13話

 男は薊彌あざみと名乗った。

 渡された名刺には、その二文字だけが書かれている。メールアドレスも電話番号も載っていない。名前の上にはワイン・レッドで日本風の紋様が箔押しされていたが、それが何を表しているのかは不明だった。

「屋号のようなものとお思いになってください」と薊彌は話した。彼の声は、かなり低いが、コントラバスのように優美な響きがあって聞き取りやすい。

「お客様に対してこのようなお願いをするのは大変心苦しいのですが、商売柄、おいそれと本名を明かす事が出来ないのです」

「わかりました」利玖は頷き、名刺を持ったまま薊彌を見つめる。「ようこそおいでくださいました。佐倉川利玖と申します。こちらにいらっしゃる間は、ファミリィネームでも不便でしょうから、お気兼ねなくファーストネームでお呼びください」

「ありがとうございます。それでは、利玖様と」薊彌は黒い革の手袋を右側だけ外して利玖の方へ差し出す。「今後ともどうぞ、ご贔屓に」

 利玖は少し緊張しながらその手を握った。

 薊彌は、兄よりも背が高い。体つき自体が平均的な日本人男性よりも二回りほど大きいのだ。利玖に合わせて身を屈めてくれているが、その体躯も、背中へ流している長い黒髪も、臙脂色のレザーコートも、どこか浮き世離れした雰囲気で、見つめられると息を止めそうになってしまう。

「実の事が気になっておいででしょう?」薊彌は利玖の手を取ったままネットの方へ導いた。「どうぞお近くへ……。精気の事は心配要りません。これはもう、実を結び、死に向かうばかりです」

「何という名前なのですか?」それが今、利玖が一番知りたい事だった。

「ご満足頂ける回答ではないでしょうが、我々は『十二番』と呼んでおります」

 利玖は思わず振り返って史岐を見る。

 その視線を薊彌が追い、「ああ……」と言って目を細めた。

「そういえば、そちらのご学友は『五十六番』でしたか」

「僕の事も、名前で呼んでくださって構いませんよ」史岐が近づいてくる。「貴方とは初対面ですが、それくらいはご存知なのでしょう?」

「ええ、ええ……」薊彌は笑顔のまま頷く。「私がお取引させて頂く機会は滅多にございませんが、熊野家の御曹司である史岐様の御功績については常々聞き及んでおりますよ」

「そうですか。では、以後お見知りおきを」史岐は無表情で薊彌と利玖の間に割り込んだ。「僕にも見せて頂けますか?」

「勿論です」薊彌が横を向き「芦月あしづき」と呼びかける。「お二人に手袋のご用意を」

 薊彌の背後で、何かの鍵が外れるようなカチャリという音がした。

 それに続いて、小柄な人影が現れ、利玖達に近づいてくる。

「あなたが、芦月さん?」手袋を受け取りながら、利玖は相手の顔を見つめた。「あの、先ほどは、薬湯を飲ませて頂きありがとうございました。おかげでこちらへ戻ってくる事が出来ました」

 芦月は、にこっと微笑む。透きとおった淡い色の瞳がトルマリンのように美しい。左目には金縁のモノクルを装着しており、明るい藁色の前髪がレンズにかかっていた。

 利玖よりも、さらに背が低く、外見だけではかなり幼い印象を受けるが、洗練された所作とクラシカルなパンツ・スーツの着こなしは明らかに子どもではない。声を聞けば性別くらいはわかるかと思ったが、芦月は結局ひと言も喋らないまま、利玖と史岐に手袋を渡すと、薊彌の影に吸い込まれるように後ろへ下がってしまった。

(柑乃さんみたい……)

 何の気なしにそう思ったが、手袋をはめて実に手を伸ばした時、自分は直感的に、芦月が人間ではない、と感じたのかもしれない、と気づいた。

 実はプラムほどの大きさで、濃い色の皮に包まれたつややかな見た目もよく似ている。だが、両手で持ってみると、拍子抜けするほど手応えがなかった。

「軽いですね」利玖は驚いてそう口にする。「パプリカみたい……。中は空っぽなんでしょうか?」

「ええ。これにはほとんど果肉がありません。代わりに皮が多少厚くなっておりますが」薊彌が、利玖の前にある実を手で示す。「ナイフ一本あれば、簡単に切って中を見る事が出来ます。お試しになられますか?」

 利玖は、史岐の顔を見る。彼はわずかな顎の動きで、同意を彼女に伝えた。

「お願いします」利玖は薊彌を見上げ、しっかりとした声で答える。「道具と作業場所は、離れの中に用意してあります。そちらを使いましょう」

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