第27話 夜這いをあなたへ
朝——街道が少しずつ活気に満ち始める。
テントの隙間から太陽が差し込み、俺の顔を照らす。
「あと少しだけ寝かせてくれ」
どうやら昨日は少し飲み過ぎたようだ。二日酔いとまではいかないが、少し頭が重たい気がする。
俺は開きかけた目を再び瞑り、微睡の中で、隣に横たわる女を抱きしめる。
チュンチュンと鳥の鳴き声——
パカラパカラと蹄の音——
ガヤガヤと行き交う人たちの声——
それらを遠くに聞きながら、俺は唐突に目が覚めた。それと同時に可能な限りの最大速度でテントを飛び出した。
女——
俺は今、女を抱いていた——
背筋に冷たい汗が走る。
恐る恐るテントの中を覗き込む。
中にいるのは白い髪の女。ブランケットを胸の前で握りしめ、俯いたまま、肩を震わせている。
心なしか、着衣が乱れているようにも見える。
ま、まさか……
酔いに任せて、無理矢理になんて……
俺は人の道を外れてしまったのか……畜生道に落ちてしまったのか……
俺はどう償えばいいのか……
俺は……俺は人として最低だ!
「ルシュ……」
そう声をかけたものの、言葉が続かない。かける言葉が見つからないのだ。
しかし、だからといって黙っているわけにはいかない。
俺の贖罪は、今ここから始まるのだから。
「ルシュ。ごめ——」
「わーい! ひっかかったー!」
最低なのは、人として最低なのは——ルシュだった。
⚫︎
「女に手を上げるなんてサイテー」
御者台の俺の隣で、脳天にチョップをくらったルシュが、文句を垂れる。
「お前にそんなことを言う資格はない」
「まだ怒ってるの?」
「当たり前だろ」
「だって、夜営なんて初めてだから、一人で寝るの怖かったんだもん」
「一人で寝るのが怖くて、よく世界一周巡礼の旅をやろうなんて思ってたな。ってか、一晩中いたってことか?」
「そうだよ」
「そうだよって……だいたいお前、歳いくつなんだ?」
「二十二? だったかな?」
「同い年じゃねえか!」
見た目も行動も幼いので、もっと年下かと思っていた。
「いいか、お前は意識してないのかもしれないけどな。俺も男なんだ。弾みで何かあったら困るだろ」
「ふーん、困るんだ。それじゃあ、わたしがあんなことしても全然嬉しくないってこと?」
「そういうことを言っているんじゃねーよ」
「じゃあ、ロッサさんだったら?」
「べ、別に、う、嬉しくなんてねーよ? まったくね?」
「じゃあ、レイさんだったら?」
「…………」
「サイテー」
ジト目で覗き込んでくるルシュの顔を押し返して、俺は咳払いを一つ入れる。
「とにかく、もうあんなイタズラするんじゃないぞ」
「イタズラじゃなかったらいいの?」
「だから、そういうのをやめろって言ってるんだよ。いいか、次やったら、どうなっても知らんからな! わかったな!」
「イタズラじゃなくて、どうなっても構わないなら、またやってもいいってことはわかりました!」
ピシっと敬礼のポーズを決めるルシュに、俺は深い溜息をつく。
はあ、頭イテー……
この頭痛が二日酔いのものだったらどんなに楽だっただろうか。
俺はそんなことを思いながら、北へ向かって馬車を走らせた。
⚫︎
出発してから二日目の夜は、当初の予定どおりに宿に泊まった。もちろん部屋は別々だ。
二日続けて夜這いをかけられたら堪らんからなって、普通は立場が逆だろうに……
そして三日目の早朝。
まだ夜も明けきらないうちから、ぐずるルシュを叩き起こして出発準備を整えて、この街道の一番の難所だと思っているゴクッチ河に向けて出発する。
ちなみに難所だと思っているのは俺だけで、水魔法が使えて、そもそも水との親和性が高いこの大陸の人たちにとっては、馬車や徒歩で街道を進まなくていい分、川渡りはむしろ楽な行程なのかもしれない。
「すごーい! これは川というよりも海だね」
ゴクッチ河を眼前に迎えて、ルシュが子どものようにはしゃいでいる。
川渡りなんて俺にとってはただただ憂鬱なだけなので何故にそんなにテンションが上がるのかまったくもってわからないが、ルシュが漏らした感想だけは理解ができる。
川幅が小さく、水量も少ない急峻な川の多い日本で育った俺からすれば、滔々と流れる目の前の大河は海となんら変わりはない。
「なあ、ルシュは泳げるのか?」
「んー、どうだろう? 泳いだことないからわかんないなあ」
「そっか……」
青の大陸にいて泳いだことがないっていうのも珍しい気もするが、やってみたことがなけりゃわからないっていうのはしょうがないか……
「ねえ、クライ。もしかして泳げないの?」
「…………」
恥ずかしながら俺は泳げない。足がつかない水場は正直恐い。
「何とか迂回できないかなあ」
「無理だよ。山の上の方まで上って源流のあたりまで行けばできるかもしれないけど、すっごく遠回りになっちゃうし、船が出てるんだから渡っちゃった方が早いよ」
「そりゃそうなんだけどさ……」
こんなことならライフジャケットも自作しておくんだったぜ。ま、信頼に足る物ができるかどうかはわかんないんだけどさ。
憂鬱な気持ちそのままに足取り重く渡船場へと向かっていると、目的地の方から行商人や冒険者たちがぞろぞろと引き返してきていた。
「あのう、何かあったんですか?」
「今日の出航は停止だってよ」
「いやいや今日どころかしばらく船は出せなくなるんじゃないか」
「困ったのう。しばらくはここで足止めかのう……」
すれ違う人たちに尋ねてみたところ、皆それぞれが困惑の表情を浮かべていた。
「スピノタートルの巨大種が出たんだよ」
聞いた話によるとスピノタートルというのはワニガメのようなカメのことのようで、本来は人の身の丈ほどのサイズらしく、しばしば漁網に引っかかってはそれを食いちぎったりするため、漁業被害の原因種として頻繁に討伐依頼の対象となっているそうだ。
自分の身長ほどのワニガメを想像するだけでも十分恐ろしいのだが、目撃情報では今回出現した巨大種のサイズは、馬車を十台積み込める大型の渡し船ほどの大きさをしていたそうだ。もはやカメというよりも恐竜だ。
「どうするの、クライ?」
「とりあえず渡船場に行ってみよう。状況把握と情報収集が必要だ」
川渡りはしたくないと思っていたが、いざ渡れないとなるとそれはそれで困ってしまうのが人情というものである。なんとか向こう岸に渡る方法はないものか、できれば川渡り以外の方法で。
しかし、そんなふざけたことを言っていられたのも渡船場に着くまでだった。
「おい、あんたら、今日は欠航だ! 早く河岸から離れろ! ヤツは陸にも上がるぞ!」
渡船場のチケット売り場に入るなり怒号が飛んできた。
桟橋の向こうには大破した船の残骸が浮かんでいる。いや、浮かんでいるのは船だけではない。船の破片に必死でしがみついている者や、力なく水面を漂うだけの者もいる。
そんな彼らを船乗りたちや渡船場の職員たちが懸命に陸に引き上げ、そこかしこで救急救命措置が施されている。
渡船場はさながら戦場の様相を呈していた。
「おい、ポック! 数を数えろ! 全員いるか確認するんだ!」
「船長! 全員います!」
「よし! 一旦ここは閉鎖だ。負傷者を抱えて速やかに退避!」
「アイアイサー!」
呻き声と嗚咽を怒号と悲鳴が上塗りする現場は、一歩間違えれば恐慌状態に陥ってしまうだろう。それを一歩手前のところでなんとか踏みとどまらせているのは、船長と呼ばれている男の的確な指示だ。
「な、何かできることないかな……?」
「気持ちは分かるが今はダメだ。下手に部外者が手を出すと統制が乱れちまう」
役に立てないならせめて邪魔にだけはならないようにしないといけない。
無力感に苛まれながら、次々と負傷者が運び出されて行くのをただただ黙って見ていることしかできない。
「次の人たちが運び出されたら俺たちもここを出よう。ここで突っ立っていても邪魔になるだけだ」
そう言って、流れを遮らないように注意を払いながら、外へ出ようとした俺たちとすれ違い様に、一人の少年が血相を変えて飛び込んで来た。
「船長! 父ちゃんがまだ帰ってきてないんだ!」
少年の悲痛な叫びと同時に、河の中央では一つの島がひょこりと浮かび上がっていた。
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