第32話 終章『現実・少女・後悔』

  だけど 君の苦痛はすべて奪ってくれる

  頭に撃ち込まれた弾丸みたいに

      ――リッキー・マーティン 

     〈 リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ 〉


   +++


 待ち合わせて二人で学校へ行く途中、石島華に言われた。


「あのさ……」

「何だ?」

「今日さ、私の家に来てくれない?」

「お父さん、お母さん……弘之は今日大人になります……」

「な、何を言っているのよ!」


 真っ赤になって否定する華はかなり可愛らしいと思う。惚気だろうか?

 二人で登下校するようになったけど、まだちょっと気恥ずかしい。

 恥ずかしがるならあんな告白するなって怒られそうな気がするけど、まぁそれはそれ。これはこれである。


 晩秋の朝は寒いが、心だけは温かい。

 あれだけの紅葉も陰も形もなくなっている。

 でも、俺達の日常は――この関係が変わったくらいで続いている。

 今日も、明日も……ずっと、と願っている。


「で、何かあるのか? 別にお前の誕生日でも俺の誕生日でもないけど」

「全く。これだから男ってやつは……誕生日以外何も思いつかないの?」

「あ、分かった。カバディの日か!」

「実はね。私には妹がいるんだけどね」

「大無視! ああ。知っているよ。千寿々ちゃんだっけ。何回か会ったことあるよ」


 確か去年の文化祭の時、放送部に顔を出したのが初対面だったはずだ。

 大人しそうな子だった。

 人見知りが激しく、華に隠れて挨拶をするカワイイ子だった。


「そうそう。千寿々と、あと沙良」

「……沙良? あれ? そんな子いたっけ」


 脳みそに引っかかるものがあったが、すぐに消え去る。


「千寿々は覚えているのに何で沙良は覚えてないのよ。千寿々と一緒に会ったことあるでしょ。ほら、去年の文化祭とか」

「いや、おまえの妹って一人だけだと思っていたんだが」

「酷いわねぇ。千寿々と沙良は双子よ。

 ……もうすぐ、母さんに引き取られるの」

「……ああ。それで、妹さんがどうしたんだ」

「あんたに会いたいって」


 それは不思議なお願いだった。

 さして面識もない自分に何の用なのだろう?


「俺に? 何で?」

「さぁ。知らない。で、来るの? 来ないの?」

「構わんが。暇だし。そもそも遠慮するような仲じゃないだろうに」

「う、うん。じゃ、じゃあ、お願いね」


 少し照れながら言う華はかなり可愛いと思うがどうだろうか? 惚気だね、うん。


「いやぁ、このテレ屋さん」

「……うっさい、あんたがあんな告白するから、私はからかわれて大変なのよ!」

「まぁまぁ、それなら俺を振れば良かったじゃん」


 俺はそんなことはないだろうと思っていたので、軽口を叩く。


「……そんなの……ウソとか……後悔するし……」


 ボソッとどこか遠くを見ながら呟く華は最高だと思うがどうだろうか? 惚気だよ、悪いか。


「いやぁ、カワイイこと言うじゃないですかい。明日は雪かな?」

「うるさい、三太夫」

「千の鈴で、千鈴ちゃんかぁ。綺麗な音色が似合いそうだ」

「いや、寿の字よ、うちの妹の字は」

「え? あれ? 俺、今、何て言った?」

「ボケたの? 全く、これだからアンタは」

「そこが良いんだろ?」

「うるさい、黙れ」


 そんなやり取りのせいで大切なことを一つ聞き忘れていた。


 石島邸は玄関口から段ボール箱が積み上げられていた。結構な量だ。


「いつ引っ越しだっけ?」

「母さんは今週末って言っていた」


 それは華の引越しの準備ではなく、彼女の母親と妹の引越しの準備だった。

 特に慰めも励ましも思いつかなかったので、「そうか」とだけ呟いた。

 鍵が掛かっていたので誰もいないことは分かっていたけど、静かでダンボールの積み上げられている家は――静かというより寒々としていた。


「えっと、妹さんは?」

「まだ、みたいね。多分、そんなに遅くないとは思うけど。少し……遠いところに通っているから」


 徒歩二十分の高校よりはよっぽど時間が掛かるということか。

 仕方ないのでリビングで待たせてもらうことにした。

 リビングは古ぼけた感じの意匠の洋室で年代物のソファーやテーブルが据えられている。

 そして、本が大量にあった。

 天井まである本棚。壁を覆いつくす本、本、本の山。


「本、好きなんだな」


 おそらく、数千冊から一万近い量の蔵書。正直、少し圧倒される。


「父さんの趣味。あと、千寿々も本が好きでね。毎日、私達にせがんで、まだ自分じゃ読めないような難しい本も読んでいるの」


 そこで華は少し皮肉げな笑みを浮かべる。


「もう少しでそれも過去形になるのか」

「…………」


 気の利いた言葉なんて思いつかなかった。

 そんなことはないさ、と適当な励ましの言葉を掛けながら、本の一冊を手にする。

 それは絵本だった。

 タイトルは『熊の茶会』。

 パラパラと捲って確認した大まかな内容は、どうやら熊が茶会を開きそこで出会った人々との教訓めいた会話を主眼においたお話のようだった。

 次に手に取ったのは、沙漠を背景に手を繋いだ少年と少女が表紙の絵本だった。


 ――何かが、気になった。華にその一冊を差し出して見せた。


「これって?」

「うん。千寿々のお気に入りの一冊ね。忘れないように荷物に入れないとね」


 その何かが何なのか、俺にはよく分からない。

 ただ、千寿々ちゃんがこれらの本を幾度となく大事に読み返しているのは理解できた。

 本を開いた跡ははっきりとあるが、手垢などの汚れがほとんどついていない。

 日に焼けた跡もない。

 宝物のように大切にしているのがよく分かる。


「沙良ちゃんも本好きなのか」

「沙良もよく読むけど、何て言うんだろ。あの子は千寿々が読むから一緒に読んでいるって感じなの。別に本が好きってわけじゃないようにも見えるし……あの子はちょっと変わっているから」

「ふーん……」


 俺は頷いた。

 何が気になっているか自分でも分からないが、気分がざわついていた。

 その時、玄関の開く音が聞こえた。

 続けてパタパタという軽い足音とキャッキャッという楽しそうな笑い声が近付いてくる。幼い子供の声だ。


「帰ってきたみたいね」

「元気良いな」

「あの子達、本当に仲が良いからね」


 リビングのドアが開くと同時に小さな女の子が二人飛び出してきた。


「……あ」


 そして、片方がその場で固まり、もう一方は大きく手を振りながら、


「たっだいまぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 俺に向かって突進してきた。飛びつかれる。


「うわ」


 思わず抱き留める。

 幼稚園児の体重だからそれは容易だった。


「えへへへへ」

 

その子は甘えるように俺の胸で頬擦りしながら笑う。うわ、可愛い。ロリじゃないよ?


「こら、沙良。お客さんに失礼でしょ」


 華がたしなめるが、沙良はよいしょとか言いながら膝の上に座る。


「ほらほら、ちすずもはやくぅ!」


 ポンポンと逆の膝を叩いてこっちに来いとばかりに千寿々を呼ぶ。


「こらっ。お行儀の悪いっ」

「別に構わんが」


 沙良の頭を撫でてやると目を猫のように細めて笑う。

 逆に、もう一方の少女はドアのところで立ち竦んだままだった。


「おかえり」

「おかえりなさい」


 と、俺達が声を掛けてやるとおずおずという感じで近寄る。

 それでも、姉を盾にしてそれ以上俺には近づこうとしない。

 俺、何か嫌われるようなことしたっけ?


「……ただいま」


 外見は瓜二つだが、どうやら中身は大分違うらしい。

 明るい方が沙良ちゃんで、大人しい方が千寿々ちゃんか。華を幼くしたらこんな感じだろうなって気がする。


「そういえば、君はどうして俺を呼んだんだ?」


 膝の上の少女――沙良に話しかけた。


「? なんのことぉ?」


 すると沙良は不思議そうに小首を傾げた。あれ? 違うのか?


「え、君が俺を呼んだんじゃないのか?」

「違うのよ。沙良じゃなくて、呼んだのはこの子の方よ」


 華が大人しい方の妹をグイッと前面へ押し出す。

 そう言えば、朝、どちらが俺を呼んだかを聞き忘れていたことを思い出す。

 千寿々はオロオロしながらも、はっきりと顔を上げて俺の目を見た。


「はい……」


 こちらの少女とは思っていなかった俺は違和感を覚える。

 何故、千寿々と思わなかったのか?

 何故、沙良に呼ばれていると確信、そう確信していたのか?

 ……分からなかった。


「君は何で俺と会いたかったの?」

「それは……」


 千寿々が沙良や華をチラチラと気にしているのを見て、俺は言った。


「悪いが、席を外してくれるか」

「はいはーい」

「エー、ないしょばなしぃ。ぶーぶー」


 二人で揃って出ていこうとするその直前、沙良は振り返って微笑んだ。

 それまでの底抜けに明るい笑い方ではなく、どことなく大人びた笑みだった。


!」


 それだけを言って華の後を追って退室した。

 俺は毒気を抜かれる心地で見送った。

 確かに――変わった子みたいだが、何だか愉快な気分だった。


「苛めないって……って、外してもらったけど、えっと」


 千寿々はいきなりボロボロと泣いていた。

 ど、どうしよう。


「えっと……どうして泣いているの、かな? あれ? 俺、いきなり約束破っちゃったかな、とか。あれあれ? わはは……って笑いましょうや」


 と、そんな間抜けたことしか言えない。

 こんな幼い子を慰めるなんて、どうすれば良いのか?

 千寿々はなおもボロボロと、ボロボロと涙を流している。

 顔はくしゃくしゃなのに、声は出すまいと泣き声を押し殺しているのが痛々しい。


「えっと、何か俺悪いことしたかな?」


 千寿々はブンブンと音を立てそうな勢いで首を横に振る。


「……んーと、じゃあ、もしかして、千寿々ちゃんが何かしたの?」


 千寿々はブンブンと音を立てそうな勢いで首を縦に振る。

 俺はふむと唸って考える。

 泣いても失敗は取り返せないよ、という慰めは無意味だろう。

 そんな一般論を教えて泣き止むとは思えない。そんな失敗はたいしたことじゃないんだよという励ましも意味は無い。

 俺が千寿々の失敗に関する知識を持っていないからだ。

 子供だって莫迦じゃない。そのくらいは見破る。


「千寿々ちゃんがした悪いことってもしかして、俺に関すること?」


 ウンと辛うじて聞き取れるくらいの声で肯定して、一層泣きじゃくる。


「あたしが……ひどい……ゆめが……わるくて……こわいめに……です」


 嗚咽と一緒に何かを言っているが全く聞き取れない。

 俺はハハッと軽く笑い飛ばしてみせる。


「別に泣くことはないよ。俺は泣いて欲しくない。よく分からないけどね、うん。大丈夫だからさ」


 すると、すぐにグスグスと鼻をすすりながらも、千寿々は静かになった。


「良い子だ」


 子供扱いはあまり良くないかな、と撫でた後に思った。

 でも、泣き止んだからそんなに間違いではないだろう。うん。よく分からない。どうすれば良いのだろう?


「俺に会いたかったのは謝りたかったから?」

「うん……」

「謝られても何のことか全く分かんないんだよ。ごめんね。謝られる者の責任として俺はどうやって君を許せばいいのかな」


 千寿々は何を言われているのか分からないのだろう。首を捻っている。

 それはそうだろう。何せ自分でもこんなことを言われたら困るに違いない。


「ゆるしかたがわからなかったら、あやまっちゃだめですか?」


 利発だな、と俺は感心した。かなり賢い。可愛らしいし賢いし将来が楽しみだ。


「謝るってことはとても大切だからね。悪くはないよ。そうだね。でも、泣くのはあんまり良くないかな」

「うん……」


 ふと、どこかで誰かに言った言葉を思い出した。

 絶対に後悔するぞ、とかそんな言葉だった気がする。

 実際、後悔している少女を目にして、何だか心が痛くて仕方がなかった。


 俺は「あっはっはっはっは!」と高笑いをした。


「後悔しているのなら、俺はこう言おう。

 償い方は無数にあるとか、

 許して欲しかったら精一杯生きるしかないとか、

 生きていれば迷惑を掛けるのは当然だとか、

 目的のために手段を選ぶのは弱者の証明だとか。

 ……何が言いたいか分かるかな」

「えっと、わかんない、です……」

「後悔を言い訳する言葉は無数にあるけど、そんなもので本当に人は癒されるのかなぁっていうね」

「ええっと……?」


 千寿々は泣き顔からキョトンとした顔へと。

 俺もそりゃそうだと思う。

 正直、俺だって何を言っているのかよく分からない。


 この少女が何故罪悪感に苛まれていたかは分からないが。

 その願いは純粋で、きっと大切にされるべきものだから。

 ふと、この子はきっと誰かに守られているんじゃないかな、という想像に駆られた。

 そう、沙良ちゃんだって護る為にいると――あれ? うん、まぁ、良いや。

 でも、それでも――。


「分かんなくても良いよ。俺はね、千寿々ちゃんに幸せになって欲しいだけだし。君の将来にどんな艱難辛苦が待っていようとも、誰かが君を見守ってくれているんじゃないかな、とかさ。うわ! 自分で言っていて無責任さにビックリだよ! でもさ、きっと最強の力を持った人でもさ、罪悪感には勝てなかったりするんだろうしさ。どんな人だって悩んでいると思うしさ。あー、んー、だからさ。えっと、」


 何を言っているか自分でもよく分からなくなってきた。

 何だか、言っているというより言わされているって気分になってきた。

 一体、誰にだよ?

 自分の頭の悪さを実感しながら精一杯の笑顔で言う。


「負けないでさ。笑って笑って」

「……はい」

「君は俺の好きな子の妹なんだからね!」

「……あ……はい!」


 千寿々は笑った。健気な。どこか強がっているように。

 伝えたいことの百分の一も言えない。

 言いたいことが言えないのなら――。


「辛気くさい話は終わりだぁぁぁぁぁぁあぁぁああぁああああ!」


 俺は叫んで千寿々を両手で抱き上げる。


「キャァ」

「くらえ! 三太夫スピンタイフーンハリケーン!」

「え? え? え? キャ」


 全力で千寿々をぐるぐると時計回りに回転させる。かなり疲れる大技だ。

 最初は困惑しているようだったが、直にキャアキャア言いながら笑い出した。

 俺は自分の思惑が十分の一くらいは達成できた気がして少し満足する。


 罪悪感に苛まれている人に必要なのは言葉なんかじゃないと思う。

 今、この子に必要なのは、愛してくれる人がいるというその事実だけなのだから。

 人が人と触れ合う際に生じる――愛。

 それに勝るものはないのだから。


「ふっふっふ。楽しんでくれたかな」


 息を切らしながら俺は言う。

 わざと情けなくゼーハーゼーハーと呼吸を整えながら。

 俺の腕の中でおずおずと千寿々は頷いた。


「うん……」


 そして、にっこりと笑う千寿々はやはり愛らしかった。


「……ありがとう。ヒロユキさん」

「どういたしまして」


 俺もにっこりと笑い返すと、千寿々は照れたように頬を染めた。

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