第18話

 闇の中に薄明かりが見える。物陰に身を潜めて、怒りに震える十一歳の頃の自分がいる。


 あれも夏だった。他の子供は皆、午後のレクレーションで施設の園庭で野球をやっていた。諒平は炎天下の中でボールを追いかける気になれず、一人施設裏の雑木林へ向かっていた。すると、裏口から肩をがっちり掴まれて施設長の宇田川に連れられていく巽を見かけた。またアイツ怒られよるんか。朝食を済ませるのが遅いと今朝も詰られていた。それより宇田川に見つかったら竹の定規で打たれるので、踵を返そうとしたのだが、雑木林へ向かう理由が気になってしまい後をつけた。好奇心とは別に、本当は、青白い顔をして震える足で連れていかれる巽が可哀想になったからだ。

 そして、林の奥に開けた場所があるのを知った。朽ち果てた廃寺跡のようだ。妙な気配に訝った諒平は、大きな杉の木の蔭から様子を伺うことにした。宇田川が入口の錠前を開けていると、巽はとうとう泣き出してしまった。声を出さないように堪えているようだが嗚咽が漏れている。宇田川はそんな巽を慰めることもなく、うるさいと頭を叩いた。巽の華奢な肩が縮こまった。今朝の件でまだ怒られているのかと思ったが、わざわざこんな人目につかない場所に連れてこなければならない理由がわからない。


 二人が中に入っていったのを見計らい、堂に近づいた。杉林の上では根城にしている多勢の烏が騒がしく鳴きだした。木製の階段を四つん這いで物音を立てないように登り、外れた取っ手の穴から中を覗いた。宇田川のなにかを言っているくぐもった声と、巽の押し殺した泣き声が聞こえた。宇田川のだらしなく弛んだ尻が丸出しになり、その横から巽の棒切れのような脚が伸びていた。痛い痛いと訴える巽をよそに宇田川は鼻息を荒くして尻を揺らしている。

 諒平は後退り、極力音を立てないようにと階段を使わず、腐葉土の上に飛び降りた。烏が一斉に飛び立ったり、鳴き出したりした。その音に紛れるように走り、元きた道を引き返そうと思った。数メートル程走ったが、ふと、目の前に自分の手の三倍ほどの石を見つけた。これだ、と閃いた。これがあればなんとかできるかもしれない。心臓は飛び出しそうに暴れ狂っていた。冷静さをかいていることに気づいていなかった。しかし、気づかれてはいけないと思い、足音を立てないように堂へ戻り、そっと戸を開けて、宇田川の背後に走り、頭を目がけて石を振り下ろしたが、十一歳の少年の腕力では大した打撃にはならなかった。

 驚きと憤怒を顔いっぱいに漲らせた宇田川が振り向き、巽から飛び退くと、すかさず諒平の顔面に拳を打ち込んだ。クソガキがなんしようとやと顔を真っ赤にして叫び喚きながら、諒平を叩き、蹴りつける。巽が泣きながら宇田川の腕に両腕でしがみついたが、軽々と振り飛ばされた。口の中にしょっぱい鉄の味が広がる。生暖かくぬめった体液がいっぱいになる。胸ぐらを掴みあげられ、距離が縮まった宇田川に向けてそれらを吹き出した。――が、しかし。ぶ厚い掌が頬を打った。ろくな反撃もできないのか、と己の無力さが悔しくて腹立たしかった。馬乗りになった宇田川の罵声が頭に響く。殺す殺すぶち殺すと繰り返す。ガクガクと揺らされ顔が熱くずくずく痛む。顔は霞んでよく分からない。甲高い巽の泣き叫ぶ声が諒平を突き動かす。自分の弱さを認めたくなかった。手に硬いものが当たった。さっきの石だ。諒平はそれを掴み、宇田川の横っ面に振りかぶった。

「効かんぞクソガキがァ!!!!」

 また強烈な平手が左頬を抉った。その時、宇田川の携帯電話が鳴り、理不尽な暴力の嵐が止んだ。宇田川が諒平から離れ、慌てふためいて服をかき集め身支度を始めた。

「今度邪魔したらぶち殺すけんな」と諒平に言い、「バラしたらここに居られんごとなるぞ」と巽に吐き捨て、堂を出ていった。

「ご……、ごめん。ごめんね、諒平くん。僕のせいで……、ごめん……」

 真っ白な肌を晒したまま、巽が諒平の傍でうずくまった。犬のように身体を伏せ、色褪せた板張りに額を擦りつける。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 か弱い少年に土下座させ愉悦に浸る宇田川の姿が浮かぶ。諒平も一度、宇田川のお気に入りの花瓶を割り、反省室でやらされたことがある。

「……やめろ。オレが弱かとが悪いったい……。クソ……」

 顔が腫れ上がり、口の中に血がたまる。顔が動かせず、ところどころ崩れた木の天井を見ることしかできない。血混じりの唾液や鼻血が逆流して喉に流れ込んできた。巽が諒平の上体を抱え起こす。口の中の粘液を吐き出すと巽が動揺して上擦った悲鳴を上げた。

「諒平くん死なんで。諒平くん死なんで……、諒平くん……」

「……こんなんで……」

 死ぬわけなかろーが。そう言ってやろうとしたが、もうどこも動かせなかった。



 気がつくと携帯電話の着信が鳴っていた。こめかみの奥が鈍く痛む。身体を起こし、中指を押し当てぐりぐりと揉む。着信音は止まない。舌打ちをしてベッドから立ち上がり携帯電話を探した。上着のポケットで見つけ、開いて見ると、巽からだった。通話ボタンを押して耳に当てる。

「……なんや?」

「おはよう。昨夜のカノジョはもう帰ったん?」

「日付が変わらんうちに帰ってしもうた」

「そうなん? どげんやった? 久しぶりのオンナは」

「逃げられてしもうたけんわからん。どうしたとや」

「今から親父の見舞いに行くけん、諒平くんも来てくれん?」

「ああ。よかよ。ちょっと事務所寄ってからでよか?」

「今、どこおると?」

「平尾のラブホテル」

「車回すけん、乗ってきいよ」

「急ぎや?」

「あんま容態が良くないみたいっちゃんね」

「分かった。じゃあこっちには電話しとく。どれくらいで来るや?」

「薬院のマンションにおるっちゃけど、もう秦も迎えきとるけん出れるよ」

「わかった。用意しとく」

「ごめんね。諒平くん」

「俺に謝るな」

 返事を待たずに通話を切る。

 ざっとシャワーを浴びて身支度を済ませ、念入りに歯を磨く。なんとなく粘つく唾液が、あの日の屈辱を思い起こさせるので嫌だった。


 到着を知らせるワンコールが鳴り、ホテルを出ると雨が降っていた。ぬるい濡れた空気が肌にまとわりつく。思わず顔をしかめた。

 出入口の軒下で煙草に火をつける。アスファルトを叩く強い雨音を聞いていたら、見慣れた白いセダン車がゆっくり滑り込んできた。運転手は秦で、助手席にはボディガードの男が乗っており、二人は上瀧に気づくと頭を下げた。運転手側の後部座席でボタンダウンシャツのラフな格好をした巽が手を振るのが見えた。上瀧は深く煙を吸い込むと、水たまりに煙草を投げ捨てた。

「煙草、いいのに」

 隣に乗り込む上瀧に巽が云う。

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