第10話

「いえ。無理強いはしたくないんで結構です。また別の機会にお願いします。それに、実は見たいテレビあるんで帰りたいです」

「そ、そうなの?」

「はい。なんかすみませんでした」

 茉莉は佐々木に頭を下げ、振り向きざまに鷹岡の足を踏みつけて歩き出した。とっさのことにじっと黙って耐えたことは、素直にすごいと思った。しかし、だ。今夜あいつはあのほどよくむっちりした佐々木の尻や胸を恣にできる幸運な男なのだ。こっちはあれ以来、まったくなんの進展もないというのに。多国籍料理屋を後にして立ち止まった信号で、そう考えたらイラっとした。

 自分だけ家に帰るのもなんだか癪だ。飲みに行くかとも思ったが、一人で行くのはやっぱり癪だ。すごい偶然が起きて上瀧とばったり会ったりしないだろうか。ないな。と一人で落胆し、行くあてもなく、駅前の大通りを渡辺通りへと歩き、今まで入ったことのない小洒落たカフェに入った。ブラッドオレンジの生搾りジュースが美味しそうなので、それとコブサラダを注文してカウンター席に座る。やってきた彩りのきれいなサラダをつつきながら、はやくも失敗したな、と思った。大人しく平尾駅の高架下の焼き鳥屋にでも入っていればよかった。オレンジジュースなんかより生中だった。

 ぱっとしない燻った思いを抱えたまま、中途半端に膨らんだ腹でまた薬院駅へ引き返す。駅前のバス停の近くはバスだけではなく、迎えに来た車も停車するので混雑していた。駅隣のファストフード店の前に黒いセダン車が停車しハザードがついて、歩道側の後部座席から男が降りてきた。見覚えのある顔に、茉莉は自分にしか聞こえない程度の声を上げた。藤崎巽だ。続いて降りてきた男を見て、奇跡かと思った。上瀧だ。仏頂面で藤崎巽の後を追い、ファストフード店に入っていく。え。なにあれ可愛い。そう思いながら引き寄せられるようにファストフード店を覗くと、二人は何か話しながらカウンターの前に並んでいる。二人とも背が高く、カラーシャツにスラックスという出で立ちだが、やはり堅気にはない雰囲気のせいで、周囲が威圧されているのがわかる。二人の周囲に不自然な空間ができている。笑顔の藤崎と仏頂面の上瀧。順番が来て藤崎が注文をして、上瀧が踵を返し、外へとやってくる。茉莉は慌てて覗くのをやめて、すぐ傍にあった美容室の看板を見るふりをして背中を向けた。そのとき、耳をつんざくクラクションが響いた。フルスモークの改造された白いSUVが黒のセダンに向けて放っている。セダンの運転席から若い男が顔を出すと、SUVの助手席の窓が開いて、退けコラ邪魔ぞ! と罵声がした。一気に不穏な空気になり、通行人もそちらを窺いつつ、足早に去っていく。上瀧は店の前で煙草に火をつけ、成り行きを眺めている。運転席の男はSUVの助手席の男に何か言っている。助手席から降りてきた男がセダン車の男に詰寄る。お前出てこいと運転席の男に怒鳴りつけるが、彼は応じない。窓から腕を突っ込んで掴みかかった所でパワーウィンドウが閉まる。腕を挟まれた男が叫んでいる。上瀧をチラッと見やると、煙草を吸いながら、うっすら笑って眺めているままだ。笑ってる場合かと思いながら、茉莉は車へ駆けつけた。

「ちょっと何やってんの」

 運転席の窓を叩きながら割り込み、バッグから警察手帳を出した。パワーウィンドウが開き、運転席の男はしれっとした顔で答えた。

「イチャモンつけられて殴られそうになったんで窓閉めたんすよ」

「ふざけんな貴様! 俺の手掴んで窓閉めたろうが!!」

 腕を抑えながら叫ぶ男をひと睨みして制し、運転席の男に視線を戻す。その間に男は車に戻り、SUVは急発進して逃げていった。

「見てた。そもそもここ駐停車するの違反だけど?」

「すいません。すぐ退きます」

 と後方から声がした。見ると藤崎巽がファストフード店の袋を抱えて申し訳なさそうな微笑を浮かべている。

「今回は見逃してあげるから早く移動して」

 茉莉が言うと、藤崎巽は笑って礼を言い、車に乗る。そして上瀧を置いたままだというのに、車は行ってしまった。

「えっ」

 茉莉は唖然と車を見送り、上瀧のいた方を見る。上瀧は煙草を投げ捨て、靴で踏み消すと、茉莉のほうへ歩いてきた。

「久しぶりやね。お巡りさん」

「路上喫煙禁止ですよ。上瀧さん」

 努めて平静を装ったが心臓はバクバクしている。

「消してきたやん」

「そういう問題じゃないです。ポイ捨てもダメ」

 上瀧の脇をすり抜け、捨てた吸殻を拾う。

「さすがお巡りさん」

 悪びれもせず言う。茉莉は手帳の半透明のジップ式の袋を取り、吸殻を入れ、上瀧に向けて見せる。

「唾液からDNA採取してやる」

「マジか。しくった」

 飄々と言うのが可笑しくて、つい吹き出してしまう。

「それより、車、いいんですか? 置いていかれたんじゃないですか?」

「なんで知っとうと?」

「一部始終見てました。ハンバーガー食べなくてよかったんです?」

「よか。あんなもん。あんた今から用事あると?」

「え?」

「ん?」

 驚いた茉莉を不思議そうに見返す。

「なんでですか?」

「時間あるなら飯食い行かん? と思って」

「本気ですか?」

「置いていかれたしな。よかろうもん、飯くらい」

「でも」

「警察とヤクザがつるむなんか今に始まったことやないて」

「タチの悪い冗談やめてくれません?」

 睨むと、上瀧は少し首を傾げて覗き込むように顔を近づけてきた。心臓が跳ね、歓喜で叫びそうなのをどうにか押し殺す。

「何食いたい?」

「や、焼き鳥とビール」

 咄嗟に口をついた。他に浮かばない。彩りと見栄え重視の食べ物は目の前の男には似合わないし、もう食べたくない。

「よかね。あんたの行きつけあるならそこ行こう」

 上瀧に促され、タクシーにおしこまれた。車内で上瀧は一言も喋らなかったが、運転手がなんやかんや話しかけてくるので茉莉はそっちに答えるので忙しく、あっという間に目的地に着いた。

 十五名ほどでいっぱいになりそうな店内には茉莉と上瀧の他、白髪頭の作業着姿の男の二人組しかいない。

「渋い趣味しとるなァ」

 皮肉かと思ったが悪気はなさそうな顔をしていた。

「瓶ビールでいいですか?」

「あ? よかよ。好きなもん頼み」

 並んでカウンターに座り、おしぼりを受け取り、やきとり盛合せと瓶ビールを頼んだ。お通しに短冊切りの山芋の梅酢和えが出てきた。

「どういうおつもりですか?」

「見逃してもろうたけん、その礼」

 置かれたグラス、そして瓶ビールは上瀧が取る。腕まくりした裾から伸びる前腕の逞しさに噛みつきたくなった。茉莉がグラスを持つと上瀧がビールを注ぎ、自分のグラスにも同じように注いだ。

「はい乾杯」

 と軽くグラスをぶつける。

「うう……収賄……」

 と言いつグラスを呷る。

「面白いネエチャンやな」

「高橋茉莉です」

「いや、こないだ見たけん知っとうけど。まつりって読むんや。まりかと思った」

「もしかして、こないだ見せた警察手帳アレで覚えたんですか?」

「まァ、一応」

 なら十年くらい前のことも覚えているんじゃないかと思う。が、訊いたところですっとぼけられるのだろう。

「じゃあ、十年前の女子大生と女子高生は?」

「知らんもんは覚えようがなかろ?」

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