第5話

 夜になって気温が下がり、辺りは白く濁っていた。夜霧のせいで数メートル先も見えないが、浮かび上がる外灯の明かりが幻想的だった。

 都市高速下の港に並ぶ倉庫の一角に、磨き上げられた黒いセダン車が停まっている。その運転席で、上瀧は放心したように窓の外を眺めながら歯笛を吹いていた。昔の刑事ドラマのエンディングテーマで、うらぶれた商店街で小さなスナックをやっていた母親の十八番だった。あれはいくつの時だっただろう。店先で母の腕に抱かれ、揺られながらその歌を聴いた。それは母親との一番親子らしい記憶だった。その後は施設に預けられたので、以降の思い出などない。

「なんツヤつけとうとや」

 からかう声に視線を移すと、助手席のシートを倒して、ダッシュボードに脚を上げて、眠っていたはずの藤崎がニヤけ顔でこちらを見ていた。仕立ての良いグレーの背広の襟元には代紋入りの金バッチが留められている。上瀧の背広には赤川の形見となったバッチだ。

「なんがや?」

 上瀧はふいっと顔をそらし、ポケットから煙草を取り出して銜えた。車内ソケットで火をつけ、窓を少しだけ開けると、煙を流し込んだ。

「おまえの歯笛がうるさいけん、目が覚めたろうが」

「一時間半もこうしてやっとうとぞ。有り難く思え」

「しゃあないやん。ここんとこまともに眠れんっちゃけん」

 藤崎巽は、崩れた柔らかくパーマのかかった髪を指で後ろに流し、物憂げに息をついた。

 色白の女好きする優男だが、目の奥は底冷えするような冷ややかさをたたえている。上瀧の一つ年下の三十六歳で、同じ施設で過ごした。そして赤川に代紋をくれた兄貴分の別府(べっぷ)昌義(まさよし)率いる別府組の若頭を務めている。

「もう少し寝ていいかいな?」

「別に俺は構わんけど」

「諒平くんも寝ればいいやん」

「俺は別に眠くない」

 ふう、と溜息が聞こえた。藤崎はさらにシートを倒し、目を閉じた。時々人目のつかない場所に二人で落ち合い、互いの近状を話す。

 再会するまで知らなかったが、藤崎は別府が本妻とは別の女に産ませた私生児で、十二歳の時に別府の子飼いの土木作業員の夫婦に引き取られた。本妻との間にできた息子は真っ当な大学を出て、極道とは全く無縁の顔をして会社員として生活しているという。施設にいた頃は荒事の苦手な内気な少年だったはずだが、今では見る影もなく、すっかり若頭が板についている。

 一方上瀧は、十五歳の時に、近くを縄張りにしていた暴走族と諍いを起こし、総長を含めた少年五人に重傷を負わせ少年院に送られた。退院した彼を迎えに来たのは、施設長ではなく、母親の内縁の夫だという知らない男だった。

 男は佐川といい、テキ屋回りのチンピラで、各地の祭りを回って日銭を稼いでおり、短気で、子供相手に昔起こした傷害事件で偉ぶろうとするしょうもない男だったが、ぼろい軽のワゴンに上瀧を乗せて各地を回り、生活必需品を買い与え飯を食わせてくれた。佐川が酔っ払うと、あの母親の十八番の歌を歌うものだから、すっかり記憶に残ってしまった。

 そして、佐川の所属するテキ屋グループの元締めが赤川だった。

 赤川の肩には桜吹雪、背中には大蛇と不動明王が彫られていた。桜が好きで彫ったが、儚く散るので、執念深い大蛇を入れた方がいいと薦められてつけ足したという。赤川には左の小指の第一関節から上がなかった。弟分の不始末を片付けるために自ら噛みちぎったと言っていた。赤川はやってくる度に、焼肉や旬の魚や珍味などを腹いっぱい食わせ、一緒に酒を飲み、一人一人に一万円ほどだったが、小遣いをくれた。上は六十、下は上瀧の十六歳まで八人ほど男たちがおり、普段はひとつの敷地に密接した六戸の平屋で、それぞれ生活していた。二年ほど佐川と一緒に全国を回り、赤川の所に出入りしているうちに、母親が他の男を作って店をたたみ行方をくらませた。佐川は上瀧にそのことを告げ、泣き笑いのような顔で「しょうがねえ女やな」と言ったが、荒れる様子もなく、その後もしばらく変わらず祭りを回った。

 そのうち上瀧が赤川組の事務所の方に出入りするようになり、まとまった金を稼ぐようになったので、佐川に毎月三万から多いときで五万を渡した。世話になったせめてもの礼だった。平屋を出て、一人で生活できるようになってからは、十万を渡すようになった。しかし、上瀧が二十歳になった頃に、佐川が屋台の骨組みを組み立てている時に足を滑らせ、機材の下敷きになり、大腿骨を骨折した。健康保険証を持っていなかったのでろくに通院できずに自宅療養したせいで、杖をついて足を引きずらなければ歩けなくなった。それから出稼ぎにもあまりでられなくなり、痛みと暇を紛らわすために常に酒を飲むようになったという。当時の様子をよく知らないのは、その頃軌道に乗り始めた金融業の忙しさを理由に直接会わなかったからだ。金は舎弟に運ばせた。

 ドサ回りでは買えなかった服や背広を着るようになり、街の小綺麗なマンションに住み、少しずつ自分に頭を下げる人間が増えていくにつれ、ぼろい軽のワゴンと雨漏りが当たり前の平屋で雑魚寝していた生活が、振り返りたくない自分の汚点のように思えてきたのだ。

 それでも佐川の負傷後、一度は会いに行った。夏に怪我をして次の春が過ぎようとした頃だった。

 佐川は空白を感じさせない親しさで上瀧を迎え入れ、朝から用意したという桜鯛を捌いて刺身を作ってくれた。純米酒と銘打った一升で千円ちょっとの紙パックの日本酒を出して、安い割になかなか旨いんだといって笑った。佐川の精一杯のもてなしが惨めに感じられ、彼の屈託のない優しさが上瀧の心の脆い部分を傷つけた。出された酒の五倍はする清酒を手土産だといって渡すと、とても喜んでくれた。しかし、自分は味が分からないから、いい酒はお前が飲めといってほとんどを飲ませられた。佐川は、赤川の親分からのお前の活躍を聞いている。と自分の事のように嬉しそうにいった。そして、舎弟経由で渡す月々の金について切り出すと、急に泣き出した。俺が不甲斐ないばっかりに苦労をかけてすまん。と。しかし、上瀧にとって別に苦労をして作った金ではない。何度も絞り出すように礼をいわれて狼狽えた。帰り際、財布から三十万を抜き取り、部屋に置いていった。感謝のつもりで渡していた金は、いつしか見捨てる為の免罪符になっていた。二度も母親に捨てられた自分を見捨てなかった佐川を見捨てたのだ。そんな佐川を憐れみ、見下している後ろめたさから、まともに顔を見れなかった。それから二十万ずつわたすことにしたが、佐川はその年の冬に死んだ。見つけたのは上瀧の舎弟で、死因は衰弱死だった。上瀧の送っていた金はほとんど手つかずで、通販で購入したらしいパイプベッドの下のダンボール箱にあった。それらはすべて佐川の棺に入れて荼毘にふした。地獄の沙汰も金次第ならば少しは浮かばれるのかと思ったが、それも一抹の感傷に過ぎなかった。

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