第30話 蛍の舞う頃に その一

 ――過去、大切。記憶、死、抵抗。思考……愛 『樹老(庭師)』


   +++


 弘之は神社の境内に腰掛けていた。浴衣に下駄姿だ。手には団扇がある。

 よく考えるとこの世界の中で学生服以外を着るのは初めてだった。


 湿度の高い蒸した空気の中――ただ待っている。

 暑いが、うきうきしてくる暑さだ。

 空を見上げるとそこには宵の空。

 本当に微かな星明かりと満月――月明かり。

 それらのささやかな光は地上の光の力でほとんど掻き消えている。


 今日は夏祭りだった。


 神社に続く道には屋台が所狭しと林立している。

 焼きそばや綿菓子、金魚すくいに射的……。

 弘之はそこに群がる人々の姿をボーっと眺める。

 腕を組んで笑いあう恋人同士。

 子供を肩車し、屋台に並ぶ親子連れ。

 肩を組み、徒党を組み、酒瓶を片手に友情を誓い合う男共。

 ガヤガヤとした喧騒が――どこか遠い。


 弘之は待つ。

 ただ――彼女を待つ。


 そして、人混みが自然と二つに分かれた。

 その間をモーゼのように通り、一人の少女が現れる。雪駄に朝顔模様の浴衣がよく似合っている。顔には木彫りの狐のお面。馬手には水風船で弓手には綿あめの重装備だった。

 楽しそうな足取りで弘之まで一直線に近付く。


「よぉ」


 その待ち人に手を上げて挨拶すると、お面を側頭部へずらしながら彼女は言った。


「ご機嫌はいかが、ヒロユキ」


 沙良は弘之に微笑みかける。

 年の頃はもう弘之と変わらないくらい成長し、その姿は――。


「祭りを楽しんでいるようだな」


 沙良は弘之の隣に腰掛けて、パクパクと綿あめを食べる。


「うん。食べる?」

「いや、良いや」

「ヒロユキはあんまり楽しそうじゃないみたいね」

「そんなことねぇよ。俺は好きなんだよ、祭りがな」

「そう。なら、もっと笑いなさいよ」


 気になることが解消したら、な。

 弘之は沙良の軽口を無視して踏み込んだ質問をする。


「でだ、?」


 弘之はあえて違う少女の名前を口にした。

 石島華――同じ放送部に所属している、弘之がほのかな想いを抱いている少女の名前を。

 成長した沙良は石島華とよく似ていた。本当に。

 沙良は片方の眉を面白そうに上げて、とぼけるように言った。


「アタシの名前は沙良よ。貴方がくれた名前が全て。で、華って誰のことかしら? 女の子の前で他の女の子の話はあまり趣味が良くないんじゃない?」

「……まぁ、それならそれで構わんが、結局ここは何だったんだ」

「どこから話すべきなんでしょうね……むむむ」


 沙良は唸った。

 綿あめをパクパクと食べながら考える様子はあんまり真剣味が感じられない。

 沙良らしいと言えば、そうなんだけど。

 弘之は自分から質問する。


「……これは夢なのか?」

「ええ、夢よ。覚めたら記憶にも残らない夢」

「あー、夢か。こんな夢を見るのは初めてだよ。リアルだな。痛かった気がするし」

「ちなみに一歩間違えば死んでいたから。絶妙でしょ。こう世界の区切り方とか」


 どういう意味だ?


「……えっと、どういうことだ?」


 綿あめを食べ終わった沙良は立ち上がった。動いた時に生じる風は生暖かい。とても夢とは思えない。何という現実感だろう。

 沙良の手から綿あめの棒が手品のように消え、その流れで指を鳴らすと空に大輪の花が咲いた。何発も、何発も。

 道行く人々が立ち止まり、空を見上げる。歓声をあげているようだが、ここまで届かない。それが不自然と言えば不自然だったが、別に気にならなかった。


 弘之も倣った。

 腕を後ろについて空を見上げる。

 菊先、牡丹、青蜂、やし……どれもが美しい。


「かーぎやーってか」

「そっちを選ぶ辺りがヒロユキっぽいよね」


 それが褒められているかどうか分からないが、何となく心地よい。

 この距離感にすっかり慣れている自分がいた。


「何か食べない?」

「んー、焼きそばでも食べるか」

「じゃあ、はい」


 沙良の手にはいつの間にか二つの焼きそばが出現し、箸と共に弘之の分を渡してくれた。

 弘之は礼を言い、遠慮なくいただくことにする。焦げたソースが普段以上に味覚を刺激した。何で屋台の焼きそばはこんなに美味いのだろうか。


「美味しいな」

「美味しいでしょ」


 黙々と二人で食べる。

 鼻腔を通り抜ける焼きそばと夏の匂い。花火の合間に聞こえる虫の鳴き声。隣に座る少女の体温。息遣い。


「……これ、夢なんだよな」

「ええ、夢よ。ただ現実を癒す類の夢でないのは確かね」

「……夢って、未来への展望とかそういう意味の夢じゃないよな。いや、あまりにも夢でしかないのに、夢とは思えないくらいリアルで」

「リアルでしょうねぇ。それがアタシだから」

「どういう意味だ?」

「アタシの名前は沙良よ。それはヒロユキが決めてくれたものだから、それ以外の名前はない。アタシはこの世界の主。管理人。この世界にはまだ名前はない。それが生まれたのはほんの数分前で、ヒロユキは初めての相手よ。キャ。初めてって甘美な響きよね」

「無理やりな連想はせんでよろしい」


 適当に受け流して考える。

 痛み、それ以上に再現性の難しい味覚や嗅覚がある夢? 

 成長する華の姿。

 あれは能力の成長ということか? 

 よく分からない。

 彼女の目的、か。

 食べ終わった焼きそばの容器と箸はいつの間にか無くなっていた。

 こういう不自然なことがなければ――いや、不自然なことを不自然と思わなくなるのだからあまり意味のある思考ではないかもしれない――弘之は現実との違いが分からなかった。


「アタシの能力は『別の世界を構築することと現実を侵食すること』よ」


 弘之はしばらく聞くことに専念することにする。

 考えて答えに到達するとは思えない。


「その世界は現実とは全く違ったルールや法則に則っている。本当はもっと突飛な世界も作れたんだけどね」

「例えば?」

「んー、悪食の鬼のいるベジタリアンな世界や野球で階級社会を構成しているピーターラビットのいる世界や光で反射するものが日毎にランダムで変わる世界とか……まぁ、言い出したらキリがないわ」

「……ピーターラビットはちょっと会ってみたいな」

「ふふふ。ヒロユキは熊の紳士さんとも楽しそうだったしね。ああいうのが好みのロマンチストだから、こういうのも好きだったのでしょうね」

「こういうの?」

「この世界はヒロユキの好みが反映されている。夏祭り。恋人と二人で花火を見上げる……ロマンチストというよりも少女趣味ね。しかも時代遅れの」

「うっせぇ」


 弘之は照れ混じりに毒づく。が、そういう仕草は余計相手を喜ばすだけだと余計に恥ずかしくなる。


「ほら、蛍よ」


 ああ、好きだけどさ、と弘之は言う。

 いつの間にか周囲から人は消えていた。

 店の明かりも落ちている――祭りの終焉だった。

 代わりに蛍が舞う。満月がいつの間にか沈み、空には星明り。地上には蛍の光。


 幻想的な光景であった。

 こんな夢なら――悪くはない。


「夢よ。でも、ただの夢じゃないってだけ。……ある意味でこれは実験だったの」

「他人に見させられる夢は、きっと希望通りの楽しい夢だって悪夢なんだろうな」

「あら? 人を悪夢呼ばわりは酷いよね」

「まぁ、そうかもしれんがな。あんまり良い夢でもなかった気がするが」

「何? もっとハーレムでモテモテな世界のほうが良かったの」

「あー、どうなんかなぁ。その場合って今までのパターン的に、三角関係かなんかで刺されて終わりそうな気がするが」

「…………」

「目を逸らすなよ! つか、否定しろよ! モラトリアム万歳!」


 結局、これは何なんだろうか?

 沙良の夢とは?

 何故弘之はこういう目にあったのか?


「そういや、何で毎回殺されていたんだっていう疑問もあったな」

「そんなことが知りたいの?」

「まぁ、どうでも良いことかもな」

「クールね」

「目が覚めたら憶えてないんだろ」


 沙良は最初幼稚園児くらいの年齢だった。

 それが成長していった理由は?

 あれらの世界群で沙良は何が言いたかったのか?


「……分からんことばかりだなぁ」


 ぼやくと、沙良は狐の仮面で顔を隠し――少しだけ真剣そうな声音で言った。


「ヒロユキは初恋っていつ?」

「……さぁな。いつだろう?」


 考えてみると、何でこんな話を夢とはいえ好きな女子の前でしなければならないのか。罰ゲームか? 喜ぶべきなのか?


「多分、幼稚園のときの先生かな?」


 適当に言った。多分、好きだったような気がする。求婚した記憶があるからだ。

 沙良は言った。それはあっさりとしたものだった。


「アタシは……『アタシの本体』はあなたが初恋の人……」

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