第33話

 タクシーで高宮のアパートに行き、シャワーを浴びて全身を洗い、歯を磨いた。茉莉の体を思い出し、年甲斐もなく没頭してしまったと恥ずかしくなった。

 浴室を出ると携帯電話が鳴っていた。ディスプレイには巽の名が表示されている。出ようとしたところで切れた。十数件目の着信だった。リダイヤルでかけ直すと二回目が鳴る前に繋がった。

「今どこ?」

「高宮。どうした」

「本家が親父の弔い早よせえって。俺らのゴタゴタに早よ決着ば着けさせたいとやろ」

「そうやろうな。で、いつや?」

「秦が明後日に斎場押えたって言いよったけん、明後日やね」

「本家に言われたらさすがに松原も来るしかなかろうな」

「そうやね。本家は葬儀の後に日を改めて俺らに話し合いさせるって言いよったごたァ」

「話し合いねェ……」

 煙草を探り当て、加えて火をつける。吐き出した紫煙が薄暗い室内に揺れる。

「諒平くん。俺ァ話し合いでよかとよ。死に急ぐことなかろ? 死んだら悲しむ人くらいおるっちゃないと?」

 不意に背中に茉莉の感触が蘇る。

「おるわけなかろーが」

「……俺は悲しいよ。わかっとろ?」

 巽の声が子供の時の面影を滲ませる。元々強い男ではなかった。優しくて人の痛みで傷つくような繊細な少年だった。次々と敵を闇に屠ってきた冷徹な男が、自分の前になると、弱弱しい少年に戻ってしまう。

「お前に俺は必要ない。俺がおるけんお前は殻を破られんったい」

「……破らないかんと?」

「……いかんやろ」

「なんでよ」

「わかっとろうもん。ガキやないっちゃけん、いちいち聞くな」

「なんでそんなに死にたいん」

「クソみたいな人生にしがみつくのはもう飽いた」

「じゃあ、俺も一緒に死ぬ。俺も生きるの疲れた」

「よかよ。一緒に死のうや」

 受話器の向こうで空気が揺れ、巽が何かを言いかける前に上瀧は続けた。

「とでも言うと思ったか馬鹿野郎。てめぇの人生俺にぶん投げてくんなや。いつまで泣き虫の巽ちゃんでおるとや。大概にせえよ。じゃあまた後でな」

 と一方的に通話を切った。そしてリダイヤルで松原にかけた。たっぷりのコールの後、留守番電話に繋がる。

「上瀧です。今回の件でお困りじゃないかと思って、差し出がましいとは存じておりますが、連絡差し上げました。生前オヤジが組に戻れたのはオジキのおかげと思っとります。やけん、小さいことでも力になりますので。それだけです。では」

 柄にもないことを口にしようとすると難しいもんだと思った。服を着替えて部屋を出る。事務所に戻り、時が来るのを待った。

 二時間後に松原の舎弟から連絡があった。思いのほか早かったと思いながら巽に待ち合わせの時間と場所をメールで送った。

 現金を詰めたアタッシュケースと拳銃を用意し、指定された割烹料理屋へ向かった。そこは松原の愛人の一人に持たせた店で、早良区にある。市営団地の近くで最近新しく出来たバイパスのおかげで立ち退きの際に小金を稼いだようで羽振りがいいらしかった。真新しい二階建てで、二階の奥の個室へ案内された。

 広い個室では松原が三人の舎弟と上瀧を待ち構えていた。

「なんや上瀧、一人か」

「ええ。なにか不都合でも?」

「いや……」

 松原と舎弟が困惑気味に目配せ合う。

「オジキは今、不本意でしょうが、巽の命を狙ったことになっとります。これで女とお好きな所へどうぞ」

 と、一枚板の豪奢な食卓にアタッシュケースを置いた。

「なんでワシが……」

「心当たりはおありでしょうもん。どうするんですか。このまま巽の手先に消されるのを待っとくんですか」

「藤崎の手先は貴様やろ、上瀧」

 松原の舎弟が一斉に上瀧に銃口を向ける。

「先に中を確認した方がよかですよ」

 上瀧が口元だけで笑ってみせると、松原が顎をしゃくって、舎弟たちは銃口を下に向けた。その時、階下から爆発したような大きな音がして悲鳴が上がった。慌ただしい物音がして男が飛び込んでくる。

「大変です! トラックが突っ込んできました! 裏口がありますので皆さん早く避難してください!」

 男の声に急かされ、松原と舎弟たちは部屋から飛び出し、非常階段へ走る。その後ろ姿をめがけ、やってきた別の男がサブマシンガンをぶっぱなす。

 松原の背後の男たちが崩れ落ち、恐怖に戦いた松原がこちらを振り向いた。

「オジキ、お世話になりました。オヤジによろしくお伝えください」

 上瀧はそう言い、懐から拳銃を取り出し、引き金をひいた。二度の暴発音と共に松原の頭が弾けた。

 上瀧は店内の階段をおりて、最初にトラックのことを告げた男に現金の入った方のアタッシュケースを渡した。中型のトラックが入口を押し広げ、粉々になったガラスやぐにゃぐにゃになった金属の部品が散らばっているのを横目に外へ出た。外には、客や野次馬で騒然としていた。上瀧が辺りを見回すと、見覚えのあるワンボックスカーがゆっくりと近づいてきた。上瀧の近くで止まり、中から大柄の男が出てきた。

「秦」

 上瀧がいうと、秦は微かに会釈した。

「どうぞ」

 二列目のシートに腰を下ろすと、秦も隣のシートに乗り込んできた。

「ご苦労さまでした」

「おう。わざわざ来てもろうて悪かったな」

「いいえ。若のご命令ですから」

「若のね」

 懐から煙草を取り、くわえて火をつける。

「これからお前も大変やね。巽を盛り立てていかな」

 パワーウィンドウを下ろし、外に向かって煙を吐く。車はどうやら港の方へ向かっている。

「どこ行くとや」

 その時、背後から袋状のものを被せられ、喉元を絞められた。

「アンタがおったら、巽さんがダメになる」

 驚いたが、抵抗はしなかった。殺される相手が違うだけで、死ぬのは予定どおりだった。

 目を閉じたその瞬間、瞼に泣きじゃくる幼い頃の巽が浮かび、茉莉の笑顔が浮かんだ。

「なんであの人はアンタみたいなのがよかとやろうか」

 秦の疑問に上瀧は答えない。その答えは巽しか知らないのだ。

「俺の方が……」

「男の嫉妬は見苦しかなァ、秦」

「アンタ、本当に癪に障る男やな」

「よう言われる」

 クッと笑いをこぼす。持っていた煙草を気配を頼りに背後からの手に押し当て、懐に手を忍ばせ、拳銃を探り当て、スーツ越しに二度秦を撃ち、背後に向けて撃った。耳のすぐ側で発砲したので、左耳の鼓膜がだめになったのが分かったが、構わない。首の圧迫が解けて、すぐさま土砂袋を脱ぐと、運転席の男が目を剥き、ガタガタ震えながらこちらを振り向いていた。上瀧は銃口を向ける。

「コイツらみたいになりとうなかったら、そのまま車から降りろ」

 額に汗をびっしょり浮かべた男は頷くと、慌ただしくシートベルトを外し、転がり落ちていくように車を降りていった。

「さぁてと」

 上瀧は独りごち、運転席に移ると、携帯電話を発信し、右耳に当てた。

「巽? 秦が殺しに来たけど、まさかお前の差し金やなかろうな?」

「秦が? なんで?」

「お前の差し金やなくてもお前のせいたい」

「それで? 秦はどうしたん?」

「ハジいた」

「ああそう。諒平くん、怪我は?」

「ない」

「そっか。ならよかった。俺今薬院のマンションにおるっちゃん。来る?」

「秦がいつも乗って来よった車で秦と若いの一人殺ったけどいいとや?」

「うん。後始末はすぐに手配するけん、そのまま来て」

「おう。なあ、巽」

「うん?」

「死にぞこなってしもうた」

「じゃあ、この前話したみたいにタイにでも行こう。準備しとくけん」

「……わかった」

 通話を切り、携帯電話を助手席に放り投げた。拳銃をこめかみに当て、引き金を引いた。

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