こそ避難を渋っていたキュウだったが、船長の一喝を受けると、ギュッと唇を噛んで外へと飛び出していった。

 キュウ少年は辛いかもしれないが、これは仕方がない。今ここに子どもの出る幕はないのだ。


「よし、船長! 早速船をだそう」


「ダメだ」


 しかし、救出に向けて気勢を上げる船乗りたちに、船長は静かにそう言い放った。


「負傷者の搬出が先だ。それが済んだら、お前たちは負傷者を連れて町へ戻れ。急がねえと間に合わなくなるやつもいるんだ」


「何言ってんだ、船長! 間に合わなくなるのはロクの方だろうが! あんた、ロクを見捨てるのか!」


 船員の一人が船長に胸ぐらを掴む。しかし、行き場のない怒りを奥歯が割れそうなほど強く噛み締めた船長の顔を見た彼は、すぐにその手を引っ込めることになった。


「す、すまねえ……ちょっと動揺しちまった。辛いのはあんたも一緒なのに……」


「構わねえよ。仲間思いなのはいいことだ」


 船長は乱れた襟元を整えながら、改めて船員たちを見回す。


「俺たちが行っても二次被害が大きくなるだけだ。救出は冒険者組合の討伐隊に任せる。討伐隊が来るまでは俺がここで状況を監視しておく。だからてめえらは負傷者の搬出と避難だ。いいか、これは船長命令だ。ここは陸の上だが従ってもらうぞ。わかったらさっさと動け!」


 船長の号令に、今度は異を唱える者は誰もいなかった。

 船乗りも渡船場の職員も皆、与えられた命令を確実に遂行すべく、迅速に行動を開始した。


 そして、誰もいなくなった渡船場にて——


 船長が一人、船に向かって歩いていく。


「ど、どうしよう、クライ……?」


「どうしようって言ったって……」


 俺たちが助けてやれるわけでもなく、覚悟を決めた船長を止める資格もない。


「俺たちにできることなんて、何もねえよ……」


 何もない——果たしてそうだろうか?


 ふと、そんなことを思ってしまった。

 俺には始原魔法がある。一流冒険者パーティ・アークをもってして脅威と言わしめたとっておきだ。曲がりなりにも、俺には戦う力があるのだ。

 俺たち自身の安全のために、彼らのことを見捨てる。それは最善の策のようであるが、そう割り切ってしまうのは口で言うほど簡単なことではない。ここで彼らのことを見殺しにして、俺たちは楽しく旅を続けられるのだろうか。俺は一生そのことを悔いながら生きていくことになるのではないだろうか。

 そんなことを思ってしまったのだ。


「はあ……俺ってもともとこんなことする性格じゃなかったはずなんだけどな……」


 俺は溜め息とともにそう独り言ちた後、船へと向かう船長の背中に声をかけた。


「一人で助けに行く気ですか?」


「はあ……あんたら、まだいたのか。危ねえから避難しろって言っただろうが」


 俺の声に振り返った船長は、ゴクッチ河より深い溜め息をついた。


「仲間を見捨てるわけにはいかねえからな」


「ロクさんは船長さんの船の乗組員なんですね」


「いや、ロクは個人渡船の船頭だ。だが、この岸で船に関わってるやつはみんな俺の仲間だ」


 なるほど、この状況でみんなに頼りにされていた理由がよくわかる。

 やっぱ死なせたくねえって思っちゃうんだよな。手を出せば俺が死ぬかもしれないっていうのにさ。


「俺にも手伝わせてください。ちょっとした魔法も使えるんで役に立つと思いますよ」


「見え透いた嘘をついてまで気を使わなくていい。あんた、黒髪じゃねえか」


 まあ、それが黒髪に対する普通の感想だよな。しかし、論より証拠だ。


 俺がわざとらしく長杖を振ると、水面に浮かぶ船の破片が宙へと浮かび上がる。そして、もう一度杖を振ると、浮かんだ破片はひとまとめになり、岸辺で山と積み上がった。

 船長からは破片がひとりでに浮かんでいるように見えているかもしれないが、ただ単に集めたプネウマで下から支えて持ち上げているだけだ。


「パフォーマンスを兼ねて掃除をしておきました。これで出航しやすくなりましたよ」


「く、黒髪が魔法とは俄かには信じられねえが、見せつけられちまったら信じるしかねえな……だが、魔法を使えるからって連れて行くわけには——」


「船長さんは、一人であの巨大なカメを倒せますか?」


 なおも逡巡する船長に俺は端的に聞いた。

 倒せるなら、それでよし。俺の出る幕なんかないし、みんなハッピーだ。だが、もしそうでないのなら、それは死にに行くのと同義だ。


「……倒す必要はねえ。ロクを助けて、ここまで逃げて来れりゃいいんだ」


「俺ならあのカメを倒せるかもしれません。倒せないにしても、隙を作ることぐらいはできますよ」


 これで断られたら退散しよう。少なくとも、何もしなかったわけじゃないと自分に言い訳ぐらいはできる。

 しかし、しばしの沈黙の後、苦渋に満ちた表情の船長が俺に向かって頭を下げてきた。


「すまん……よろしく頼む」


 仲間の命を助けるために一緒に命をかけてくれ——彼が彼の仲間たる船員に対して終ぞ口にしなかったことを、赤の他人たる俺に頼んだのだ。

 だったら俺は応えたい。

 この世界に来てそう長くはないが、いつの間にか自分自身もこの世界の一員であるかのように感じてしまっていたからこそ、そう思ったのだと思う。


「クライが行くなら、わたしも行く」


「え? おい、ルシュ?」


 ルシュのその一言で今度は俺が困る番になってしまった。

 しかし、ルシュを旅に連れ出してしまった以上、俺にとっての最重要ミッションはルシュの安全確保だ。そういう意味では、とても容認できる申し出ではなかった。


「わたしはクライの『お守り』なんだよ。いつもそばで無事を祈るって約束だったでしょ」


「わかってるよ、ルシュ。そういう契約だったもんな。でもな、契約内容によると、俺はルシュのことを守るってことにもなってるんだ。あのデカブツ相手だと俺は自分のことで精一杯になっちまって、ルシュのことを守る余裕はなくなりそうなんだ。そうなると契約違反になって困ったことになるんだよ。だから、頼むよ。ここで待っててくれ」


 こういうときは頭ごなしにダメだと言っても逆効果だ。俺は努めて冷静にルシュの説得を試みる。


「で、でも……」


 なおも食い下がろうとするルシュに、船長が、これまでの様子からは想像もできないような優しい口調で声をかけた。それは俺にとってはありがたい援護射撃だった。


「嬢ちゃん、船乗りの女房ってのはみんな嬢ちゃんと同じ気持ちなんだ。でもよ、心配だからって一緒に船に乗り込んだりはしねえんだ。家で男の無事を祈って待ってくれてんだよ。男にとってはそいつが一番の力になる。それにな、この船は三人乗りなんだ。嬢ちゃんを乗せていくと、ロクを連れて帰って来れねえ」


「……わかりました」


 船長の諭すような言葉に、ルシュは渋々首を縦に振った。


「待ってる。ここで待ってるから、ぜったい無事に帰ってきてね」


 俺の腕に縋るルシュの頭をポンポンとやって、俺は笑顔を見せる。

 死にに行くつもりはない。きっと無事に帰ってくるさ。


 心配気な顔のルシュを残し、船長と二人、船に乗り込む。機動力を重視した小型のボートだ。


「出すぞ。しっかり掴まってろ」


 水魔法で前進するボートはスピノタートルへと向かってぐんぐん進む。

 それと同時に俺の心に恐怖が俄かに湧き上がってきた。しかしそれは、巨大な魔物への恐怖ではなかった。

 ここに来て俺はとても重要なことを唐突に思い出してしまったのだった。


「船長さん、俺、泳げないんです。落ちたときは助けてくださいね……」


 俺の突然の告白に、「役立たずだったか」と船長の舌打ちが聞こえた気がした。

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