第20話
「俺らの立場が逆転したらお前もわかる」
「その言葉、そっくりそのまま返しちゃあ」
巽の見開いた目が揺れながら潤んでいく。充血が痛々しい。
「俺は逆がよかった。赤川の叔父貴みたいに血の通った親がよかった。この人にならついていこうって思える親がよかった。一方的に利用されるんやなくて、相手のためならって思える信頼関係が欲しかった。それに……、諒平くんみたいに芯から強うなりたかった……」
巽は殴りつけるように押し返すと顔をそむけた。
自分が惨い目に遭っていても、他人のために傷ついて泣いて謝るような少年だったのだ。虫も殺せず、争いも苦手で、おっとりしていた。気性が荒くて負けず嫌いで、そのくせ自分が勝てる土俵でしか戦ってこなかった卑怯者の自分とは違う。
そのうえ引き取られた家は大きく、影響力も発言力もあり、息子というだけで界隈のほとんどの人間が頭を下げる。巽自身が犠牲にした自己や努力も多々あったとは思う。しかし、それだけではどうにもならない、大きななにかの一押しが巽には備わっている。巽は気づいていない。自分だったらとうに別府に引導を渡し、その代を譲り受けていただろう。そして、すでに足元をすくわれて死んでいたかもしれない。
「ないものねだりっちゃよう言(ゆ)うたもんやな、巽。俺はお前になりたかった」
少なくとも、自分は巽を、自分よりずっとまともで、不可思議な魅力のある人間だと思っている。抗うのも羨むのも妬むのも無駄だと諦めている。嫉妬や羨望は、巽がさらけ出す弱さと儚さに溶かされ、曖昧になり、情に流される。
「なんでやろうな。あの時、お前をほっとけんかったのは。あの糞野郎に殴られても少しもお前を責める気にならんやった。あの後もあいつを殺すことばっか考えよった。でも、お前のためとかお前のせいとか考えたことは一回もない」
「それは、俺がどうやけんじゃなくて、諒平くんが自分の正義の為に動くけんやない?」
「ああ。そうか」
「でも、あの時、俺は……」
巽がいいかけて、視線が遠くなった。サーッと青ざめ、震え出す。
「……巽?」
巽は崩れ落ちるように床に座り込み、頭を抱えて卵のように丸まる。ガタガタと震え、呻き声を上げる。
「だ、誰、にも、誰にも、言わんで、おね、お願い、誰にも……」
「巽、しっかりせんか」
胸ぐらを掴みあげ、こちらを向かせる。
「諒平、くん、だけ、俺、おれに、なんも、求めて、こんのは……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れていく。発作のような呼吸を繰り返し、喘ぐ。
「諒平くんしか、おらんのに……」
ガタガタと震える頭を抱え込み、背中を叩く。
巽の計り知れない痛みや苦しみがナイフのように鋭く胸を引き裂く。
「巽。わかった。わかったけん。頼む。苦しまんでくれ」
シャツの背中を冷たい手が強く握る。さすがにこんなに取り乱した姿は初めてだった。
「しっかりしろ。巽」
「ご、ごめん、ごめん……」
顔を見る。土気色した巽ががちがちと歯を鳴らして、途切れ途切れ答えた。真冬の海に漬け込まれた人間のように震えている。このまま人格が崩れ、違う何者かになってしまうのではないかと思うほど、巽の様子は尋常ではなかった。常に気がふれる一歩手前で踏みとどまっていたのだ。
「わかった。巽。別の方法を考えよう」
巽が上瀧を見上げる。徐々に視線が定まり、おかしな震えと呼吸が落ち着いてくる。
「俺はどうも誰かの下についとかないかんごたァ。俺の死に場所、お前が決めてくれ」
「……諒平くん……」
「しっかりせえよ」
巽を引き離して、肩を叩く。
引き攣ったような浅い呼吸がだんだん整い、顔色もよくなってきた。ちょうど薬も効いてきた頃なのかもしれない。五分ほど経つと、憑き物が落ちたみたいにけろりとした顔になった。
「今の、本気?」
「あァ? なんやお前。今の芝居か?」
「……いや、違う。でも、諒平くんが治した。」
「はァ?」
「やった。諒平くんが俺のものになった」
「他に言い方ないとや。キショい」
「俺たち五分の盃な」
「お前さっきと全然違うやん」
「そらそうくさ。当たり前やん」
「お前……」
呆れて言葉を継げずにいると、上瀧の携帯電話が鳴った。事務所からだった。出てみると、マル暴の伊川が連絡をよこしてきたとのことだった。
「今日は伯父貴の見舞いに行くけん戻らんって言っとけ。なんて言ってきたか返事はメールでよか」
通話を切る。
「なんて?」
「伊川が連絡してきたげな」
「女のオヤジが怒鳴り込んで来るってか?」
「まだ手出しとらんとに」
上瀧の言葉に巽がふきだす。
「あーあ。とんでもない女と関わったな。諒平くん」
「しゃあない」
スラックスと揃いのジャケットを羽織り、懐に煙草を入れ、財布と携帯電話を尻ポケットに入れる。巽の肩を叩いて行くぞと促した。
エレベーターに乗り、地下駐車場に向かう。
「諒平くんの車で行かん?」
「よかけど、あっちはいいとや?」
「むさくるしかろ、男四人で。諒平くんのもタマくらい弾こうもん?」
「そうやな。いつなんがあってもおかしゅうない程度には嫌われとるけん、そんくらいはな」
「俺は諒平くん好いとうよ」
ぞわりと腕や背中を幾つものしなやかな指に撫であげられたような感覚が走る。
「下手な怪談より体感温度下がるな。見ろ鳥肌」
と、腕をまくってみせる。
「またそげな事いう」
笑う巽は無邪気で、そのくせ、媚態じみている。
その仕草や言動は、男が隠し持っている仄暗い劣情に同化した優越感をくすぐる。無意識なのか故意なのかわからないが、時々、それを強く感じる。カリスマ性とはまた違う。創造性のない魅力。破滅に誘う蠱惑の力。巽に惹き寄せられる男たちがいて、一部の害虫が屠られていることも知っている。わざわざ口にすることはないが、巽を眺めているのは好きだった。どちらにもなりたくないし、ただ、傍観しているだけでいい。グロテスクな花をつけた食虫植物が虫を食う様を。
「お前がそうやって甘ったるいこというけん、オッサン連中が面白がってクソふざけたこと言(ゆ)うてくるんぞ」
巽由来の嫉妬混じりの揶揄も罵倒も上瀧が浴びせられてきた。それらを腹の中でせせら笑うくらい性格が歪んでいる自覚はあるが、鬱陶しいものは鬱陶しい。
「よかやん。言わせとけ」
「あァ?」
「どうせ老い先短いジジイ共やろ」
エレベーターが地下ホールに着く。巽は涼しい顔をして上瀧の胸元を手の甲で小突いて、先に降りた。
上瀧の車の助手席に乗り込み、巽は秦に電話をして先に行くよう指示した。
「なん企んどるとや」
上瀧がアクセルを踏み、車を発車させていう。
「企んどるとか人聞きの悪かこと言わんで」
地上に出て、住宅地の狭い路地を走らせる。
「そういうってこたァ、なァんかあろうが」
「市川がさ、俺が跡目になったら困ろうねと思って」
「ほう?」
「あ。」
巽が、窓の外の景色を追って横に向けた。
「どうしたとや」
「さっきの家の生垣。梔子が咲いとった。八月になるのに」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます