11:風渡る庭にて

 シンシアが手鏡を置いて振り返ると、コニーは苦笑いで応じた。

「お嬢様、先ほどから申し上げておりますけれど、おかしなところなんてひとつもございませんよ」

「でも、気になるものは仕方ないでしょう」

 ため息をついて、シンシアは窓に目を向けた。

 庭に面した私室には午後の日差しが斜めに注ぎ、穏やかに明るい。風が開け放った窓から入りこんでいる。北部の夏の、澄んだ緑の匂いがしていた。

 波打つ亜麻色の髪は丹念にいてある。とっておきのドレスにはしわひとつない。シンシアはばら色の頬を小さく膨らませる。

「だって、ルイスが帰ってくるのよ。わたくし、どんな顔で待っていたらいいのかわからない」

 ルイスは、当家の跡取り娘であるシンシアの許嫁いいなずけだった。幼いころから将来をともにする相手として、家族の次に近しい存在として過ごしてきた。ふたりは十六歳。素朴な好意が大人どうしの愛情に変わっていこうとするころだった。

 彼は去年の秋から郷里を離れ、王都で寮生活をおくっている。王立学術院の高等科に入学を許されたのだ。学問に明け暮れて新年のお祝いにも帰らなかった彼とは、およそ一年ぶりの再会となる。かつてなく長い別離のあとだ。緊張しないわけがなかった。

「お庭にいてもいいかしら」

「もうじきいらっしゃるはずですよ」

「ほんの少しで戻るから。風にあたりたいの」

 コニーはしぶしぶうなずいた。


 この屋敷の庭には、壮麗なつるばらのアーチも整然とした生け垣の迷路もない。敷地の果てまで、周囲の自然を引きこんだようなおもむきの、一見地味だけれど豊かな植物の世界がひろがっている。シンシアの祖父がつくらせたものだ。なかには薬になる草木もあって、祖父が生きていたころはシンシアもルイスもたくさんの植物の名と、それらにまつわる物語を聞かせてもらった。

 シンシアは木々のあいだの小道を抜けて草原のほとりに至る。少しという割には歩きすぎだった。屋敷はもう見えない。

 風が渡る。亜麻色の髪を乱す。ドレスがふわりとふくらむ。シンシアは顔をあげて空気の匂いをかいだ。慣れ親しんだ、花と草葉と土の香りが交じりあって鼻をくすぐる。

 ふと気配を感じてシンシアが身をこわばらせた。草むらを踏みわけて黒髪の男が近づいてくる。シンシアの、遠い山脈とおなじブルーの目が見開かれる。

「ルイス!」

 叫ぶと、彼は手をふって駆けてきた。そばに立てば背がずいぶん伸びたことがわかる。シンシアは彼を仰ぐ。夜の色の瞳がいたずらっぽく輝いた。笑顔に残された幼さが懐かしい印象をもたらす。

「どうして庭にいるのよ」

「すぐそこで、馬車の不具合で足止めされて。昔、塀に穴があるのを見つけたことがあっただろう? あれを急に思い出した」

「呆れた」

 泣きそうな笑顔で、だけどいくらかほっとした様子で、シンシアは言った。

「変わらないのね。わたくしの知らない遠い世界に行ってしまって、うまく話せなくなっていたらどうしようって思っていたのに」

 ルイスは微笑みを返す。そうすると急に大人びた雰囲気になった。

「いつも心を離れなかったよ、この庭も、あなたも。そもそも植物学をこころざしたのだって、この庭のためでもあったのだし」

 旅の汚れを気にしてか、彼はシンシアにれない。彼女は手を伸ばして彼の頬をそっと撫でた。存在を確かめるふうに。

「わたくしだって。この瞬間が夢なんじゃないかと思うほど、いつもあなたに会いたかった」

 彼は彼女の手を静かにとり、軽い口づけを落とす。

「だったら、夢だと思っていて。庭で会ったことに気づかれないように」

 緑の香りの風が吹いて、彼は彼女を離れた。草木がざわめく。金の陽射しがすべてをきらめかせる。祝福のごとく、夏の庭がふたりをとりまいていた。

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