36:たゆたう水面に映るのは
「なあ弘貴、この道ってこんなに暑かったか?」
ジリジリジリ。大合唱を奏でるアブラゼミに声量こそ敵わないが、そんな中でも決して掻き消されることなく澄み渡る少女の声。そよ風に揺れる黒髪が、セーラー服の襟をくすぐった。
「そりゃまあ、いつもならパアーっと駆け抜ける道だからなあ。それもこれも、侑莉がワガママ言うから」
「だってだって、一人は寂しかったんだもん」
「はいはい、わかったって」
カラカラと音を立てる自転車が二人分。侑莉の足元では、ひしゃげたタイヤがバルブを踏みしめる度にガタンと跳ねる。元より路面が荒れたあぜ道。空気圧を失ったタイヤは、成す術なく暴れることしか出来ない。
一生のお願いだから一緒に帰ってよ! と侑莉が弘貴の腕にすがったのは、三十分ほど前のことだった。
「弘貴、いいこと思いついた」
「イヤだよ」
「ちょっとお、まだ何も言ってないでしょ」
「どーせろくでもないことだろ。何年その顔を見てきたと思ってんだ」
白い歯を見せて笑っていた侑莉は、弘貴のつれない態度を前に唇を尖らせた。そんな侑莉の百面相を横目で見た弘貴は、まるで興味が無いと言わんばかりに空を仰いだ。
「雲って、あんなに動くんだっけ?」
「なあ弘貴、あたしの話を聞く気ある?」
「ねえな。そんなことより見ろよあれ」
「雲がどうしたっていうのよ」
「わっかんねえ奴だなあ」
蒼い空へまばらに浮かぶわた雲が、南風に吹かれて形を変えていく。緩やかに、穏やかに。意識して観察しないと気付かない程度にゆっくりと。
軽口を叩きながら歩く二人。少しずつ景色は移ろい、開けた田んぼ道から木々が茂る森へと進んでいった。
「ふう、ここまで来ると暑さがマシになるな」
「ねー。日差しがあるかどうかって大事なんだね」
木漏れ日がまばらに差し込むのみで、乾きを知らなそうな道。この森を抜けると、二人が暮らす集落まであと少し。
しかし、家が近付くにつれて名残惜しくなるもので。なんやかんや言って、弘貴にとって侑莉とゆっくりと話すこのひと時はイヤなものでは無かったのだ。だから――
「なあ弘貴っ、見てみいアレ……!」
「ったく、しょうがねえな」
憎まれ口を叩きながらも、心なしか弘貴の声は弾んでいた。
いつもの道を外れて、数メートルほど森へ入っていく二人。侑莉が指を差した先に広がっていたのは、ちょうど木々が途切れて陽光で煌めく池だった。
「へえ、こんなところに池なんてあったんだ」
「あたしも知らんかった……綺麗だねえ」
池の畔でしゃがみ込んだ二人は、鏡のように透き通った水面をジッと見つめた。時折吹き抜けるそよ風が波紋を作るのみで、穏やかな水面。ほとんど変化の無い水面を、息を潜めてただ見ているだけ。それだけなのに、弘貴はとても心地良いと感じていた。緩やかに流れる時を、昔馴染みの侑莉と過ごす。そんな何気ないひと時の大切さを、弘貴はこの時初めて知った。
綺麗だったのだ。煌めく水面が、二人の間を流れる空気が。
ジリジリジリ。森に入ってもアブラゼミの大合唱は治まる気配が無かったが、二人の耳には入っていないようだった。
純度百パーセントの透き通った水面。そう、思っていた。しかし、弘貴は気付いてしまった。映り込んだ瞳の熱さに。真っ直ぐに自分を射抜く視線に。
見たことの無い侑莉の表情。中学生になっても小さな子供のようにはしゃぐ無邪気な姿しか知らなかったのに。
トクン。
弘貴の心臓が小さく跳ねた。弘貴の中で、初めての感情が芽生える音がした。その感情の名前を、弘貴はまだ知らない。
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