第14話 黒い靄をあなたへ
そうして辿り着いた戦場で俺が見たものは、目を覆いたくなるような凄惨な光景だった——
「やあ、クライ。連絡ありがとね。でも、どうやらおれっちの出番はなさそうだね」
肩で息をする俺を見つけて駆け寄ってきたのはミットだった。その背には助けを求めていた木こり風の男を背負っている。
「よかった、その人無事だったんだな」
「倒れてる頭の横にでっかい足跡があったから、文字通り一歩間違えてたらアウトだったね」
紙一重で生き残った状況は冷や汗ものだが、とにかく無事で何よりだ。それよりも、真に冷や汗ものと言えば、まさに目の前の光景こそそうなのだろう……
「そ、それにしても、すげえな……」
「クライはおれっちたちの戦いっぷりを見るのは初めてだっけ?」
「ああ。あれはいったいどうなってるんだ?」
俺は、巨大な水球の中に囚われ、もがき苦しむ哀れな巨大筋肉ウサギを指差した。
「あれは、
十トントラックを上回ろうかという大きさの魔物を、その水塊はすっぽりとその中に納めている。水場のないこの場所で、純粋に魔力だけであれだけの量の水を生み出しているのはドットらしい。「ドットの魔力量は本当に半端ない」とはミットの言だ。
そして、その巨大水塊を形作っているのはロッサの力だ。水球自体はわりと誰でも作れるものらしいが、水球が大きくなればなるほど、水を操るための繊細な魔力調整とそれを持続する集中力が要求されるため、これほどの芸当ができるのはほんの一握りなのだそうだ。そして——
「いよいよクライマックスだよ」
ラッツが剣を天に翳す。
刀身が白く輝き出し、それと同時に、哀れなウサギを覆っていた大量の水がその刀身へと集まり出す。
「龍だ……」
俺がそう呟いたのは決して誇張ではない。
ラッツが剣を振り下ろすと、龍の形をした水塊が解き放たれ、最早生きているとも死んでいるともわからないウサギへと襲い掛かる。
そして、龍の姿が白い光とともに霧散したその後に残されていたのは、そのアイデンティティたる長い耳と切歯を含め、上半身の全てを失った本当に哀れな元筋肉ウサギの姿だった。
「あーあ、ラッツのやつ、張り切り過ぎだよ。あれじゃあ、魔核ごとなくなっちゃてるかもしれないじゃないか」
唖然とする俺の横で、ミットは両手を広げてやれやれと頭を振った。
そんな俺たちに、向こうからラッツが手招きをしている。
「ち、近づいて大丈夫なのか……?」
「ラッツがそう判断しているなら大丈夫でしょ。もう剣も納めてるみたいだし」
すでに討伐されているとは言え、あれだけの化け物に近づくには勇気がいる。
通常サイズの筋肉ウサギの時点ですでに常識外の存在だったが、今あそこに横たわっているアレは俺の想像力の一回りも二回りも上をいっている。『恐怖』そのものだと言ってもいい。
しかし、だからこそ俺は、歩を進めるミットに従った。これから旅を始めるにあたって、この手の化け物のことを知っておく必要があるし、何と言っても、一人取り残されるのは危険だからね。
「よくやってくれたね、クライ。おかげで助かったよ」
「あ、ああ……」
爽やかな笑顔を作るラッツに、俺は曖昧に返事をする。
最上級の危機だと思って俺は駆けずり回ったわけだが、実際は危機でも何でもなかったようだ。
「助けを呼びに行かなくても大丈夫だったんじゃ……」
「そんなことはないさ。トラはウサギを狩るのにも全力を尽くす、と言うだろう?」
ほらね。あの化け物ウサギに対して、自分たちをトラに例えている時点で余裕綽々じゃないか。だが、それはまあいい。そんなことより——
「さっきの筋肉ウサギって、大人になるとこんなにでかくなるのか?」
目の前の巨大ウサギを見上げると、胸部から上をキレイに抉り取られた断面から鮮血が飛び散り、鮮やかなピンク色をした筋肉がいまだに波打つように収縮と弛緩を繰り返している。
なかなかにグロい光景だが、幸か不幸か、卒業研究で様々な動物を扱ってきたおかげもあって、グロいものには慣れている。問題はグロいことではなく、やはり、このデカさだ。
「いいや、そうじゃないんだ。さっきまで練習として相手をしていたのが立派な成獣さ。この個体が特別なんだよ」
「突然変異的な?」
「そうよ。よく知ってるわね」
話を引き継いだのはロッサだ。ロッサもロッサで、ついさっきまで『ほんの一握りの者にしかできない芸当』をこなしていたとは思えないほど涼しい顔をしている。しかし、その表情には憂いの色があった。
「この手の魔物は『巨大種』だとか『変異種』だとか言われているわ。巨大化の原因については諸説あるけど、はっきりとした結論は出てないみたいね。もちろん巨大化の原因を明らかにするのも大事だけど、もっと差し迫った問題があるのよ」
「まさか、出現頻度が上がっているとか……?」
「お、冴えてるね、クライ」
次に話を引き取ったのはミットだ。
「通常、巨大種の目撃事例は十年に一度ぐらいなんだ。都市部なんかのそもそも魔物自体が少ないところだと、何十年も巨大種を見ないってこともある。でも、ここ最近は異常なほど巨大種の目撃例が相次いでるんだ。おれっちの調べでは、今日を含めてこの三年で十八例、直近半年で六例も目撃されてるんだよ。そう言えば、初めて会ったときにクライを襲っていたのも巨大種だったね」
「良くないことの前触れじゃなければいいんじゃがなあ……」
あーあ……言っちゃったよ、この人。
顎鬚を撫でながら思案顔を作るドットに俺は冷たい視線を飛ばす。
そう言うのはな、フラグって言うんだよ……
まあ、ドットがフラグを立てようが立てまいが『良くないことの前触れ』である可能性は高そうだ。
「問題は巨大種なるものの出現頻度が上がっていて、それはこれからも続く、あるいは、さらに上がる可能性がって、旅の道中で巨大種に遭遇する危険性が高くて、俺にはそれに対応する術がないということか……控えめに言って詰んでるな、これ……」
俺はそう独り言ちながら、巨大筋肉ウサギの体表で悍ましく蠢く『黒い靄』へと視線を移した。
よくよく観察してみると、その靄はウサギの体内から滲み出る煙のようにも、体表にへばりつくタールのようにも、体表を這いまわるヘビのようにも見える。
その靄には見覚えがあった。この世界に飛ばされた初日、鬱蒼とした木々に覆われたジャングルの中で、俺を襲った巨大なジャガーにも同じように『黒い靄』があった。
その一方で、人間や動物、そしていわゆる通常サイズの魔物に至るまで、俺がこの世界に来てから目にしたすべての生き物には『黒い靄』は見られなかった。もしかしたら、この『黒い靄』が巨大種の特徴、あるいは、巨大種たる所以なのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は『黒い靄』へと手を伸ばしてみる。
なぜそうしようと思ったのかはわからない。普段の俺であれば、こんな悍ましいものを触ってみようなどと思うことは決してないだろう。
しかし、なぜだかこのときは、そう、まるで何かに導かれるかのように、自然と手が伸びたのだった。
「触れる!?」
触ろうと思って手を伸ばしたのだが、まさか本当に触ることができるとは驚きだった。
数枚重ねたティッシュペーパーを掴んでいるかのような感覚。違うのは、そのティッシュペーパーが俺の手から逃れようとうねうねと蠢いていることだ。
俺は掴んだ黒い靄をそのまま引っ張ってみる。すると、ベリベリと黒い靄が巨大筋肉ウサギの体表から引き剥がされていく。いや、ベリベリという表現は適切ではないかもしれない。マジックテープを剥がすような感覚が一番近いような気がするが、地面から草を引き抜く感触のような気もするし、マグネットシートを冷蔵庫から剥がすような感じもする。あるいは、そのすべてが綯い交ぜになったような奇妙な感覚だ。
やがてぶちっと切れて完全に魔物から分離した黒い靄は、なおも俺の手から逃れようと一頻り暴れまわった後、端の方から少しずつ霧散し始め、ついにはすべてが空の中へと消えていった。
「お主、何しとるんじゃ?」
ドットが怪訝な顔で俺を見る。
「何って、この黒い靄って何なのかなあ、思ってさ」
「何を言っとるんじゃ? 黒い靄なぞどこにも見えんぞ?」
「いやいやいや、ドットこそ何言ってんだよ」
目の前の魔物の表面は黒い靄だらけじゃないか。これが見えないなんていうのはさすがに冗談が過ぎる。
「なあ?」
俺は他の三人に同意を求めるが、誰一人賛意を示そうとはしてくれない。それどころか——
「く、黒い靄——って、それ本当なの、クライ?」
「ほ、本気と書いてマジだけど?」
驚愕の表情で掴みかかってくるロッサ。
いつもの飄々としたロッサからすると、らしくない態度ではあるが、俺はこんな様子のロッサに見覚えがあった。彼女と部屋を掃除していたあの日、俺が『白い光』が見えると言ったときと同じだ。
「も、もしかして、これも見えちゃまずいヤツだった……?」
「ごめんなさい……」
「え!? なに!? 謝られると怖いんだけど!? 死ぬの!? 俺、死ぬの!?」
黒い靄に触れた者は、三日以内に凄惨な最期を迎える——そんな都市伝説でもあるのかと思ったが、どうやらロッサは俺に掴みかかったことを謝っただけのようだった。
「私の事務所に来て」
表情の見えない声でそう言うと、俺の返事も聞かず、ロッサはローブを翻してこの場から去って行った。
「お、俺、なんかロッサのこと怒らせちゃった……?」
普段とは違うロッサの様子に不安を覚え、俺は助けを求めるように三人を見た。
「怒ってはおらんじゃろ。まあ、ロッサのあんな様子は珍しくはあるがのう」
「事情はよくわからないけど、彼女には何か思うところがあるようだね。でも大丈夫、悪いようにはならないさ」
「さ、早く行った方がいいよ。今は怒ってないけど、遅くなると怒り出すからね」
「そ、それもそうだな! おーい、待ってくれ、ロッサ!」
三人に背中を押され、というようりも急かされた俺は、今にも見えなくなりそうなロッサの背中を慌てて追いかけたのだった。
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