第13話 訓練をあなたへ

「うわあ!」


 目の前に中型犬ほどの大きさの赤い肉塊が飛び出してきて、俺はその場で尻もちをついた。

 肉塊だと思われたそれは、ウサギだ。しかしただのウサギではない。筋骨隆々の体躯は一切の毛に覆われておらず、興奮で充血した皮膚が真っ赤に染まっている。ウサギのトレードマークである長い耳とげっ歯目の特徴たる立派な切歯がなければ、ウサギであることを疑うほどの異形だ。

 ヌードラビット——この辺り一帯でよく見られるポピュラーな魔物の鋭い切歯がきらりと光り、俺は思わず目を瞑って顔を反らした。

 しかし、その凶刃が俺に届くことはなかった。もったいぶるように一歩遅れて飛び込んできたずんぐりした男の重盾に、ヌードラビットは弾丸のような勢いそのままに突っ込むと、壁にぶつけたトマトのように弾け、ついには本当にただの肉塊になり果てた。


「おい、クライ! なに目を瞑っとるんじゃ! しっかりと見とれ!」


 重盾持ちの男——ドットから檄が飛ぶ。


「す、すまん……」


 俺を守るように立つドットの背中に詫びを入れると、俺は立ち上がって状況を確認する。

 前方にはヌードラットの群れ。その数およそ二十匹。対するこちらは、ドットとラッツの二人。もちろん俺は戦力外。


 そもそも、なぜ俺がこうして魔物と対峙しているのかと言うと、それは俺の独り立ちへ向けた修行のためだ。


 ラッツ曰く、青の大陸では都市間の街道は比較的よく整備されている、らしい。しかも、各都市の市長と冒険者組合の協定により、冒険者による定期的な巡回も行われている。しかし、それでも魔物の出没はゼロではないし、実際に事故もそれなりの頻度で起こっているようだ。

 魔法も使えなければ、戦闘経験も皆無の俺がのこのことそんな中に踏み出すことは、片道切符を手に地獄行き急行列車に乗り込むようなものだ。

 そういうわけで、俺はラッツ達の魔物討伐依頼に同行し、簡単な護身術を学んでいる——というよりも、まずは『魔物』という存在に慣れるということの方が俺にとっては重要なのかもしれない。


「ドットの真似をしちゃいけないよ、クライ。君がヌードラビットを正面から受け止めるなんていうのは、自殺行為に等しいからね」


 状況を静観していたラッツが俺の隣で剣を抜いた。


「ドット、一匹後ろに逸らしてくれないか?」


「あいよ」


 見かけによらず軽い身のこなしのドットが返事と同時に身を翻すと、その奥から、真っ赤な塊が勢いよく突進してくるのが見えた。


「よーく見ておくんだぞ」


 そう言ってラッツは右へ半歩だけ移動すると、そこで斜に構える。


「ヌードラビットは一度走り出すと、すぐには止まれないんだ。それに途中で方向転換することもできない。だから、こうして進行方向から少しずれるだけで、勝手に通り過ぎて行ってくれるよ。そして、出会い頭に武器を合わせれば——」


 ヌードラビットがまさに真横を通り過ぎようとしたそのとき、ラッツが横一文字に剣を一閃した。


 スパンッ!


 およそ肉を斬ったとは思えない小気味の良い音が響き、その直後、ヌードラビットの体躯が上下真っ二つに裂ける。


「え…………」


「ね、こんな風に簡単に討伐完了さ。さあ、クライもやってみようか?」


 唖然とする俺に、ラッツは笑顔でそう言うと、魔物を一刀のうちに両断したというのに血糊一つ付いてない剣を鞘に納めた。


「い、いやいや、さすがに俺にあんな常人離れしたことは……」


「ああ、悪い、悪い。斬る必要はないよ。ただ突っ込んでくるのを避けるだけでいい」


「そ、そういうことなら……」


 ギリギリ可能寄りの不可能だな……あんなにでっかい塊が自動車並みのスピードで突っ込んでくるなんて怖すぎる。いや、そもそも見た目が怖い。ただそこにいるだけで怖い。


「大丈夫。危ないときは僕がフォローするからさ。何事も練習だよ。というわけで、ドット、もう一匹頼むよ」


 狼狽える俺の同意を待たず、ラッツは軽い調子でドットに声をかける。しかし今度は、ドットはそれに応じなかった。


「ちょっと待て、ラッツ。森の様子が——」


 何かを言いかけるドットを遮るように、森の方から悲鳴が響いた。


「誰かッ! 助けてくれー!!」


 俺たちは同時に森の入り口を見やる。するとそこには、這う這うの体で森から這い出す木こり風の男と——


「チッ! 厄介じゃのう」


 土煙を上げ、木々を薙ぎ倒しながら、十トントラックほどはあろうかという巨大な赤い塊が飛び出してきた。俄かには信じがたいが、特徴的な長い耳と切歯が、その生きものが目の前にいる筋肉ウサギと同種のものであることを物語っている。

 悲鳴を上げていた男の声は巨大ウサギの出現とともに途絶えてしまった。無事でいることを願うしかないが、正直他人の心配をしている場合ではない。


「あわわわ……あわわわわわ……」


 あまりの恐怖にほぼ思考停止状態だ。こんなに怖い思いをしたのはこの世界に来て初めて——ではないな。来て早々、でっかい肉食獣に絡まれたじゃないか。それに比べれば草食動物である分、可愛く見える——わけあるかあ! 何なんだ、この世界は! もううんざりだよ!


「落ち着くんだ、クライ。確かに厄介ではあるが、対処できないわけじゃない」


 ラッツが俺の肩に手を置いて、静かに語りかける。そのおかげで俺はほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。

 パニックを回避するという戦略上重要な勝利条件の一つをクリアしたラッツは柔和な笑みを作ると、その笑みのまま剣を抜いた。


「僕は逃げてきた男性の無事を確認する。ドットはここにいるウサギたちの処理を頼むよ。それが終わったら僕の援護を。クライは速やかにここから退避、家に戻ってミットとロッサに応援に来るように言ってくれ。もし家にいなければレタコンを飛ばすんだ。いいね?」


 俺はカクカクと何度も首を縦に振り、ラッツはそれを見て満足そうに一度だけ頷くと、士気高く号令をかけた。


「展開!」


 それを合図に俺は弾かれるようにその場から駆け出した。

 あの化け物を見た瞬間、一刻も早くこの場から逃げ出したいと思った。それが叶って、とりあえず俺の命の危機は脱したのだからこの上ない僥倖だ。どうせ俺がいたところで役に立たないどころか、邪魔になるだけなんだし。だから、あの二人に任せておくのが正解だ。

 我が身可愛さに保身に走り、この場を離れることを正当化する。そうすることはきっと悪いことではないし、間違ってもいないだろう。邪魔者が戦場を離れることは戦略的にも正しいだろう。

 だが、俺の中にあるのは、自分の弱さを理由に逃げ出したという事実のみ。罪悪感と無力感だけだ。

 しかし、いや、だからこそ、俺は俺に与えられた役割を果たさなければならない。いくら彼らが腕利きの冒険者だとしても、あんな怪物を相手に無事でいられる保証などないのだから。

 魔法が使える者や冒険者からすれば牛歩のようにのろいと映るかもしれないが、それでも俺は俺の持てる全力でもって街を駆け、ノアの基地へと駆けこんだ。


「ミット! ロッサ!」


 ドアを開けるや否や、家の中に向かって叫ぶ。しかし、返事は帰ってこない。


「やっぱり留守か……」


 ロッサは別宅の方にいるのかもしれないが、ここから向かうにはロスが大きいし、一度場所を聞いたことはあるが、正直うろ覚えだ。

 それにミットに至っては、どこにいるのか見当もつかない。やはりここは、ラッツの言うとおりレタコンを飛ばした方がいいだろう。


「ツーちゃん! カーちゃん!」


 開け放たれたままのドアから再び外に出ると、俺は空に向かって叫んだ。

 すると、それに呼応して、ハヤブサのような小型猛禽類が二羽、上空をぐるりと一周旋回した後、庭の門扉へととまった。


『討伐依頼ニテ巨大種アリ。援軍請ウ』


 短文と大まかな場所を記した紙を丸め、二羽のレタコンそれぞれの脚に括り付けられている小筒へと入れる。


「ツーちゃんはミットに、カーちゃんはロッサに。頼むよ」


 俺がそう言うと、「承知した」とでも言うように一声鳴いて、二羽のレタコンはもう一度上空を旋回した後、それぞれの方向へと飛び立っていった。


 レタコン——この世界におけるいわゆる伝書鳩は、特定の個人のところへ飛んでくれる。どうやって個人を認識し、どうやって見つけ出しているのかは知らないが、電話もメールもSNSもないこの世界では貴重な連絡手段だ。

 あとは彼らがミットとロッサに伝言を届けてくれれば、とりあえず与えられた役割は果たせたことになる。


「さて」


 俺は任務の達成感もそこそこに、再び戦場へと足を向けた。

 行ったところで役には立たないが、一時的とはいえ俺も冒険者パーティ『アーク』の一員なのだから、せめて邪魔にならないところから戦況を見守ろう。

 それに、場合によってはまた伝令役が必要になることもあるかもしれないし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る