09:胸が、きゅん。
ピーポー、ピーポー!
「どいて、どいて! 皆さん道を開けてください」
両開きドアが勢いよく開かれると、ストレッチャーを押しながら数名の救急隊員がドカドカと飛び込んでくる。
彼らは受け付けで青ざめている事務員に急患のいる部屋番号を聞き出すと、そこからは一転して素早く静かに部屋に向かう。
レクリエーション部屋や食堂で時間を持て余していた住人達は、救急隊員が入っていった部屋を遠巻きに見つめ、大きな声で話を始める。
「123号室のゴンダさんでしょ? 心臓の持病持ちなのに、朝早くから乾布まさつまでしちゃって必死に浅田さんにアピールしてた」
「ああ、そうだな。虎之介なんて名前が付いてるからオレは頑丈なんだ、ってアピールしてたけど。所詮は80過ぎのジジイだからなぁ」
「最近この老人ホームに入所してきたお婆さんに夢中だったみたいですものね」
「梅ちゃんでしょ? 結構なお年らしいけど肌のハリがあるのよ。ワタシも見習いたいわ」
救急隊員は、老人を乗せたストレッチャーを老人ホームの玄関に横付けした救急車に載せると、あっという間に出て行った。
ピーポー、ピーポー、……
「大丈夫かねぇ? ゴンちゃんの顔真っ青だったぞ」
「ヘルパーさんが駆けつけた時には、胸を掻きむしって大騒ぎだったらしいけど、もう落ち着いたのか?」
「どちらにしても、歳が歳だからなぁ。一度入院しちまったら、もう戻っては来れないだろう」
「──次に会うのは、白木の箱かねぇ」
老人達は、明日は我が身と思いつつ、運ばれて行った彼に関して好き勝手言ってそれぞれの部屋に戻る。
静かになったレクリエーション用の大広間には、老人と老女が一組だけ残っていた。
「コレでもうあの助平ジジイからセクハラを受けないですむなあ、梅ちゃんよ」
「ありがとうございます。コレも信三郎さまのご助言のお陰でございます」
薄く紅をさした唇が艶やかに動く。
シワだらけの小さな手は、杖をグッと握っている日焼けして肌黒いゴツゴツした手を優しく包もうとする。
「たとえ何歳になろうとも、所詮は人間だからな。男と女が一つ屋根の下で暮らすのには危険が伴うんだ」
男は近づいてきた女の手を不器用に振り払うと、若い頃の事故で悪くした足を引きずるように自分の部屋に向かう。
そんな彼をじっと見つめる彼女の眼には光るものが。
* * *
苦労して探した、若い頃の想いびとである新之助さま。
やっとこの年で想いが叶うと思って入所した老人ホーム。
そんな幸せを壊す、助平ジジイ、──権田、虎之助──。
ワタシがチョット色目を使ったら鼻の下を伸ばして。
たとえ心臓に負担がかかる運動でも、ワタシが耳元で囁けば真っ赤な顔で無理して続ける。
そんな無理がたたって、苦しいのに。
最後のひと押し、おでこにキスマークをつけてやったの。
「うっ」と唸ったかと思ったら、胸を押さえてベッドに倒れた。
それこそ自業自得の、ときめき胸キュンよね。
コレで誰に邪魔されることなく、新之助さまを追いかけられるわ。
ボケて昔の記憶を忘れているのなら、彼と新しい恋を始めれば良いの。
どうせ、もう。
残り限られた人生ですもの。
好きな人と一緒にいたいわ。
きっと神さまも許してくれますよね。
(了)
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