第24話 おまじないをあなたへ
「おいしそおー」
後を追った俺が店に入ると、ルシュが涎を垂らさんばかりの勢いで、ぐつぐつと煮えるおでんのような煮込み料理を食い入るように見つめていた。
「こらこら、売り物に涎が落ちるぞ」
ルシュの口を押さえて引き寄せると、ルシュが再びウルウルした瞳でこちらを見つめてくる。
「食べたいな?」
「お前、金は?」
「持ってないわ」
くそ! 清々しいまでにダメ人間だな。
「晩飯にはちっと早いが、かみさんもそう言ってることだし食ってけよ、あんちゃん。最初の客には一杯奢ることにしてんだぜ」
こちらの様子を伺っていた店主のおっちゃんが、ここぞとばかりに売り込みをかけてくる。
「ほらほら、お店の方もあのように言ってくださっていることですし。お願い、あ、な、た」
「貸すだけだからな——」
「ね?」
何度も同じ手が通用すると思うなよ……
「ね?」
ルシュが両手で俺の手を握り、懇願の瞳を向けてくる。
さ、さすがにこれは卑怯だろ……
「ちょ、ちょっとだけだぞ!」
「大好き!」
そう言って俺の腕に抱きついてくるルシュ。
腕にはふんわりと柔らかい感触。
く、悔しいが、今回のは今のでチャラってことにしておいてやろうじゃないか……
こうして、何故だか突然できてしまった旅の道連れは、何故だか無一文で、それにもかかわらず何故だかふらりと屋台に立ち寄り、何故だか俺が奢らされる羽目になってしまった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるから、ここでちょっと待っててくれ」
最初の屋台で飲み始めてから早三軒目。
メンタル的にも酒量的にもよくぞ人の金でここまで飲めたもんだと、半ば感心しながら席を立つ。
「ついて行っちゃダメなの?」
「ああ。大切な用事なんだ」
だから隣で蟒蛇うわばみがいくら飲んでいようとも、俺は最初のエール一杯しか飲んでいない。
「わかった。じゃあ、待ってる。待ってるから絶対迎えに来てね」
「そうか! ここに置いていくって手もあったな」
「もう!」
俺の軽口にルシュが頬を膨らませたところで、ルシュの頭をポンポンとやって詫びを入れる。
「悪かった。必ず迎えに来るから、ちゃんと大人しくここで待ってるんだぞ」
それだけ言い残して、すっかり夜の帷が落ちた街へと足を向けた。
⚫︎
コンコン——
閉店後の『猫の手』の扉をノックする。
「すまねえ、もう閉店なんだ——って、クライか。どうした? やっぱり寂しくなって出発を止めにしたのか?」
扉を開けたのはワーキンだった。続いて、店の中からメルラが顔を出す。
「あら、クライ。どうしたの? 寂しくなって出発を止めることにした?」
やっぱり夫婦だな、と思わず噴き出しそうになる。
昨日別れを告げたときも、二人して思いっ切り俺を引き留めてくれた。本当にありがたい話だ。
ただ今日は、二人に改めて挨拶をしに来たわけではない。
「アイリスと話がしたくて。できれば二人で」
俺はワーキンにそう言った。夜分に娘と二人で話がしたいというからには、父親の許可は必須だろう。
「手ぇ出すなよ」
「それを聞くのも今日で最後だと思うと少し寂しいです」
「だったら——」
メルラがそう言いかけたところを、ワーキンが手で制す。
「もし攫って行くっていうなら、俺たちが寝た後にしろ。邪魔されたくはないだろ」
「そうですね。そのときはそうします」
その言葉で許可を得たものとして、俺は店の奥のワーキン家自宅部分へと上がりこむ。もはや勝手知ったる他人の家だ。
段差を排除し、手摺を設え、要所要所には点字のような手彫りの記号が刻まれている。盲目となった娘のために改築された家の廊下の最奥左手、アイリスの部屋の前まで来ると、俺はゆっくりと息を吐いて、静かにその名を呼んだ。
「アイリス」
「クライさん!」
勢いよく扉が開かれ、アイリスが顔を出す。これが引き戸ではなく開き戸だったら、俺の鼻は消し飛んでいたかもしれない。
「やあ、アイリス。遅くにごめんな」
「クライさん……どうしたんですか?」
「最後にもう一度だけアイリスに会っておきたくてさ」
「……ひどいです。せっかく笑顔でお別れできたのに……」
消え入るような声で呟くアイリス。ランプに照らされたその頬には涙が伝っている。
「ごめん。でも、どうしても二人で話がしたくてさ。アイリスとやっておきたいことがあるんだ」
「や、や、やっておきたいことって……で、で、で、でも、お、お父さんもお母さんもまだ起きてるし、わ、私もまだ心の準備が……」
「ちょ、ちょっと、アイリスさん? そういうことじゃなくて、ね?」
「ご、ご、ご、ごめんなさい!」
アイリスの顔が真っ赤に茹で上がったかと思うと、引き戸が物凄い勢いで閉められた。
俺があと一歩踏み込んでいたら、俺は自分の鼻ともお別れをしなければならなかっただろう。
「アイリス」
アイリスが冷静さを取り戻すまで少しだけ間をおいて、俺は部屋の外からもう一度声をかける。
「入ってもいいかな?」
「……どうぞ」
許しを得てから部屋へと入る。ここ二か月ほど、毎日にのように『猫の手』には通っていたが、アイリスの私室に入るのはこれが初めてだ。
当然と言えば当然なのかもしれないが、飾り気のない質素な部屋には、少し寂しさを感じてしまう。
アイリスはベッドの端に座って俯いている。俺はその隣に手のひら一枚分だけ距離をとって腰をかけた。
「なあ、アイリス。目が見えるようになったら何をしたい?」
「クライさんの顔を見てみたいです」
「ははは。そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、アイリスに幻滅されるのは嫌だなあ。知らないままでいた方がいいかもしれないぞ」
アイリスの想像の中で俺が相当に美化されているのは間違いがなく、できれば俺としては美しい俺のままでありたいと思う。
「他には?」
「そうですねえ、お父さんとお母さんの顔をもう一度見たいし、お店の厨房にも立ちたいです。街中を走り回って、夏には海で泳いで、花を見て、夕日を眺めて、演劇なんかも観に行ったりして……やりたいことはいっぱいあります」
やりたいこと——それは、やりたくてもやれないこと、これまでずっと諦めてきたことだ。それでも『やりたいこと』と前向きにとらえて楽しそうに指折り数える彼女は本当に強い娘だと思う。
「全部叶うといいな。俺にはそう祈ることぐらいしかできないから、最後におまじないをさせてくれないか?」
「おまじない?」
「ああ。やっておきたいことっていうのはおまじないのことさ。想像と違ったか?」
「い、意地悪言わないでください!」
アイリスは赤く染めた頬を膨らませる。なかなか可愛らしい表情だが、これ以上意地悪するのもかわいそうだな。
「さて、ちょっとだけまぶたに触れてもいいかな?」
アイリスは俺の問いに答える代わりに、両手を目の前で組んで、顎を突き出すようにこちらに顔を向けた。
なんかちょっと違うような……
ふつふつと湧き上がってくる邪な心を自称紳士としての矜持で押し留めると、俺は咳払いを一つ入れた後、アイリスのまぶたに精神を集中する。
瞑られた瞳の上にへばりつく黒い靄が姿を現す。
やはりそれは、巨大種と化した魔物の体表で蠢いていたものと全く同じだった。
「痛かったり、途中で気分が悪くなったりしたら言ってくれ」
それだけ言って、アイリスのまぶたに、その上の黒い靄にゆっくりと手を伸ばすと、それは俺の指を避けるように激しくうねり出す。
しかし、アイリスの目に纏わりついているのだから黒い靄に逃げようなどない。俺は、右手の親指と人差し指でそれを摘まむと、ゆっくりと、ゆっくと、少しずつアイリスのまぶたから引き剥がしていく。
「痛くないか?」
「はい。あの……いったい……?」
「おまじないだよ」
アイリスの目が見えない理由は、眼球や視神経に異常があるからではない。単にまぶたが開かないからだ。そしてその原因はおそらくこれだ。
この正体不明の黒い靄を取り去ってしまえば、アイリスの瞳は開かれるのかもしれない。
しかし、それはあくまでも仮説であり、希望的観測だ。だからこれは『おまじない』だ。俺の予想が正しければいい、アイリスの目が見えるようになればいい、そんな願いを込めただけの『おまじない』なのだ。
これでよし!
暗がりの中、目を凝らしてアイリスのまぶたを具に観察するが、もうそこには黒い靄は欠片たりとも残っていない。アイリスの瞳はついに忌まわしい黒い靄から解放されたのだ。
一方、住処を追われた黒い靄は、諦念したかのように俺の指に摘ままれたまま、力なく揺らめいている。
この靄は魔物の体表から発されていたものと酷似している、というか、おそらく同一のものだ。そうであれば、これまでの経験上、このまま解放してやれば、しばらく中空を漂いながら、やがては霧散していくことだろう。
しかし、念には念だ。こいつはアイリスから遠く離れたところで処分しよう。
「終わったよ。でも、まだ目は瞑ったままでいてくれ」
「目を瞑ったまま——って、私の目は開きませんよ?」
もしかしたらもう瞳は開くのかもしれない。そうであってくれれば何よりだ。
「半刻ほどしたら、試しに目を開けてみてくれ」
目はゆっくりと開くこと。両目を同時に開けないこと。急に明るいところを見ず、暗闇の中で目を慣らすこと。目が開いた翌日は太陽の下にでないこと。慌てずにゆっくりと明るさと『目が見える』ということに慣れていくこと——
それは、かつてアイリスが俺に語った『瞳が開くようになったときの心得』だ。目が見えない日々の中、いつか来る日のための準備を怠らないアイリスの強さは本物だ。
だから心配はしていない。何の憂いもなく、俺は旅立つことができる。
「ありがとう、アイリス。幸せになるんだぞ」
「クライさん!? 待って! クライさん……」
最後にアイリスの頬を撫でて、部屋を出る。そんな俺を、涙に濡れた声が引き留める。しかし、立ち止まることも、振り返ることもしない。
「さよなら、アイリス」
俺は、俺にだけ聞こえるようにそう言った。
「行っちまうのか?」
店から出た俺を待ち構えていたのは、ワーキンさんだった。
「攫うなら俺たちが寝てからにしろ——なんて言っておいて、攫わせる気なんてないじゃないですか」
「可愛い一人娘なんだから当然だ」
ワーキンは軒先の待合用のベンチから腰を上げると、俺の前で深々と頭を下げた。
「ありがとうよ、クライ。この数か月、お前のおかげでアイリスはいつも笑顔だった。お前がここに残るってんなら、この店の暖簾をやってもいいと思うぐらいには感謝しているよ」
「いやいや、俺なんかには勿体なさ過ぎますよ。それに礼を言わなきゃいけないのは俺の方です」
美味い飯、明るい笑顔、和やかな会話——アークのみんなが生きる術を与えてくれたのだとすれば、ここ『猫の手』は、俺に家族の温かさを与えてくれた。それは、異世界で独りぼっちだった俺にとって、何にも代え難い素晴らしいものだった。
「本当にありがとうございました」
俺は鋭角に腰を折り、頭を下げる。現代日本で生きてきたんだ、お辞儀をさせたらこの世界に右に出る者はいないだろう。
少々お辞儀が深すぎる気もするが、それは感謝の深さの表れだ。
「達者でな」
「ワーキンさんも、メルラさんも、いつまでもお元気で」
必ず帰ってきます——
またいつか会いましょう——
つい口を衝いて出そうになるそんな言葉たちを飲み込んだ。
これは元の世界に帰るための方法を探すための旅だ。首尾よくそれが見つかれば、俺はこの世界から去ることになる。
それに、この世界の人たちにとってさえ、旅は過酷なものだ。何もできない、何も知らない俺にとっては、その過酷さは熾烈を極めるものになるだろう。もしかしたら、命を落とすことだってあるかもしれない。
だから、これは今生の別れだ。
出会いも、別れも一度きり——今回だけではなく、これからこの世界で出会う全ての人に、俺はそういう気持ちで接していこうと思っている。まさに一期一会というやつだ。
俺は『猫の手』を後にする。
月も星もない真っ黒な空の下、ぽつぽつと街灯が灯る薄暗い道を、振り返らずに歩く。
たぶんワーキンは、そんな俺の背中が見えなくなるまで見送ってくれていたのだと思う。
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