第16話

 あの男に触れた。あの男がこの乳首を吸った。茉莉は指で唇に触れ、あの男の唇と舌を頭の中で反芻した。ふにゃふにゃだったものが、口の中でジワジワと膨張して鎌首をもたげた。しかしまだまだ力及ばず、本領発揮とまでは持っていけなかった。つくづく少しも初心者に優しくない男だと思う。しかし、この身体は子どもを産めるようにできているらしい。そう考えたら男の一部など入って当たり前だ。しかし、別に子どもが欲しいとか、結婚したいとか、そんな欲求はない。子どもが嫌いなわけではないが、特別好きでもない。茉莉は下腹に手をあて、ゆっくり摩ってみる。

 不意に頭の中に、他人の声がよぎる。二十代も半ばになると結婚や出産を考えなくてはならないらしい。欲しい男すら手に入れていないのに、そんなことを考えられるはずがない。いつも適当に相槌をうって聞き流す。あの男が毎日一緒にいるのはどんな感じだろうかと想像してみる。家事なんか好きじゃないけど、少しくらいなら頑張れそうな気がする。けれど、あの男の存在が、生活や日常に埋もれていくのは嫌だなとも思う。手に届かない方がよかったのかもしれない。

 曲がり角の生垣の白椿は、そこにあるのを見ているときが一番綺麗だった。たまたまその家の奥さんと鉢合わせて、思わずきれいですねと言ったら、嬉しそうに手入れついでに一枝くれた。部屋に持ち帰り、湯呑みにさして流しのところに置いていたが、花は急速に美しさを失い、ゆっくりと枯れていった。最後は茶色混じりに変色して、シルクのドレスのような花びらもぼろぼろと落ちてしまった。散ってしまった花は、少しも美しくない手を煩わせるだけの生ゴミだった。別にたいして欲しくもない花だったせいだろうか。

 よくわからない思考を止めて、クレンジングミルクを手のひらに押し出す。出がけの日焼け止めとファンデーションはほとんど汗でとれてしまったと思うが、クレンジングと石鹸で顔を洗う。クレンジングミルクと石鹸どちらかだけでは、なんとなく油膜が残ったままのような気がして気持ちが悪い。洗顔を済ませて浴室に入る。夏場は風呂釜に湯を張るのがめんどくさいので、小さめの盥を買った。そこにぬるま湯を溜めて洗面器ですくって使う。髪と身体を洗い、行水程度の入浴を済ませて風呂場を後にした。キャミソールと女性用ボクサーパンツを穿いて、冷蔵庫を開ける。使いかけの半分の人参と玉ねぎとベーコン。あとは、缶ビールが一本。よかった。ギリセーフ。と思いながら缶ビールに手をのばす。水切りラックに伏せておいたグラスに注いで、息が続く限り一気に飲んだ。喉がキュッと締まる。こめかみにうっすら痺れるような痛みが走ったが、それも含めて、冷たく流れていく喉の快感になった。

「くうぅぅ~~っ! 最っ高! うまっ!」

ハァーッと息を吐いて充足感に浸る。口笛を吹きながら奥の畳の間に行く。マットの上に布団を敷いたソファ兼ベッドもどきに腰を下ろして、今日あったことを思い返す。上瀧とのことは夢幻のようで現実味が薄かった。舞い上がっていたせいで記憶がおぼろげだ。上瀧がしたのは、今まで想像してきたキスとかいう可愛らしいものじゃなかった。荒々しくて有無を言わさず責め立て、尚且つ、自らの欲望を教えこむようで茉莉を心地よくさせた。ずっと、求められたかったのだ。

 ビールを流し込むペースを落とし、余韻とほろ酔いに浸りながら、緩む頬をそのままに、足をばたつかせてみたり、クスクス笑ってみたりした。

 連絡先は教えてもらえなかったので、また事務所に突撃しようと思った。そのうち嫌われても、その前にやることをやればいいのだ。それ以外、あの男との付き合いがなんにも想像できない。

 十二時になろうかというのに着信がなった。ディスプレイを見ると母親からだった。茉莉は目を逸らして、缶ビールを呷る。正面にあるテレビをつけ、それが鳴り止むのを待った。

 ――折り返しの電話、めんどくさいな。

 静かになったスマートフォンを意識しながら、視線はテレビから外さず、思った。ビールを飲み干し、軽く首を回したり、背伸びをしてみたりして立ち上がって、洗面台に行き、歯磨きを済ませて、ベッドもどきのマットに倒れ込んだ。上瀧の顔を思い浮かべようとしたが瞼の闇に紛れてしまい、上手く行かなかった。


 姉の菫(すみれ)は小さな頃から両親や他人の注目を集めてきた。

 顔立ちも茉莉より美しく整っており、口も達者で何事もそつなくこなしてしまうので、同じ年頃の子供たちからは憧れられ、大人たちからは可愛がられてきた。たまに妬まれることもあったが、せせら笑う強かさを持っていたので卑屈になることもなかった。

 さらに思春期には異性からの好意も加えられるようになったが、彼らもまた姉と茉莉を比べ、姉を褒めた。姉を讃えるために茉莉はやんわり貶められ、その度に自分の中の何がかんなで削られるように傷めつけられた。

 男たちの好意から来る姉と茉莉への比較はあからさまで、たいして知りもしないくせに、外見の優劣だけで茉莉を評価する。妹に生まれたのは偶然だというのに必然的に貶められる。理不尽極まりない自分の立場に辟易した。だからこそ自分に寄せられる他人の好意も全く信用できず、学生時代に三人の同級生に告白されたこともあったが、全て断った。相手に興味が持てないというのが一番の理由だが、自分を好きだと云った彼らが、姉に見蕩れる近い将来を想像してしまい、絶対に受けることが出来なかった。

 しかし、絶対姫君だった姉が地元の大学に進学し、実家通いにも関わらず家にほとんど帰らなくなり、ホスト遊びに夢中になり、挙句キャバクラで働き出すようになってからというもの、両親の対応は180度変わった。市役所務めの父と専業主婦の母は、愛娘の変貌にショックを受け、絶望し、裏切られたと早々に見切りをつけた。彼らにとって夜の住人は忌むべき社会のゴミだった。その世界に飛び込んだなら、娘でさえ簡単に見捨ててしまえるほど、彼らは普通と堅実を信奉していた。茉莉はそんな彼らを密やかに見限った。

 そして遂に行方をくらませた姉は、ある日突然茉莉にメールを寄越した。広島の住所を添えて、誰にも言わずに迎えにきて欲しいという彼女の願いを、深く考えずに叶えた。それが身内の、血の繋がった妹(もの)の役目だと漠然ながら感じたからだ。

 しかし、金銭面に無理があったので、夏休みの出校日にあった平和学習という授業に感銘を受けたので、実際に原爆ドームを見に行きたいと説得した。一緒に帰ってくる時は姉が説明すればいいと思った。

 朝イチの新幹線に乗り、最初にちゃんと原爆ドーム見学をしてから姉のところに向かったので夕方近くに到着した。原爆ドームのレポは夏休みの自由課題にしてなかなかいい評価を貰った。

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