第25話 死神の日々 その三

 ヒロユキが店を出ると日が傾いていた。

 地面も大分乾いている。

 世界は夕日色だった。

 先程とは雑踏を行き交う人々の種類が変化していた。


「あー、良い日だな」「あー、嫌な日ね」

「……良い日だろ?」

「どこが?」

「どこだろうな」


 考えてみるが、特に何があるわけでもない。平和な休日の午後だ。


「買いたいCDはすぐに見つけたのに、他のCDを延々と聴いたり見たり触ったり悦に入ったり……」

「あー、だから良い日なのか」

「だから嫌な日なのよ」


 なおもブツブツと愚痴をこぼす死神を無視して歩みを進める。

 頭の中で繰り返されるリズムに乗って体を微かに動かす。

 すれ違う人に奇妙な目で見られるが気にしない。


「聞いてんのっ?」

「うん? 当然だろ」

「絶対嘘」

「うん? 当然だろ」


 適当に頷いていると、「もうっ!」そっぽを向かれた。

 まぁ、別に構わない。

 今日は良い日なのだから。

 怒涛のような幸せは信じない。

 そんなものはすぐに風化してしまうからだ。

 理不尽な不幸は信じる。

 そんなものは道端のゴミのようにどこにでもあり、すぐに生じるものだからだ。

 ささやかに自分のしたいことをして日々を生きている。


 今日は良い日だ。


 無性に「幸せだぁ!」って叫びたくなる。

 スキップとか鼻歌とか、そういう表現でも構わない。

 気分が良かった。

 だから、ヒロユキはちょっと調子に乗って、


「だってよぉ、いつ死ぬのか教えてくれねぇだろ? だから、精一杯好きなことやって生きるしかねぇじゃねぇか。人生は短いんだろ」


 死神は「うん、それは良い考え方よ」と珍しく頷いた。

「ああ、それとその件なら教えてあげるわ」

「あ?」


 今、何と言ったのか。


「上を見て」


 それは普段と違う死神の態度に思考が麻痺していたのだろう。軽い死神の調子。

 ヒロユキは木偶の様に頭上を見た。


 目を見開く。


 ――それは一瞬の出来事だったはずだが、視覚情報過多、思考停止による脳の処理速度の低下で酷く長く感じた。世界が緩く流れる。


 女が落下している。


 長い髪を振り乱し、脱力して。


 眼が虚ろだ――眼が合った?


 濁った眼。静止。思考。何故? 落下。女。接近――死?


 空が赤い。どんどん近付く。


 ――


   +++


 気がつくとおぼろな世界にヒロユキは漂っていた。

 上下左右の感覚がない。

 灰色一色に染まっている。

 浮いていると感じるのは、自分を支えるものが視覚的にも物理的にも存在していないからだろう。

 自分がどうなったのかは想像できたが、理解には抵抗があった。


「やぁ、ヒロユキ」

「ああ、お前か」


 目の前にいつの間にか死神がいた。フワフワと浮いている。

 意外と自分が落ち着いているのが不思議で仕方なかった。


「俺はどうなったんだ?」


 分かりきっていたけど、一応訊ねてみた。知りたくないけど、知るしかない。


「まだギリギリ生きているけどね。もうすぐ死ぬわ」


 あっさりと死神にそう告げられた。

 想像通りで、逆にヒロユキはストンと納得してしまった。


「そうか」


 ヒロユキは納得していても、溜め息が漏れた。ショックだったが、そうショックでもない。

 不思議な感覚だった。

 まるで死を何度も経験したという感じだ。


「ところで、何であの女は俺の上に落ちてきたんだ?」

「あんたの上に落ちてきたのは偶然よ。運が悪かったわね」


 運が悪かった。それはどちらの話だ?


「運が悪いのはあの女か?」

「あんたに決まっているじゃない」

「まぁ、それもそうか。で、あの女は何で落ちてきたんだ? 事故かそれとも」

「自殺よ」

「じさつ……自分で自分を殺す行為のことだよな?」

「それ以外に何があるのよ?」

「そうか……」


 事故であって欲しかった。

 そちらの方がまだ良かった。あの女の眼を思い出す。虚ろで力の無い眼。それは絶望した人間の眼だった。


「彼女はビルからの墜落死を望んでいたの」

「あー、だから、落ちてきてその下を歩いていた俺は押し潰されたのか」

「理不尽な話よね」

「死んでも死に切れないって感じだな」

「その割には冷静ね」

「あー、かもな」


 冷静なのではなく、麻痺しているだけだろう。もしくは実感が無い。ただそれだけ。


「で、その女はどうなったんだ」

「意外と軽症。腕の骨折くらいで助かったわ」


 骨折は重傷かもしれないけど、重体ではない。


「……それは理不尽だな」

「でしょ」

「俺はこの後どうなるのかな?」

「知らないわよ、そんなこと」


 死神は最後の最後まで素っ気無い。まぁ、これで馴れ馴れしくても対応に困るか。


「でも、彼女がこの後どうなるかなら教えてあげられるけど」


 どうする、と死神はヒロユキに促す。聞きたいのか、聞きたくないのかを選べ、と。

 ヒロユキは正直どうでも良かった。どうでも良いなら、死神との会話を長く出来そうな方を選びたい。


「……どうなるんだ? 死に直すのか?」

「死に直すってのも嫌な表現ね。でも、彼女はもう死なないわ」

「え! 不死になるのか! どんな超科学だよ! 二十二世紀の発明かっ?」

「あ、そういう意味じゃなくて、って言うかどんな勘違いよ! ドラえもんじゃないんだから。そうじゃなくってね、再度自殺に挑むことは無いって話よ」

「再度自殺に挑むってのも嫌な表現だな。で、どうすんだよ、その自殺しようとした女は」

「あなたの死を知ってね。彼女は人生をやり直す決意をするの」

「……それで?」

「彼女の自殺の動機は家族を殺人で失い、自身も騙されて財産を失う……まぁ、それで自殺しようとするんだけど、それであなたを殺してしまう。で、それがマスコミに広がって、それなりに非難されもするんだけど、それ以上に彼女の立ち回りが上手かった。と言っても、別にそれは意図したものじゃなかったの。偶然よ。真摯に謝る彼女の姿が大衆の胸を打った。何と言っても彼女はあなたにとっては加害者でも、社会的には極めて弱者で被害者でもあった……。それにあなたの家族も感情に任せて一方的に相手を悪く言わなかったどころか、息子の代わりに十分生きて下さい……とかね。美談よね。彼女はそのどん底から立ち直る。かなりの美人だった彼女には芸能界への誘いもあったんだけどね。彼女は社会的な弱者のため、と弁護士を目指し、」

「あー、もう良いや」

「そう?」


 死神はかなり趣味が悪い。

 そんな話を聞かせてどうするつもりなのか。いや、選んだのはヒロユキなんだけど。それは十分承知している。

 そうではなくて、それで死神がどういう感想を期待したのか。

 最期なのだ、せっかくだから聞いてみよう。


「お前さ、何でそんな話しようと思ったんだ?」

「聞くか聞かないかはあんたに選ばせたはずだけど?」

「まぁ、そうだけどさ。そうじゃなくて、お前って俺にどういう言葉を期待したんだ?」

「アタシはね、あんたに聞きたかったのよ。理不尽な死。これは事故よ。少なくともあんた個人に対して害意はなかった。もちろん善意も無かったけどね。そして、あなたの死をバネに頑張る人がいる。そして、その礎になったあんたはどう思うんだろうか、ずっと一緒にいてアタシはあんたをどれくらい理解できていたんだろう」

「……悪趣味じゃねぇか、それって」

「好きなことをするのは悪いことではないんでしょ」

「悪いかどうかと迷惑かどうかって別に矛盾しねぇんだな」

「死ぬ前に一つ悟れて良かったわね」


 その皮肉めいた物言いに、ヒロユキは思わず声を出して笑ってしまった。


「何が面白いの?」

「きっとさ、精一杯生きても死ぬときに未練が何も無い人間ってのは、もう生きているとか死んでいるとかそういう話で括っちゃダメなんだな」

「そうかもね」


 精一杯生きるとか、手を抜いて生きるとか正直、下らない話なのだろう。

 精一杯努力しても結果が出なければ、きっとそこには未練が生じる。

 努力が間違っていたとか、運が悪かったとか、環境とか……。

 しかし、ヒロユキはそれら全てがどうでも良かった。

 きっと、ずっと死神に触れていたヒロユキはイカれた人生を送っていたのだろう。


「なぁ、その仮面の下ってどうなっているんだ?」


 死神は仮面を剥いで見せてくれた。

 女の子だった。中学生くらいの。十三、四の可愛らしい子だ。

 かなり好みのタイプだ。

 どこかで見た記憶があるが、それがどこかは分からない。ただ、馴染み深い気がした。当たり前だ。産まれたときから隣にいるのだから。

 でも、そうではなくて――まぁ、良いや。

 ヒロユキはそんなことよりも素直な感想を言った。


「可愛いじゃん」

「そう? ありがとう」

「そっちの方がよっぽど俺の人生は潤っていただろうな」

「それが後悔?」

「それも後悔だな」


 ヒロユキは自身が薄れていくのを感じていた。

 死は近い。生が遠ざかる。もうあまり時間は残されていないようだ。


「何か言い残したい言葉はある?」

「…………」


 言い残したい言葉はないが、最期に言っておきたい言葉は……。


「あー、ダセェ恨み言があるんだが」

「言ってみて」

「んー、ダサいからな。止めとく」

「アタシはね、別にそれをカッコ悪いとは思わない。むしろ、当然の言葉だと思う」

「……何が言いたいのか分かったのか?」

「むしろ、その当然の言葉を許容しない社会の方がよっぽどかダサい――いや、酷いの方が近い。最も正確な表現は『悪』ね」

「……そうかもな」


 ヒロユキは言うかどうかを迷い、


「せっかくだから地獄まで、持って行くよ」


 結局、その言葉を呑み込んだ。


「あら、何で天国だとは思わないのかしら?」

「別に。親より早死には地獄だって決まっているらしいからな」


 死神はそうかもね、と笑った。

 石を積むのはしんどいかもしれないが、他の可能性がないのは不幸かもしれないが、耐えられないかもしれないが、救いはないかもしれないが――やるべきことがないよりはまだマシなのかもしれない。

 死が可能性の断絶なのだとしたら、死神の存在は自分にとって救いなのかもしれない。

 かもしれないとしか言いようがない。


 だって、死ぬのは初めての経験なのだから。


「もう時間ね。あんたとの日々はなかなか楽しかったわ」

「そりゃ光栄」


 こっちもだよ、と口の中だけで言うと、死神は少しだけ笑ってくれた。


「さよなら」

「……ああ」


 死神が消えた。

 ヒロユキもゆっくりと足元から霞んで行く。



 ……それは被害者以外の立場の人間には言えない言葉である。

 それは言ってはならない言葉で、場合によっては被害者も言ってはならないとされている。

 それは『人は死んだらそれまで』とか『生きている人が優先』等の理由から言ってはならないとされること。

 彼女は立派に更生するらしいから、余計に言ってはならないのだろう。

 これは未練からの言葉ではなく、ただの――理不尽に対する恨み言なのだから。


 ヒロユキは独り好きな音楽を小声で歌う。

 消えるその瞬間まで。

 灰色の世界で。

 死神が存在していた世界で。

 その言葉を胸の内で押し隠して。


   +++


 俺は死んだんだよ。

 勝手に頑張るのは構わない。

 立派に更生して欲しい。

 だがな、人をダシに頑張るのは止めてくれ。

 俺はあんたに殺されたんだから。

 哀れと思うなら死んでくれ。


!』

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