第11話
ダメ元で訊いてみたが、予想通り、しゃあしゃあと宣った。
「はい。じゃあ、ネーチャンじゃなくて茉莉ちゃんって呼んでください」
「呼べってか」
「はい」
「茉莉ちゃん」
「くはっ! 激熱!」
思わずグラスを置いて両手で顔を覆った。
「なんやそれ。もう酔っ払いか?」
「いや、まあ、似たようなものです。でも、どうして私を誘ったんですか?」
「あんたがまた来るっていって全然来んけん」
「ヤダー! スケコマシー!」
まんまとときめいてしまい、上瀧の顔が見られない。茉莉は再び両手で顔を覆う。
「スケコマシて」
「はぁー。喉渇く。あ、もう一杯どうです?」
上瀧の呟きも虚しく、届いていない様子で茉莉がいうと、上瀧もグラスを呷って空にする。そこに今度は茉莉がビールを注いだ。
「差しつ差されつ。なーんかいいですよねぇー。こういうの、憧れてたんですよ」
「それで、瓶ビールか?」
「そういうことです」
茉莉が得意げな顔で笑うと上瀧も少し口角を上げた。
口の端っこに引っかけたような、苦みばしった上瀧の独特な笑い方に、茉莉の胸がキュンと鳴る。一応、これまで茉莉なりに警察官の立場を取り繕っていたが、肩を並べたらもう駄目だった。見蕩れていたら目が合った。至近距離のせいでもう胸がパンクしてしまうかと思った。
「惚けたツラして大丈夫や?」
「大丈夫ジャないです」
「もう限界か? お開きにすっか」
「いや、そうじゃなくて。ずっと好きだったんです」
「ア?」
「十年間、ずっと忘れられなかったんです」
「人違いやろ」
「絶対にそんなことないです。十年前、広島のボロアパートでお姉ちゃんとヤッてたの、私見ましたもん。背中の、極楽鳥? あれ? 鳳凰か? ハッキリと覚えてます」
「あやふややないか。似たような紋々なんかいくらでもある。それになァ、その相手見つけてどげんするとや? 姉ちゃんと竿姉妹になりたいとや?」
「いや、そうじゃなくて。なんてゆーか……」
なんと言えば伝わるのだろうか。茉莉は必死に頭の中で言葉をかき集めたが、適切なものは見当たらない。
「それに、そりゃアレだ。トラウマ。なんつったらいいか、思い込みやろ」
上瀧は懐から煙草を取り出し、一本くわえると、醤油差しの隣に置いてあったマッチを擦って火をつけた。モワッと煙がたち、目に入る煙の刺激に茉莉は顔をしかめた。
「はぃ?」
「あと拉致されたって言いよったろうが。ショックがでかすぎて脳(アタマ)が勘違いしとうっちゃないとや? なんやったかな。ストックホルム症候群か?」
フッと煙を吐く。
「……そんな」
「可哀想になァ。何処の馬の骨か知らんけど、そんな奴のこたァ、はよ忘れて普通の彼氏作れよ」
「忘れられんもん」
「よっぽどえぐいもん見たんやな」
「しかともないこと言わんでいいけん、さっさ刺青みせてくれん?」
「あ? なんでや?」
「よかろ、1回やるくらい。減るもんやなし」
「とんでもない
今度は顔に煙を吹きかけられて、反射的に後退した。
「なんっ、」
咳き込んで言葉が継げない。
「なんするとよ!」
「イチモツ噛みちぎりそうな女やら恐ろしゅうて抱ききらん」
「意気地無しー!」
茉莉の悪態を聞き流し、上瀧は、煙草を灰皿で押し潰すと、カウンターの少し上に置かれた伝票を取り、席を立った。
「オヤジ。勘定」
と、店主に縦長の小さなバインダーを渡す。
「ちょっと待ってよ!」
茉莉は慌てて後を追う。上瀧はマネークリップから一万円を弾くと、「あ、外……」と店主が何か言いかけたが、さっさと店を出ていった。
「待ってって言いよるやろ!」
飛び出した茉莉は鼻を潰すように上瀧の背中とぶつかった。軒下の向こうはさっきまでは考えられないほどの土砂降りの雨だった。
「うえ……。天気予報雨降るとか言っとらんやったやん……」
茉莉は上瀧の肩越しに天を睨む。
「こらァどうしたもんかね……」
ウンザリした声でいう上瀧の腕をガッチリ掴む。
「坂んとこにラブホあるでしょ。雨宿りしに行きましょう」
「最高に色気のない女やな、お前」
「色気のあることした事ないもん。あ、タクシーおった。行こ」
「あァ?」
女にしては力が強い。半ば引きずり込まれるようにタクシーに乗った。
「どちらに行きましょ?」
「坂の上のラブホテルまで」
「はいよ」
浮き足立った茉莉と慣れた運転手の軽いやりとりに上瀧は黙り込む。一瞬にしてビシャビシャに濡れた髪と肩に、茉莉のタオルハンカチを持った手が伸びてきた。
「コレ、なんの罠や?」
雨だれを拭う甲斐甲斐しい手を好きにさせ、上瀧は訊ねる。
「美人局とかではないことは確かですね。」
と無邪気に笑う。こんなに嬉しそうに笑いながら自分に触れてくる女はいなかった。運転手も話しかけるのをはばかっているのか、ちらりとルームミラー越しに目配せたがすぐさま視線を前に戻し、そのままスピードを上げた。
目的地まではあっという間だった。こんなにもあっけらかんとこういった場所に来たのは初めてかもしれない。いつだって自分と関わる女は覚悟や陰を背負い、神妙さをたたえていた。
「どの部屋にします? 平日でも結構混んでるんですねー」
まるで焼肉屋のメニューでも眺めているかのように部屋を選んでいる。この女の意図がまったく読めない。叩かずとも埃にまみれているので思い当たる節ばかりだが、逮捕に至るようなヘマはしていない。いや、これからするのか。となんだかどうでもいいような気になっていた。目の前の女は水族館にでも来たかのような屈託のなさで、部屋の写真が表示された光るパネルを眺めている。
いくら女にしては力が強いといっても、タクシーに乗る前でも降りる時でも振り払えた。色気のいの字もないが、この掴みどころのない楽天的な女に興味を引かれている。たぶん、少し入った酒のせいもある。女との関わりがずいぶん久しぶりなせいもある。かと言って、別に欲情もしていない。なんだかよくわからない好奇心でここにいる。決めかねている茉莉をよそに、残っている三部屋のうち寛げそうな広い部屋の光ったボタンを押した。
「あっ! そこ一番高いけど良さそうと思った部屋(とこ)!」
とビンゴが当たったような顔をしてこっちを見た。
「喚くな。しゃあしい」
馬鹿にした言い方でも気にせず、茉莉は体をぶつけるように腕に抱きついてきた。むしろ、上瀧が連れていかれているような押しの強さでエレベーターに乗り込む。
「ようやく覚悟決めてくれましたね、上瀧さん」
「泣くのはお前やぞ」
「鳴かすなら鳴かせてくださいホトトギス!」
「アホか。親が泣くぞ」
「えー。これからって時に親の話しますー? 悪趣味ぃ」
「俺みたいな人間とシケこもうって女がなん言いようとや。お前自分の職業忘れとうとや」
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