第22話 熊の茶会 その四

 とは言っても、正直どうして良いか分からなかった。

 人生で初めての茶会なのだ。

 しかも、熊とメイドさんが一緒というおまけ付き。緊張せずにはいられない!

 うぅむ、と腕を組んで唸っていると、


「ええっと、ヒロユキ様。冷めないうちにどうぞ」

「はい。しかし、どうやって飲んで良いのか分かりません」

「好きに飲めば良いと思いますけど」

「だったら、逆立ちしながら飲まなければならなかったり、スプーンは外側から使わなくても良かったりしますか?」

「えっと、どうしてそんな必要があるのですか?」

「無いなら良いです! いただきます!」


 ヒロユキは淹れたばかりの熱い紅茶に、砂糖を少々、ミルクをたっぷりと入れた。

 沙良は紅茶には何も入れないようだった。意外に渋い。

 熊はどこからともなく壷を取り出した。

 ヒロユキで一抱えはある大きな壷だが、熊ほどのサイズだとそうも感じない。

 ヒロユキは好奇心に駆られ、素直に訊ねてみる。


「あの、その壷は何ですか?」

「何だと思うかね?」


 熊は面白そうに反問してきた。

 ヒロユキは即答する。


「すごい砂糖壷ですか?」

「すごいって何がすごいのです?」と、これは可笑しそうな様子の沙良の質問である。

「すごいはすごいんです! こうドバーっていうか、ズシャーっていうか!」


 ヒロユキの身振り手振りが可笑しいのか、沙良は口元を隠して上品に笑う。


「違う。これも甘いものではあるがね。実は私は甘党なのだよ」


 酒が飲めないという意味ではないのだろう。

 熊のティーカップには紅茶が二分ほどしか入っていなかった。

 そして、カップの中に壷の中のトロリとした飴状の液体を足す。

 つまり、正解は……。


「蜂蜜ですか?」

「正解だ」


 熊に蜂蜜。正道とも言うべき姿がそこにはあった。素晴らしい。

 熊の紳士はどんどん注ぐ。飽和状態を突破し、紅茶とは比べられない分量の蜂蜜がカップの中に注がれる。紅茶というよりは蜂蜜。正直、紅茶の意味はあまりない気がする。


「……本当に甘党なんですね」

「沙良君にもよく言われるよ」

「あら、そうでしたか?」


 熊の照れたような笑い声と沙良のとぼけた笑い方が唱和する。

 そこで、ふと、声がどことなく似ているのだなとヒロユキはようやく気づいた。


 ……そして、つつがなく茶会は終わりに近づく。


「で、私の運命論者のその友人はこう言ったのだよ。『これも運命さ!』と。失恋からそんなに簡単に立ち直れるのだったら、私も運命論者になろうかなと本気で悩まされたね」

「まぁ」

「ハハハッ」


 熊は蜂蜜が入ると途端に饒舌になった。ある意味、酔っ払っているのかもしれない。

 ヒロユキが相槌を打ち、沙良が気の利いたコメントを絶妙なタイミングで入れる。

 とても和やかな雰囲気だった。とても楽しい。

 時間を忘れられるほどに。



 そして、いつの間にか天井からの光は斜陽――赤いものになっていた。

 夕日が真っ白いテーブルクロスを赤く染めている。


「おっと、もうこんな時間かね」


 熊はのんびりと言った。お開きらしい。確かにずいぶんと長居していた。


「どうだったかね、今日は」

「はい! とても楽しかったです! それにとっても興味深かったです!」


 熊の問いにヒロユキは素直に答えた。掛け値なしに本心だった。


「我々も楽しい時間を共有できて感謝する」

「また来て下さいね」


 という沙良の笑顔だけでも、また来ようと思わされる。

 今何時だろう、と思い時計を自分が持っていないことに気づいた。


「あの、そう言えば、今って何時ですか?」

「今の時刻は……」


 熊は首に下げていた懐中時計を外し、蓋を開けた。チッチッという音。

 チッチッチッチ……やけに気になった。秒針だろうか、それとも歯車か何かの部品?

 刻まれる定期的な音がやけにヒロユキの耳に残る。


「……どうしました?」

「え……」


 気がつくと、心配そうな沙良の顔が目の前にあった。

 時間がすっ飛ばされているようだった。

 ずいぶん室内が薄暗くなっている。


「あ、いえ……?」


 熊の姿が見えない。一体、いつからいなかったのだろうか?


「ご主人はどちらへ?」

「? 部屋に戻りましたが? それにヒロユキ様も普通に挨拶をされていたようですが」

「あれ。そうでしたっけ? ちょっとボーっとしていたようです」

「あら、大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です」 


 チッチッチッチ チッチッチッチ


 ヒロユキは頭を振った。楽し過ぎて――少し疲れたようだ。


「じゃあ、帰ります」

「お見送りしますが、その前にこちらをどうぞ」


 沙良はどこからともなく取り出した小瓶を掲げて見せた。

 透明な瓶の中身はアメ色の液体だった。先ほど見た。


「蜂蜜ですか?」

「はい。旦那様が感謝の意味を込めて少しお分けしろ、と」


 これは最大限の感謝を示しているのです、と沙良は続けた。


「うわぁ! 本当にありがとうございます!」

「いえいえ」


 次の瞬間、また時間が飛んだような感覚。

 いつの間にか玄関にいた。

 どうやってあの茶会のあった部屋からここまで来たのか思い出せなかった。

 まぁ、どうでも良い。

 沙良に挨拶する。


「では、失礼します」

「またのお越しをお待ちしております」


 腰からの敬礼にヒロユキは手を振って応えた。

 ヒロユキは小瓶を片手に、お菓子のお屋敷を背にした。

 夕暮れの道をのらりくらりと歩く。どこへ向かっているかと疑問を憶えた。

 帰宅しているのだ、と当然の答えに行き着く。しかし、それはどこだったっけ?


「…………」


 チッチッチッチ チッチッチッチ


「……何かおかしい気がする」


 先ほどから妙な違和感が付きまとってならなかった。

 何がおかしいのかはよく分からない。どうしても分からない。

 チッチッチッチ チッチッチッチ

 気がつくと、公園のベンチに座っていた。チッチッチッチ

 熊と出会ったあのベンチだった。チッチッチッチ

 夜の帳の下りてきた今、人の姿は公園内には見えなかった。チッチッチッチ

 ヒロユキ一人しかいない。チッチッチッチ


「咽喉が、渇いた、な」


 手には蜂蜜入りの小瓶。チッチッチッチ

 蓋を開け、呷る。チッチッチッチ

 甘い。ただ甘い。チッチッチッチ

 咽喉を通り過ぎた後も味が舌の上に残っている。チッチッチッチ


            あ         れ                                                             


 ヒロユキは力が抜けた。

 瓶が手から滑り落ちて、転がっていく。


「あれ?」


 気がつくと、ヒロユキは仰向けに地面に倒れていた。

 四肢に力が入らない。痙攣が止まらない。息が詰まる。視界が暗い。

 咳き込むと、眼に口から飛び出た液体が付着した。

 もう色も分からなくなっていたが、それが何かは理解できた。

 血だった。


「毒、とはどういう物なのかしらね」


 ……女の子の声が空から降ってきた。


「こういう話は知っている? 毒を持った生き物なんていないって言う話。人間の唾液で死ぬ生き物がいるんですって。だとしたら、人間の唾液って毒なのかしら?」


 聞き覚えのある女の子の声だ。これ、誰だっけ?


「ある熊には好物。でも、一般の人間には猛毒。そんな蜂蜜だってあるかもしれないわよね。そんな好意的な行為をあなたはどう思う? 全然悪意なんて欠片もない、親切心からのお節介。それが致命的な結果を伴う。そういうことをどう思う? ねぇ、ヒロユキ」


 体に力は入らないが、不思議なことに声は出た。

 ヒロユキは思ったことをそのまま口にした。


「そんな、すれ違いは、辛い、よ」

「辛くてもあるの。無知は最悪の罪なのかもしれないわね」


 そんな難しいことは正直よく分からなかった。

 でも、一つだけヒロユキにも言えることがある。


「だと、しても――」

「だとしても?」

「俺は、その、お節介、して、くれた、人を、恨んだ、りは、しない、よ」

「それで死んじゃっても?」

「きっと、その、人の、方、が、辛い、だろう、から」


 そう。すれ違いは辛いものかもしれない。

 きっとそういうお節介を許せないという道理も当然のことなのかもしれない。

 でも、ヒロユキは許そうと思う。

 熊のことも沙良のことも気に入っている身の上としてはこっちの方が、よっぽど当然の結論でしかなかった。

 それは何の解決にもなっていない答えだったが、ヒロユキらしい結論だったかもしれない。


「それは愚者の答えね」


 ヒロユキはもう答えられなかった。呼吸が止まっていたからだ。


「でも、アタシは嫌いじゃないわ。そういう考えが出来る人って」


 だが、女の子は気に入ったようだった。

 それは嬉しいな、と声にならない声でヒロユキは答えた。

 知覚出来ない世界で、女の子が優しく頭を撫でてくれたような気がした。

 世界が真っ暗になる。

 …………。

 ……。

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