第2話

 私は、冷笑の似合う、男の薄い唇に釘付けだった。形が良くてなめらかな薄紅色をしていて、そこだけ涼やかな品があった。鋭利な猛禽類のような眼光や、太い首や肩や腕や胸板や太腿、毒々しい色彩の鳳凰が別人のもののようだった。雅な和歌でも諳んじてしまいそうな唇は神様の手違いだと思うほど、そこだけ、違う風情をたたえていた。

「おい」

 悪魔みたいに威圧的な低い声で我に返る。

「姉ちゃん、連れて帰らんとや?」

「いいんですか?」

「あげな面倒臭い女いらん。連れて帰れ」

「あ、ありがとうございます」

 男は鼻で笑うと、部屋を出ていった。私は咄嗟にその後を追い、錆びついた鉄階段の前で、彼の手を握ってひきとめることに成功した。

「なんや。階段踏み外したらどうすっとや」

「これで終わりですか? もうお姉ちゃんは自由なんですか? 私はなにもされないですか?」

「他の奴は知らんけど、俺ぁな、カタギの、しかもお嬢ちゃんみたいな年端もいかん女をどうこうする趣味はなかと。姉ちゃんは自分からこっち側に堕ちてきたけん、あげな目に遭(お)うとうと。俺みたいな男につけ込まれて喰いモノにされんごと、お嬢ちゃんは真っ当に生きてきぃね? もう行ってよか? 風呂入っとらんけん、ちんぽが痒うなってきた。」

 その品のない言葉にたじろぐと、男は微かにハッと笑って階段を降りていった。

 男が階段を降りると、黒塗りの車がゆっくり滑り込んできて、助手席からスキンヘッドのセットアップのジャージを着たごつい男が降りてきて、後部座席のドアを開ける。一言二言言葉を交わして、男は車に乗り、車は発進していってしまった。



 高橋(たかはし)茉梨(まつり)は、博多駅から地下鉄に乗り、東(ひがし)比恵(ひえ)で降りて、炎天下の中を十五分程歩き、雑居ビルの三階にある事務所に向かった。

 薄暗く湿っぽい階段を上り事務所の呼び鈴を鳴らすと、若い男が出てきて、怪訝そうに茉梨に要件を聞いた。警察手帳を出すと、微かに動揺しつつ、他の構成員に許可をとり、奥にある応接室に通してくれた。

 ここは暴力団の最大手山代組系列の中の末端も末端の、赤川組。組長の赤川(あかがわ)誉士喜(よしき)は去年、最終的に転移した膵臓癌のため、七十二歳で亡くなった。

 戦後生まれで、高度経済成長期に一晩で十億を稼いだこともある博徒として名を馳せていた。しかし、二度目の結婚を機に一度一線を退き、不動産屋を始めたがバブル崩壊と共に落ちぶれ、再びこの世界に戻った時は、自分の弟分の下で全国のテキ屋回りから始めた。そしてそれから五年ほどで、体裁を整える為の小さな組を立ち上げた。弟分からではなく、かつての兄貴分からの情けで代紋を掲げることができたという。しかし出戻りの、時代遅れで昔気質の赤川が取仕切る組は、他の組からあからさまにはないにしろ、軽んじられていた。そんな赤川誉士喜が特に可愛がっていたのが、目の前にいる男、赤川組現組長の上瀧(こうたき)諒平(りょうへい)だ。茉梨には上瀧の詳しい生い立ちはわからない。ただ、彼によってうだつの上がらなかった赤川組が、小さいながら一目置かれる組織になったことは知っている。

「少しご協力いただけないでしょうか」

 茉梨は自分のために応接室のドアを開けた男に向かって、警察手帳を向けた。福岡県警察本部、組織犯罪対策課。それが茉梨の所属する部署だ。捜査二課暴力団係と違い、暴力団だけではなく主に近年増え続ける詐欺グループなどの組織犯罪摘発に関わっている。年末に東区の病院に入院していた構成員が射殺された事件を発端に、山代組系列の中で小さな内紛が起こっており、新手の詐欺グループとの関与も含め二つの課が連携して動いているのだ。

「なんや。ネエちゃん、おまわりか。どうしたん?」

 十年経ったがあまり変わっていない。渋味が増した気はする。茉梨はうっかり見蕩れて「ん?」と怪訝な顔をした上瀧に促され、ハッとして室内に入った。

「……そうですね。まず、十年前に失踪したホストについて知りたいんですが」

 茉梨の切り出した話が突拍子もなかったのか、男はさらに眉間に皺を寄せる。

「十年前に失踪したホスト? そんなん腐るほどおるやろ。アイツらよう消えよろうが」

「じゃあ、十年前に拉致られた女子大生とその妹の女子高生は?」

「いや、わからん」

 上瀧は首を傾げる。ノックの後、さっきの若い男がペットボトルに入った緑茶とグラスが載ったトレイを持って入ってきた。

「俺よりおたくの方が詳しいっちゃないと?」

 そうか。茉梨は落胆した。彼の記憶に拉致した女子大生など存在しない。迎えに来た女子高生の妹もあまりにも些末な出来事だったのだ。

「ご存知ない。そう仰るわけですか」

「知っとったら、協力のひとつもできたっちゃろうけどねえ」

 上瀧は焦茶色の革張りのソファに足を広げて座り、懐から煙草を出すと、――若い男がテーブルにトレイを置き、すかさず火をつけた――。紫煙を深く吸い込んだ。上瀧が顎をしゃくると、若い男は慌てて部屋を出ていった。

「わからんもんはわからん」

 といいながら煙を吐き出す。

「まあ、座らんね」

 茉梨は向かいに腰を下ろした。

「それは私が女だからですか?」

「ハァ?」

 傷跡のせいで、半分辺りで切れた右の眉が、上がったように見えた。右側の表情が微妙に動きが鈍いのは、眉上から頬骨のあたりまで走る傷跡のせいだろうか。鋭い目つきは変わらないけれど、右目は少し瞼が重そうだ。

「私が女だから、そうやってとぼけてみせるんですか?」

 彼は鼻で笑うと、煙草を指で挟み、膝に手を置いて、前かがみになり、茉梨を睨みあげた。

「アンタが男やったら、こげん優しく話しとらんぞ」

 苛立った低い声にゾクリとした。あの頃の怯えとは違う。丹田の辺りのずっと奥がきゅっと弾んだ。

「あら。歓迎してくださってるんですか? 前は目のところ、そんな傷なかったですよね?」

 と、指で自らの右眉の上を軽く切る仕草をして見せた。

「前にどっかで会(お)うたやろうか? アンタみたいなよか女、1度見りゃ忘れるはずなかっちゃけど?」

 よくもまあぬけぬけと。あの教えのように薄っぺらい言葉。茉梨はお世辞とわかっていながら、こみ上げてくる喜びを噛み殺すために、胸の中で悪態をついた。

「失踪したホストに拉致されたのは私の姉です。私は当時高校生で、広島に姉を迎えに行きました。その時一緒にいたのはホストではなく、あなただったんです」

「へえ。そうなん? で、それがどうしたと?」

 表情が変わることはない。煙草を口に運び、ゆっくり煙を吐く。あの美しい唇の中の黒い空洞に煙がくゆる。ゆらゆら揺れる煙を目で追っていると眩暈のような浮遊感をおぼえた。

「あなたに、もう一度会いたいと思っていました」

 クラッと脳が揺れたような感覚のはずみに視線を逸らした。

「なんで? 仇討ち? なんかした覚えないけど」

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