第3話
上瀧は薄笑いを浮かべていた。初恋だったからです。という言葉はもちろん飲み込んだ。
茉梨はあの後、男の手掛かりほしさに年齢を誤魔化して中洲のラウンジでアルバイトを始めた。
しかし、若さと美貌を持て囃されても、所詮はいくらでも消費されるだけの消耗品に過ぎなかった。三ヶ月勤めて思ったことは、雇われる側ではなく雇う側になれば少しはマシかも知れないが、ここにいてもあの男の中に印象を残す女にはなれないという事だった。
そこで比較的身の安全を保ちながら近づく方法を考え、思いついたのは警察官になることだった。なってしまえばどうにかなるだろうとたかを括り、ここまできたのだ。高校から始めた空手の稽古も苦しかったし、警察学校での生活も辛かった。昇進試験の受験勉強もすべてこの男に一目置かれるような女になりたいがためだった。しかし、茉梨のことも、姉のことさえ、上瀧は覚えていなかった。否、警察官である自分に過去の話とはいえ、自らの不利になるような話をするはずがない。覚えている可能性も無きにしも非ず、だ。
しかし、ここに来たのは茉梨の独断だ。上司にあたる鷹岡(たかおか)司(つかさ)にも話していない。バレたらなんと言われるか。捜査資料の中に上瀧の顔を見つけていてもたってもいられなくなり、個人用の手帳に名前や事務所の住所を書き込み、聞き込みだと偽ってこうして会いに来たのだ。今日のところはこれ以上突っ込むのは自分のためにはならない。
「なにもされていません。姉も私も逃がしてもらいました。貴方が見逃してくれたおかげで私は無事社会人になりました。まあ、姉は今、中洲のクラブでママしてますけどね」
「ようわからんけど、サツに感謝される日が来るとはな。で? わざわざ礼ば言いに来たん? こんなとこまで?」
「自己紹介のつもりだったんです。それでは本題に移りますね。松原組の狙撃事件についてご存知ですか?」
「ああ。そらもちろん。去年の暮れにあった狙撃事件な。オジキのとこの下っ端がやられたヤツか。すまんばってん、うちはご覧の通り末端も末端でな。中央の出来事にはかたしてもらえんとよ」
と大仰に肩を竦めてみせる。
「でも、上瀧さんは松原組の若頭とも兄弟の盃を交わしたと聞いてますけど。松原組長と赤川組長も兄弟の間柄だったんですよね?」
「そんなん、昔ながらの任侠映画やあるまいし、今時なんの効力もなかよ。交わしたところで俺みたいな斜陽の組の人間やら、誰がいるか。まあ、鉄砲玉くらいにしかされんやろ」
投げやりな言葉だが、その表情や声からは自嘲や諦念は微塵も感じられない。
「一度も呼び出されたりしたことはないんですね?」
「鉄砲玉にや?」
ハッと皮肉っぽく笑い飛ばし、背もたれに背中を預けた。
「いまいちアンタの狙いがわからんなァ?」
「私も貴方の本心が分かりませんからお互い様ではないでしょうか」
「サツとヤクザがわかり合うってのもおかしな話やろ。まだなんかあるとや?」
面倒くさそうに顔を顰め、煙を吸い、吐き出す。今回はここまでにしよう。茉梨はそう決め、軽く唇を噛んだ。名残惜しさからの無意識の行動だった。
「では今日はこれで」
茉梨がソファから腰を上げようとすると、上瀧は少し表情をゆるめた。
「サツとはいえ、よう女一人でこんなとこ来たな。外、暑かったろ? 茶でも飲まんね」
ドプッドプッと鈍い音を立てながらグラスに緑茶が注がれる。どこにでも売っている市販のものだ。茉梨はグラスの中で揺れる緑色の液体を眺めていたが、グラスを持った大きな手が差し出され、そのまま受け取り、グラスに口をつけた。冷たくてまろやかな苦味の液体が喉を滑る。
「警戒心どこに落としてきた? なんか混入(はい)っとたらどーすっとや」
「私を殺すつもりですか?」
「眠剤いれられて犯されでもしたらどうするん?」
「他の人は嫌ですけど、あなたになら犯されてもいいです。あ、これ自白剤入ってます?」
「頭おかしいっちゃないとや? なんも入っとらん」
上瀧が顔を引き攣らせた。今日で一番感情のある表情だ。茉梨はそれだけで嬉しくなった。ふふっと笑い、グラスを置いた。
「ごちそうさまでした。また来ます」
「来たってなんも得せんばい」
「上瀧さんとお話ができます。それでは、また」
今度こそ茉梨は腰を上げ、上瀧は引き止めなかった。颯爽と事務所を出ていく。茉梨が去った後、上瀧は煙草をグラスに放り投げ、自分も腰を上げた。
上瀧に再会した今、十年はあっという間だった気がする。捜査二課の暴力団係だったら、もっとよかったのにと口惜しく思ったが、連携捜査となったので、風向きは自分のほうにある。
にやけてしまうのが抑えられない。これから、もっともらしい理由をつけて上瀧に張り付くつもりだ。公私混同。職権乱用。そうだ。その通り。このために警察官になったのだ、と充足にうち震える心の声に頷いた。本当はもっと話して距離を縮めたかった。なんなら、眠剤はわからないうちに終わるのが嫌なので、存在するなら媚薬でも盛られて抱かれたってよかった。前後不覚になってしまうシャブも駄目だ。茉梨は知らずと頭を左右に振った。ちょうど携帯電話の着信が鳴る。ディスプレイには鷹岡の名が。茉梨は巡査長で鷹岡は警部補だ。同期で同い年なのに階級はあちらが上なのだ。しかし鷹岡は口は悪いが、性根は腐りきっていない。茉梨に対してなんやかんや親切であり、部下というより同志というか相棒というか、組織の誰より同等に向き合おうとする珍しい男だ。
「もしもし高橋です」
「おう、おつかれ。お前どこにおるん?」
「東比恵です」
「何しようと?」
「気になる人物がいたものでご挨拶に」
嘘じゃない。個人的にラブ的な意味だけど、嘘じゃない。と茉梨は胸の中で呟いた。
「誰や」
「赤川組の上瀧さんです」
言いながら顔が熱くなるのを感じた。間接的に秘めた恋心を打ち明けてしまったのだ。気恥しい。
「ハーァ? 馬鹿、お前おらんと思ったらなんしようと? なん勝手に動きようとや!?」
「すみません。ちょっと気になって……」
「気になるってなんや?」
「電話ではちょっと」
「……ん。お前昼メシは?」
「まだです」
「博多駅着いたら電話してこい」
ブツッと一方的に通話が切れた。よし。とりあえず、博多駅に着くまでにそれっぽいことをでっち上げよう。茉梨は小さな決心をして地下鉄に向かった。
※※※
駅の改札で鷹岡に電話をし、博多口か筑紫口かどちらに向かえばいいのか訊くと、筑紫口のビジネスホテルの下のコーヒーショップにいるとのことで、博多口にいた茉梨は思わず心の中で舌打ちをした。駆け足で人混みを縫い筑紫口のコーヒーショップへ急いだ。
「私、博多口から出たっちゃけど? アンタとは気ぃ合わんね!?」
パラソルのあるテラス席で優雅に(少なくとも茉梨にはそう見えた)アイスコーヒーを飲みながらスマホを操作している鷹岡に向かって言い放つ。
「いい運動になったろうもん。飯奢っちゃあけんガタガタ言うな」
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