第7話

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 暑い。茉莉はうんざりと思った。アスファルトの照り返しがひどい。これで紫外線も反射して日焼けする。と化粧品会社のビューティアドバイザーが言っていた。男には、外に出れば七人の敵がいるらしいが、女には内にも外にも敵がいる。いや、このご時世男女問わず内にも外にも敵ばかりだ。紫外線も湿気も低気圧も敵だ。セクハラオヤジもパワハラババアもマウントヤングウーマンもアラサーに厳しいヤングメンも皆滅びればいい。暑い。暑い。暑い。こんな日にはキンキンに冷えたビール! 夏が暑くて許せるのは、冷たいビールが美味しく飲めることだけだ。

「お前大丈夫や?  顔が死んどるぜ」

 隣を歩いていた鷹岡が、茉莉の沈んだ仏頂面を横目で見下ろしながら言った。

「暑いけん人を殺したって昔のなんかの話であったよね? 冷たいビールがあればよかったっちゃないかな?」

「じゃあ、早く終わらせて飲み行こうぜ」

「そんな大袈裟なことせんでいいけん、コンビニでビール買って帰りたい。今すぐ解散って言ってくれん?」

「そりゃ無理やね。騙された可哀想な婆さんのために諦めて歩け」

 バシッと背中を叩かれる。

「セクハラ!」

「おう。訴えてこい」

「慰謝料、生ビール五百の六缶パックで許す」

「パワハラ。恐喝、ゆすりたかり」

「六缶パックくらいでシケとぉ!」

「しゃあしいったいお前。駐車場からちょっと歩いただけやろもん! もうすぐ着くけん黙っとけ」

 鷹岡は、暑っちー。と手の甲で額を拭う。傾きかけた陽射しに建物の影も濃い。世界はオーブントースターのようだ。なんで入口から一番遠い所に停めるんだ。来客用駐車場が遠すぎる。イライラしながら団地内の公園を横切り、更に歩いてつきあたりのところ五棟と描かれた建物を見上げる。暑さのあまりささくれだっていた茉莉だが、あまりにも老築化の目立つ建物を見て、孫が事故を起こしたと騙されてもらったばかりの年金十二万円を振込み、さらには二十万円を街金で借りてしまった老女を思い、せつなくなった。

 内田光枝、六十八歳。これから彼女に一緒に本署に来てもらい、事情聴取を行う。本来なら早良署の管轄ではあるが、松原組の繋がりのある詐欺集団とのことで、茉莉が所属する組織犯罪対策課が預かることになった。

「ねえ。鷹岡くん。車遠いよ。おばあちゃん、熱中症になったらいかんけんそこの入口にベタ付けしてよ。アンタ得意かろ。おばあちゃん私が連れてくるけん、車動かしてきて」

「ん。」

 鷹岡は短く応えると元来た道を引き返す。茉莉はそこが抜けたように暗い影の落ちたコンクリート階段の入口で溜息をついた。エレベーターないのか、と。猛暑は茉莉からやる気と体力を容赦なくぶんどっていた。重い足でようやくたどり着いた目的地は、ペールイエローのあちこち錆びた鉄扉に風通しのための濃いオレンジ色のサンダルが挟まっていた。

「ごめんください」

 呼び鈴を鳴らして応答を待つ。怠さだけではない。少しうんざりしているのは微かに嫌な予感が頭をもたげているせいだ。室内から漂ってくる湿っぽさを含んだ静けさ。不自然な人気のなさ。

「こんにちはぁ! 内田さん、いらっしゃいますかぁ」

 あーあ。ヤダなぁ。なんか、ヤダなぁ。悪い予感が外れてますように。ショルダーバッグから白い手袋を取り出す。手にはめてドアノブを引いて中に入った。

「失礼します。内田さん。こんにちはぁー。高橋です。入りますよー!」

 今日初めて会うのに高橋ですって言われてもなぁ。と思いながら部屋に上がった。強烈な糞尿の臭いがする。紙オムツが必要な老人が一人きりで住んでいるのか? 写真でみた限り身綺麗で背筋も伸びていた。資料の写真が古かったのか? そんなことを思いながら辺りを見渡す。整理整頓された小綺麗な室内――、玄関からすぐ台所と食堂、左側の居間の窓辺から伸びた揺れる大きな影。窓は半分開いていた。

 後始末への配慮か、爪先の下には大きめの盥。赤ちゃんの行水に使えそうな青いプラスチックでてきたあれだ。暑さと臭いと老女の骸に、胃がひっくり返ったような痛みがこみ上げる。

「ううぇっ!」

 出てくるものはなかったが、咄嗟に口を押えた。失礼とかそんな問題じゃない。身体が反応してしまう。慣れないものは慣れないのだ。茉莉はすぐさま仕事用のケータイ電話を取り出し、鷹岡に電話する。すぐ近くで電子音がした。玄関から物音がして鷹岡が入ってきたので通話をオフにした。彼の手にもさっそく白い手袋がはめられている。

「あーあ。こりゃ応援呼ぶしかねーな」

 鷹岡はすれ違いに茉莉のを背中を叩く。

「痛い!」

「シャンとしろ」

「はい! ごめん〜!」

 と、いいつつ舌を出す。鷹岡はそんな茉莉を横目で見て、中指を立てた。ずんずん遺体の傍まで歩き、辺りをぐるりと見渡し、亡骸と足元の盥と交互に見やる。

「あーあ。こんな気ぃ遣うなら生きとってくれりゃよかったとにな」

「ホントよ。ウォエッ」

「なんしようとや。高橋、早よ連絡しろ」

「ふぇい」

 口もとを押さえつつ遺体に背を向け、再び携帯電話を開く。

「遺書か、あれ」

 鷹岡は小さな卓袱台の上に置かれた封筒を見つけて目配せる。

「触ったらいかんっちゃないと?」

「馬鹿言うな」

 茉莉がへへっと笑った所で電話が繋がった。


 あっという間に応援が到着し、部屋一面青いシートが張られ、鑑識も駆けつけ、現場付近は立ち入りを禁止のテープが貼られ、辺りは騒然となった。なんと捜査一課殺人犯捜査係の高嶺の花、佐々木花織警部補とその部下、角田功夫巡査長まで駆けつけてきた。

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