第23話
よっぽどバラされたくなかったのだろう。市川は顔を真っ赤にしてぶるぶる震えながら、上瀧に殴りかかってきた。上瀧は頭突きを返し、右手で胸ぐらを掴んだまま、左手で連続して殴り続けた。市川に宇田川の姿が重なる。宇田川は十一歳の頃の自分がやらなくては意味が無い気がした。大人になって力をつけた自分がやれば確実に勝てる。そして相手も年老いて力も衰えている。強弱が逆転している。そこで勝っても勝ちにならない。無意識まで追いやっていたはずの苦い思いが、再び燻り出すのを感じた。自分には敗北しかない。
「何してるんですか!!」
部屋に飛び込んできた看護師の声で手が止まった。どうやら止めに来たわけではなく、別府のバイタルが不安定になり様子を見に来たようだ。処置をしながら、震える声で出ていってくださいと云った。
ここを離れるわけにもいかず廊下に出て、どうしたものかとうろついていると、警察がやってきた。まあ、そりゃそうだな、とうんざりと思った。
駆けつけたパトカーに乗せられ、警察署に連行され、事情聴取のために小さな部屋に通され、同じような質問を繰り返されて、同じような返答をしている間に、二時間ほど過ぎていた。あまり年の変わらないあるいは少し年下の刑事に面倒くさそうに帰っていいよと言われ、部屋を出た。時計を見ると夕方の五時を少し回ったくらいだった。まだ面会時間には間に合うだろう。巽は無事なのだろうか。連絡を確認したいところだったが、腕時計から通路の方へ視線をやると、見慣れた初老の男と、見知らぬ若い男がこちらに向かってきていた。
「お勤めご苦労さんやったなぁ、上瀧」
「お勤め先違うっちゃなかですか、伊川さん」
「遠路はるばる貴様の顔見にきたったい」
「そら物好きなこって。そちらのお連れさんは」
「ちょっと手伝ってもろうとる。お前に紹介しときたい新人たい」
「どうも。鷹岡です」
「ああ。どうも」
視線で会釈を返す。鷹岡は物怖じしていないというより、感情を見せない目つきをしている。
「それで藤崎が毒盛られたっちゃ本当か?」
「そら俺が知りたいですよ」
「お前これからどうするとか」
「病院に戻ります」
「藤崎なら死んどらんぞ」
伊川の言葉が、自分でも驚くほど効いた。漠然とした焦燥と抑え込んでいた不安が少し和らいだ。内側で張り詰めていた糸がふと緩んで力が抜けた。
「よかったな」
伊川の声に含みはなかった。
「はい」
上瀧も素直に頷く。
「別府の者たちは殺気立っとる。まあ当然やが、騒ぎを起こされちゃ困るったい」
「そりゃそうでしょうね」
どちらにも配慮して、どっちつかずの返答に伊川が苦笑する。
「病院に連れてっちゃるけん、乗って行かんね」
タクシーの方がよっぽど速いのだが、拒否権はない。
「そりゃ有難い」
ありがた迷惑とは口が裂けてもいえない。二度連行されている気分だ。気が滅入る。鷹岡が運転する国産セダン車の覆面パトカーの後部座席に伊川と並んで乗り、溜息を飲み込んだ。
「お前ら河豚食うたんか?」
「いや、食っとらんですね」
「テトロドトキシンによる中毒症状だとよ。市川の車からアメリカ製の拳銃と一緒に見つかったぞ」
「市川の?」
「お前がそげん食いつくの珍しかな」
「いや、そりゃそうでしょ。市川の兄貴が巽に毒盛ったって事ですか」
伊川がわざわざアメリカ製と言ったのは何かあるのか考えたが、特に意味はなさそうだ。
「おい、上瀧よ。お前も他の連中と同じごと頭に血ぃ昇っとりゃせんかの」
「いや、松原の叔父貴ならともかく市川の兄貴がと思いましてね」
「やっぱりお前も松原がおかしいと思うとか」
「いや、今のは失言でした」
「お前が失言せん方が珍しか」
「ひでぇ言われようだ」
上瀧は控えめに笑い、少し背もたれに寄りかかった。
「松原にガサ入れたいところやけどなァ」
伊川がゆっくりと云う。その時、上瀧の携帯電話が鳴った。相手は秦だった。
「失礼」
伊川が頷く。ジェスチャーでスピーカーにしろと指示してきたが、上瀧はわからない振りをして通話ボタンを押して電話を耳に当てる。
「はい」
『若頭(カシラ)はなんとか一命を取り留めました。上瀧さんはどちらで』
「今な、伊川さんの護衛つきでそっちに向かっとる。あと二十分ってとこやな」
伊川が無遠慮に携帯電話に耳を寄せてくる。加齢臭とヤニと昔ながらの整髪料の混じった匂いが鼻につく。
「わかりました。お待ちしております」
と、無愛想に電話が切られた。
「巽が目覚めたそうです。叔父貴の件はちょっと巽に話してみますんで、事が掴め次第、伊川さんにご連絡差し上げます」
「余計なこと言いやがって。あんまコソコソせんで連絡せえよ」
「承知しとりますって」
「今、別府組とて無駄に兵隊動かしたくはなかろうけんな」
「仰る通りですよ。天下の桜の代紋のお裁きに任せたほうが賢明でしょ」
「そう思うとうならせいせい協力せえよ。赤川組の組長さんは縁の下の力持ちやろうけの」
「買い被りすぎですよ」
上瀧はクッと笑い飛ばす。伊川がふんと鼻を鳴らした。ようやく病院に到着した。
「とりあえず今日はここまでにしといちゃる。帰ってきたら連絡せえよ」
「心得ました。タクシー代はちゃんとお支払いしますよ」
「頼むぞ。じゃあな」
「はい。鷹岡さんもご苦労さんです」
と、上瀧は車から降りていった。
「――なんとも掴みどころのない男ッスね」
ルームミラー越しに鷹岡は伊川に目配せ、サイドミラーで上瀧の後姿を見やった。
「上瀧(ヤツ)は下手げなことはせん。けど、悪かばってん、お前アレば張っちゃらんや」
「わかりました」
鷹岡は頷いて、再び車を発進させて、ロータリーをぐるりと回った。
秦に連絡して病室を聞き、足早にまっすぐ向かう。病室の前に髪の短い若い女が立っていた。黒いバンドTシャツにデニムのホットパンツにボーダーのニーハイソックス、白いラバーソールの革靴という出で立ちで、明らかに巽の趣味ではない。上瀧に気づくと、アイメイクの濃い猫のような目を丸くして後ずさった。
「部屋間違えとらせんか。あっち行け」
野良にするように手を振ると不満げな上目遣いで睨まれた。小鼻の右側に丸いピアス、下唇に三つの輪っかと、顎の中間にも丸いピアスをしている。綺麗な顔立ちだが気の荒い野良猫ふうで扱いづらそうだ。べえっと出した長い舌先にもピアスが光った。上瀧は素早く手を伸ばしてその舌先のピアスを掴み、女に詰寄る。
「二つに裂いちゃろうか。ふざけたマネせんではよ立ち去れ」
女は舌を摘まれたまま小さく息を吸うと、顔を赤く染めて、潤んだ目で上瀧を見つめた。指を離して女を一瞥し、病室に入る。
「お疲れ様です」
入口の壁際に立っていた秦が頭を下げた。
「おい、なんか外に変なのおったぞ」
上瀧が秦にいうと秦はすぐさま部屋を出た。個室に入ってすぐ右側のトイレで手を洗い、ベッドのすぐ側の丸い簡易椅子に腰を下ろした。
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