第29話 鈴と少女と恐竜と その三

  ・七日目


 とうとう沙良と知り合って一週間が経過した。

 その間、一度も彼女の待ち人は現れなかった。


 それどころか、他の人間は誰一人としてこの部屋に訪れることがなかった。

 別にそれが不快なのではなく、不可解なだけである。

 むしろ、この特別な時間を崩されなくて助かる。


「ねぇ、待つのって苦痛じゃない?」

「いいえ」

「……何でも始まる前が一番楽しいしな。意外と今の状況を楽しんでいたりするの」

「……そうですね」

「やっぱり待っている奴のことを考えるのが一番かな」

「……そうかもしれません」

「やっぱり寂しかったりする?」

「……いいえ」

「またまたぁ。別に強がらなくても良いのに」

「……? いいえ」

「からかった立場でなんだけど、少しは強がろうよ!」

「……もうっ」

「可愛いけど、たぶん違うぅぅぅっ!」


 と、ヒロユキは絶叫でツッコミを入れておく。


「……ですが、予感はあります」

「何の?」

「……きっと今日になるはずです」

「…………」


 ヒロユキは少しだけ悩んで結論に達した。

 要は今日待ち人が現れるのだろう。


「良かったじゃない。やっぱり嬉しい?」


 ヒロユキは自身の声も嬉しく聞こえるように努力した。

 沙良は待ち人を待つためにここで鈴を鳴らしている。それが今日で終わりか、と思うと個人的には寂しかった。


「……そうなのかもしれませんが、ですが、むしろ――」


 沙良は黙る。そんな思わせぶりなところで黙られても、気になるだけなのだが。


「ええっと、むしろ何?」


 その瞬間だった。鈴の音に混じってどこかから異音が聞こえる。

 ヒロユキは考える。これは悲鳴だろうか? いや、そこは重要ではない。

 悲鳴だとしたら、悲鳴を上げなければならない理由の方が重要だからだ。


「さ、沙良。何か、やばくないか?」


 沙良はヒロユキの言葉に応えることなく、無言のまま鈴を鳴らし続けている。

 鈴の音の先――入り口の方からその音と振動が大きくなっている。

 つまり、近付いてきている。

 ズシンと重い、腹に響く低い音だ。

 それは一定の間隔で聞こえる。

 まるで――、


「足音?」


 ハッとさせられた。

 そう、これは何かの足音だった。

 これだけの音だったら相当の重量が考えられる。巨大ロボットでも博物館に隠されていたのだろか?

 そんな阿呆な。

 沙良は動じているようには見えなかった。一言ポツリと、


「……哀しいですね」


 それがさっきの続きだとヒロユキが悟るよりも早く、その足音の主は現れた。


 咆哮。


 ヒロユキは自分が恐怖で膝から崩れ落ちる。

 沙良はぺこりと頭を下げて挨拶した。


「……こんにちは」


 現れたのはだった。

 ティラノサウルスの化石だ。

 そう、化石が生きているように動いていた。体を動かすための筋肉も、生きるための内臓も、血液を循環させるための心臓と血管も、命令伝達のための神経も、命令を与えるための脳も――何も、何もないのに!

 動いている!


「ば、莫迦なっ」


 ヒロユキの声に呼応するように肉食竜は吼えた。

 沙良は相変わらず平然とした様子で鈴を鳴らしている。

 少なくともヒロユキの軽く五倍はある巨体がのしのしと迫る。刃のような牙が唾液で光っているような気がしたが、気のせいに違いない。唾液腺なんかあるわけがない。

 呼吸音が耳元で聞こえている気がしたが、それだって気のせいだ。肺がないのだから……とまで考えたところで矛盾発生。

 先ほどからの咆哮は何なんだ?

 断頭台を前にした受刑者の気分だ。何で断罪されるか分からない。

(これも運命です……)と、頭のどこかで呟き、他のどこかが叱咤する。

 ふざけるな!


「う、う、う、ぁ……」


 逃げ腰にもなれない。腰が抜けていたからだ。下がると柵にぶつかる。これ以上は下がれない。失禁しそうだ。ああ沙良を逃がさないと。「沙良、逃げろ」沙良は首を傾げるだけ。鈴の音。鼻先の白骨の竜が口を開く。捕食のために大きく。こちらに向かってくる! ヒロユキも開くのに合わせて口が開く。恐怖。そして、漏れる悲鳴。「あ、あ、あ、ああああああ」動けない。どうすれば良いのか。逃げられない。恐怖恐怖恐怖。次の瞬間に訪れる最期を予感して、目を閉じた。


 骨の砕ける音。


 頬に痛みが走った。

 死んだ、と思った。


「うぅぅぅう、俺の墓には東崎食堂のトンカツを供えてくれぇ」

「……それは遺言なのでしょうか」

「遺言ですぅぅぅ……って、あれ、死んでない?」


 ヒロユキは恐る恐る目を開けた。

 自分の体を確かめるが、何の異常もない。あの痛みは何だったのだろう。

 頬に触れると、少し切れていた。

 血を指で拭う。

 そして、目の前に肉食竜の白骨であろう残骸が転がっていた。

 ヒロユキは絶句して目の前の状況を把握しようとした。何が起きたのだろう。

 すぐに気づいた。


 残骸の破片はあまり飛び散っていない。

 まるで、とてつもなく巨大なプレス機で上から押し潰されたかのように。


 巨大な。


 ヒロユキはバッと後ろを振り返った。

 巨大な恐竜の姿勢が変わっていた。今までと位置が若干ずれている。

 そして、右足に細かい白い破片が付着していた。

 大量の――骨片。多分、あれが飛び散った際にヒロユキの頬を掠めたのだろう。踏みつけ、か。

 巨大な恐竜の化石が、肉食竜の化石を踏みつぶしていたのか。


「…………」


 答えが分かってもヒロユキは喋れない。言葉が思いつかない。

 ふと、沙良が鈴を鳴らし続けていることに気づいた。

 彼女のほうを見ると、彼女は呟いた。


「……おしまいです」

「どうなってんだよ、一体?」

「……アタシは彼を待っていたんです」

「人じゃなかったのかよっ」

「……そんな事は一言も言ってませんが」

「言われてみれば」


 確かにそんな事は聞いていないような気もするが。


「……彼はアタシのことを想ってくれていました。だから、アタシは鈴を鳴らし待ちました」

「その結果がこれか……」


 あれだけビビッたわけではあるが、正直、こうも無惨な姿は哀れだった。

 沙良は鈴を鳴らし続ける。鎮魂曲のように。いや、多分、鎮魂曲そのものなのだろう。


「……そうですね。ですが、恋は戦いだとは思いませんか?」

「戦い?」

「……はい。後ろのサウロポセイドンさんとの戦いでした」


 どうやら、この巨大な恐竜の名前はサウロポセイドンだったらしい。初耳である。


「………………………そのサウロポセイドンさんはあんまり自由に動けないみたいだね」

「……今の一動作で打ち止めです。彼の一生は終わりました」

「短っ! っていうか、えぇぇぇぇぇぇっ!」


 骨の人生がどうとかそれ以前のツッコミ忘れて叫ぶ。

 結果がこれではあまりにどうしようもなさ過ぎた。

 勝者は戦いのみで一生を使い果たし、敗者は横たわるのみという無惨な結果である。

 果たしてこの両者は何を手にしたというのだろうか?


「恋は奪い合いかもしれないけど、えーっと、もっとこう公平っつーかさ!」

「……奪うための手段は話し合いにしろ、殴り合いにしろ妥協点は存在しないとは思いませんか?」

「無視! あってもいいじゃん! いや、とっさに思いつかないけどさ!」

「……あるのかもしれませんね。アタシも思いつきませんが」


 突っ込んでおいて何だが、恋を戦いに喩えたのは正しいと思う。

 戦いとは相手との主導権の奪い合いだ。

 自身は最善手を選択し、敵には悪手を選ばせるよう誘導する。

 恋愛だってその一種だ。

 自身が選択肢を間違えず、相手をいかに惚れさせるかというそういう戦い。だが、それは恋愛に限らない。


 ……少しずつ何かを、思い出してきた。


 その感覚は覚醒に似て――浮遊するように記憶が蘇る。


「選択で悩むのは辛いことだよな。何が正しくて、何が間違っていて」

「……何が苦しいとか、何が楽しいとか」

「後悔しない道って何なんだろうな。成功と失敗って何なんだろうな」

「……恋愛での成功は好きな人と結ばれることだけなんでしょうか」

「そうとも限らないよな。略奪することで友情関係の破綻は起きてしまったらどうしようもないよな」

「……人はどうして後悔するんでしょうか? 自分の決断に自信が持てないのはどれほどの不幸なんでしょうか」


 沙漠や、日本家屋や。

『比類なき武道家』や茶会や。


 まだ曖昧な記憶。

 何かを掴みかけていた。


「強くても、弱くても、才能があっても、才能がなくても、環境が良くても、友人に恵まれてなくても、体格や親の無理解や時代……何があっても言い訳しようのないものがあるからじゃないかな」

「……それは何?」

「自分という主体は他には存在しないという真実」

「……真理という唯一ですか」

「あぁ、って、何の話だったっけ。あれ、沙良?」


 沙良の姿がいつの間にか消えていた。肉食竜も大型草食竜もそのままで変化はなく、鈴の音も鳴り響いている。どこかからか鳴り続けている。

 弘之は呆然とする。

 夢ではない。夢ではないと思う。その二つは似ているようで別だった。


「あなたは人が後悔しているときに何と声を掛けますか?」


「沙良! どこにいるんだよ!」


 返事はない。

 しばらく待つが、待っても返事はなかった。

 鈴の音は消えない。


「あぁ、訊き逃げかよ……」


 弘之は愚痴っぽく言い、仕方なくたたずむ。

 しばし、一人で考える。

 彼女が何を言いたかったのか。


 世界から色が失われる。灰色に。そして、景色が失われる。

 でも、弘之は考え続ける。


 魔女。沙良。

 彼女の願い。目的。

 主体。後悔。

 世界群。夢。

 

 考えるべき内容は少なくない。


 ゆっくりと世界は消える。

 今回は心地よささえもある。

 微睡みのような心境で、思考に没頭する。


 後悔している人に自分は何と言えるのだろうか?

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