第9話 お礼をあなたへ

「あ、あの……クライさん」


「ん?」


 盲目の少女――アイリスが背中越しに話しかけてくる。


「わがままばかりで申し訳ないんですけど……少し手が疲れちゃって……クライさん、背が高いから」


 前に立つ俺の右肩に後ろからアイリスが左手を置く形でここまで歩いてきたわけだが、俺とアイリスの身長差がアイリスには負担だったのだろう。


「じゃあ、こうするか?」


 アイリスの手を取り、俺の腕に掴まらせる。


「……はい」


「どうした?」


 俯いてしまったアイリスの顔を覗き込むと、耳まで真っ赤に染まっていた。


「男の人と腕を組むのは初めてなので……」


「そ、そうか。で、でも、俺もこっちの方が歩きやすいから、悪いけど家まで少しだけ我慢してくれ。それに、アイリスだったら、男と腕を組む機会なんてこれからいくらでもあるだろうしさ」


「私は目が見えませんから……でも、ありがとうございます」


 ドギマギとしてしまった俺の苦し紛れのフォローに、アイリスは少しだけ寂し気な顔で笑みを返す。


「そ、それで、この先、どう進んだらいいんだ。もうすぐ右手に青い看板が見える交差点だ」


 こんなとき、どう答えたらいいのかわかんないんだよな……自分の人間力の低さにほとほと嫌気がさすぜ……

 ちょっとだけ自己嫌悪に陥りながら、それを誤魔化すために話題を変えた。


「その交差点を左にお願いします。それからずっと直進すると、一ブロックほど先に『猫の手』っていう食堂があります。そこが私の家です」


「了解! ってか、すごいな。広場から家までの道順とか景色を完璧に覚えてるんだな」


「ふふ。ちょっとだけ自慢なんです。目が見えなくなって、耳も鼻も、記憶力も、前よりずっと良くなりました」


「お、ようやく笑ったな」


「え……私、そんなにずっとしかめっ面してましたか?」


「しかめっ面ってわけじゃないけど、ずっと俯き加減だったからちょっと心配してたんだ。そりゃまあ、あんなことがあったばっかりだからしょうがないけど」


「す、すいません……」


「いやいや、ごめん、責めてるわけじゃないんだ。ただ、アイリスは笑った顔の方がずっといいから、笑ってほしいなって思っただけだよ。俺の生まれた国にはこんな言葉もあるんだぜ。笑う門には福来る——いい言葉だろ?」


 この世界で盲目でいることがどれほどの苦労を伴うことなのかは容易に想像がつく。そして、アイリスが味わっている苦痛は、そんな想像のはるか上を行くのだろう。

 それでも凛として立つアイリスの姿を見ていると、彼女にこそは幸運が訪れてほしいと願わずにはいられないのだった。


「お、ここじゃないか? 『猫の手』って書いてある」


「はい、ここです!」


「ここまでで大丈夫か? それとも中まで送るか?」


「ここからは一人でも大丈夫です。でも、せっかくなので中に入って少し待っていてください」


 アイリスは店のドアを開けると、目が見えないというのが嘘かのような足取りで店の中へと入っていった。

 薄暗い店内に一人取り残された俺。奥にある厨房からは何とも言えぬ美味そうな香りが漂ってきて、まだ客のいない店内に俺の腹の音が響く。


「そういや、昼飯食いそびれちゃってたな……」


 一度自覚した空腹は容赦なく俺を襲い、俺はそれに抗うために目を瞑って精神を統一する。そして、あふれ出るよだれをごくごくと飲み干しつつ、アイリスを待っていると——


「クライさん、お待たせしました」


 食堂の奥から姿を現したのは、アイリスと少しふっくらとした人の良さそうなおばちゃんだった。


「アイリスの母のメルラです。この度は娘が危ないところを助けてくださったそうで、本当にありがとうございます。それにわざわざ家まで送っていただいたなんて」


 アイリスの母と名乗ったその人は、アイリスの隣で深々と頭を下げた。


「いやいや、頭を上げてください。そんな大したことをしたわけじゃありませんから」


「あら、私の娘を救うことを大したことないとおっしゃるの?」


「い、いや、そういうわけじゃ……」


「ふふふ、だったらぜひ御礼をさせてくださいな。と言っても、見てのとおりここは食堂ですので、良かったら夕食を御馳走させてください」


「いや、でも……」


 御礼を目的にここまでアイリスを送ってきたわけではない。

 そう思って固辞しようとするも……


 ぐうぅうう。


 腹の虫が盛大に自己主張をし、アイリスとメルラが同時に噴き出す。


「ふふふ、クライさん。是非食べて行ってください。お父さんのミートパイは絶品だって、近所では評判なんですよ」


 俺の腹の音を頼りに駆け寄ってきたアイリスが、カウンター席へと俺の手を引く。


「で、では、お言葉に甘えます」


「よかった。でも、ごめんなさいね、まだ仕込み中だからもう少し待っててもらえるかしら。仕込みが終わったら主人も御礼に伺いますから。じゃあ、ゆっくりしててくださいね」


 そう言うと、メルラは笑いながら厨房の方へと引っ込んで行った。


「なんか悪かったな。俺の腹が御礼を要求してしまって」


「いいえ。私もちゃんと御礼ができて安心しています。と言っても、お店の食事を出すだけなんですけどね」


「いや、この上なくありがたいよ」


 家があって、毎日飯を食うのが当たり前。そんな現代日本からいきなりこの世界に放り出された俺には、一宿一飯のありがたさが身に染みていた。

 それに空腹とは関係なく食欲をそそるこの香り。一度固辞しておいて何だが、正直期待しかない。


「何か飲みますか?」


「じゃあ、水をもらえるかな?」


「エールもありますよ」


「いや、さすがにそこまでは……」


「じゃあ、少し待っててくださいね」


 そうは言いつつも一瞬目を輝かせた俺をアイリスは見逃さなかった。

 いや、ほんの少しの声の上ずりから俺の気持ちを察した、という方が正確か。いずれにもしても恐ろしい娘だ。


「はい、お待たせしました」


 しばらくすると、エールの入ったジョッキと何らかの肉の煮込みがカウンターテーブルに置かれた。持ってきたのはもちろんアイリスだ。


「ありがとう……ってか、本当に見えてないんだよな?」


「ふふふ。お客さんはみんな、私が盲目だって知ると、そうやって驚いてくれるんですよ。でも、私はこの店の中なら目が見えようが見えまいが関係ないんです。どこに何があるか全部覚えちゃってるんで。お父さんとお母さんがそうできるようにしてくれましたから」


 俺は店内を見渡すと、その至る所に親の愛情が散りばめられていることに気づき、胸が熱くなった。

 店内の床は段差がなくフラットにしてある一方で、客席と厨房の境目には躓かない程度の凹凸が施してある。テーブルやイスは位置がずれないように固定されているし、そのテーブルをはじめとして様々なところに記号のようなものが刻まれている。

 その全ては娘のためだけに生み出されたユニバーサルデザインだった。


「いいお父さんとお母さんだな」


 俺がそう呟いて、アイリスがそれに笑顔で頷いたところに、この日最初の客が入ってきた。


「もうやってるかい?」


「まだ仕込み中ですけど、もう少しだから、中で待っててください」


「おお、今日はアイリスがフロア担当かい? こりゃあ、エールが美味くなるな」


「悪かったね。おばちゃんが運んだエールは美味くなくて」


「おう、メルラ。ミートパイ四つ頼むわ。あとエールも四つな。二番席についてるからよ」


 最初の客が入って来たのを合図に、店内は一気に盛況を呈し始める。

 次から次へと料理が作られ、それをアイリスが流れるように客の下へと運んでいく。

 仮に目が見えていたとしても十分な働きだというのに、これで目が見えていないのだから驚きだ。

 もちろん、そのためには客の協力も不可欠なわけだが、どの客も普通の店ならしなくていいような手間もすすんで受入れている。自分のテーブルの番号をわざわざ口にして伝えるなんていうのもそうだ。


「笑った顔がいい、なんて言ったけど、余計なお世話だったな」


 この店自慢のミートパイを堪能した後、俺はアイリスが働く姿を眺めながら、そう独り言ちた。

 そんな俺の前に、琥珀色をした香りの良い酒——おそらくはブランデーのようなものが置かれた。


「いい娘だろ?」


「はい。あの、あなたは?」


「ワーキン、アイリスの父だ。今日はアイリスが世話になった。ありがとよ。それは礼だ、飲んでくれ」


 カウンターの向こうには、青い無精髭を生やした痩せぎすの男が立っていた。その手には俺に出されたものと同じ酒。


「ありがとうございます」


 俺は出されたグラスを掲げると、琥珀色のトロリとした液体を口に含む。

 美味い。これは良い酒だ。


「クライと言ったか? 娘の恩人にこう言うのもアレだが、黒髪は珍しいな。アンタも苦労が多いだろう?」


「ええ」


 俺は苦笑いを返す。

 実のところ、まだ黒髪故の苦労というのは味わったことはない。

 当たり前だが、もともと魔法を使わずに生きてきたのだから、魔法が使えないことは苦労でもなんでもない。俺の苦労は、もっぱら、魔法がない世界から魔法のある異世界へといきなり放り出されたことによるものだ。


「親御さんもご苦労が多いでしょう?」


「苦労してるのはアイリスだけだ。この世の中、目が見えないモンが笑って生きていけるほど生温くないからな。それでもアイツはアイツの努力で、今こうして健気に笑ってんだ。本当に俺の娘かって疑いたくなるほど、出来た娘だよ」


 ワーキンは客と談笑するアイリスに温かな眼差しを向けながら、ちびちびと酒を舐める。


「だがよ、ああして客たちもアイリスによくはしてくれてるがな、だからと言って『自分の息子の嫁に』とは絶対言わん。何故だかはわかるだろ?」


 俺は黙って頷いた。


「今日帰ってきてからよ、アンタのことを話してるとき、アイリスは嬉しそうにしてたんだよ、危ない目に遭ったっていうのにな。だからって、アンタにアイリスを嫁にもらってくれって言ってるんじゃねえぞ。何なら俺は誰にも嫁にやりたくはねえんだ。でもよ、あんなに嬉しそうな娘はずいぶんと久しぶりだからな、アンタさえよければ、ときどきここに飯を食いに来てくれねえか?」


 ワーキンはそう言って、強い酒を一気に呷った。俺もそれに倣って香り立つ酒を飲み干すと、静かにグラスを置いた。


「神は俺に加護は与えてくれませんでしたけど、今日の善行の褒美として、とてもいい店へと導いてくれたみたいです。ミートパイ絶品でした。また来ますね」


「ああ、また来てくれ」


 俺が席を立つと、アイリスが見送りに来てくれた。


「お父さんと何話してたんですか?」


「営業を受けてただけだよ。今度は客として飯を食いに来いってさ」


「もう、お父さんったら! でも、私もクライさんがまた来てくれたら嬉しいです」


「ああ、また来るよ。ミートパイ絶品だったしな」


「はい! お待ちしています。今日は本当にありがとうございました」


 アイリスに見送られて店を出ると、もうすっかりと日が暮れていた。

 月も星もない真っ黒の空を潮の香りを纏った風がゆるりと吹き抜けている。

 その夜、俺はこの世界に来て初めて、ここの空も悪くない——そう思ったのだった。

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