第15話 其は比類なき…… その二

 男の姿が完全に視界から消えたと同時に沙良の目が開いた。

 パチパチと瞬きを繰り返し、周りを見渡してから、


「おはよう、お兄ちゃん」


 と、暢気に笑いながら朝の挨拶を口にした。

 まるで何の異常も無い、とばかりに。

 沙良は立ち上がり、パタパタとその学生服に付着した埃を払って落とす。


「あーあ、髪もボサボサ。あははは」


 沙良は必死に手櫛で直そうとして――無駄だと気付き、途中で諦めたようだ。ふぅと溜め息を吐いて、苦笑した。

 ヒロユキはそれらに応えずに本気で心配する。


「大丈夫か? 沙良」


 沙良は当然じゃないと大きく頷いて、イタズラっぽく笑った。


「ええ。アタシは大丈夫よ。それよりもお兄ちゃんの方がダメなんじゃないの?」

「そうだね。否定はしないよ」


 ヒロユキは苦笑の混じった笑みを浮かべた。

 口の端を切り、土に汚れているヒロユキの姿は、表面上無傷な沙良よりもよっぽどみすぼらしい。

 立ち上がり屈伸をして、足元が意外としっかりしていることに安堵する。


「大丈夫みたいだ。よかった、ケガがなくて」

「そういう意味じゃなくて。どうしたの、お兄ちゃんボケちゃったの?」


 と、不審げな様子の沙良に――何かを思い出しそうになるが分からない。


「何のことだ?」

「何のことだって……お兄ちゃん、本当に大丈夫?」


 心配そうに覗き込まれるが、本当に心当たりが思いつかない。

 表情から察したのだろう。

 沙良は、ふぅと溜め息混じりに答えを言う。


「あの男が次の標的よ」

「……ターゲット?」


 おうむ返しにその単語を呟いたが,その時に気づく。


 懐に隠された一丁の拳銃に。


 そして、思い出していた。

 この一連の芝居と殺害依頼、そして愛銃の使い方……全ての記憶を。

 何故忘れていたのか分からないけど。


「ああ……思い出したよ」

「ええ、今回の依頼はどう考えても今までで最高難度よ、お兄ちゃん。何と言ってもあの『比類なき武道家』を仕留めるなんて依頼はね」

「ああ。そうだな」


 忘れていたことが不可解だった。殴られた衝撃で一時的な記憶障害……そんな莫迦げた話はないだろう。本当に忘れてはならない最も大切な記憶なのだから。


 


 幼い妹と二人で仕事をする殺し屋なのだ。成功率百パーセント――狙った獲物は逃さない。一流の殺し屋として、仕事の途中だった。


「…………」


 ヒロユキは何も言わずに俯いて押し黙った。


「お兄ちゃん、どうしたの? これからお礼の名目で殺しに行くんじゃない。わざわざ痛い目も見たんだから、大丈夫よ。向こうは疑っていないわ。お兄ちゃんなら必ず殺せる。あの無敵の男でも」


 そうなのだ。自分は最高の武道家を殺す依頼を受けたのだ。

 その為に一芝居うったのだ。本当に痛い思いまでして。


「…………」


 ヒロユキは喋らない。俯いたまま。


「お兄ちゃん?」


 ヒロユキの態度に不可解なものを感じたのか――沙良から戸惑った声が上がる。


「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」

「なぁ、沙良?」ヒロユキはゆっくりと顔を上げた。「『比類なき武道家』の腕前はどうだった?」

「えっと、やっぱり凄かったわよ。見事の一言ね。それが?」

「具体的に」

「……名前に偽りはなかったわ。アタシを拉致させたあの人達七人は、誰一人として接近にさえ気づかなかった。猛然としか言いようのない勢いだったのよ、それなのに誰も気づかなかったの。アタシだって、二人か三人が地面に転がってようやく気づいたんだもの。どんな魔法を使ったのかしらね。あとはあっという間よ。態勢を整えようと頑張った人もいたけど、そんなの関係なし。張り手一発で一人倒れる。結局、十秒と掛けずに全滅。全員失神だけって結果も恐ろしいわよ。こっちは銃まで所持していたのよ? 要は手を抜いているってことでしょ? どんな腕前よ。全く」

「なるほど……」


 ヒロユキは神妙に頷いた。

 沙良は不安そうに顔を歪めている。


「あ! もしかして、お兄ちゃん不安になったの? 大丈夫よ。アタシがいるから――」

「沙良、聞いて欲しいんだ」


 ヒロユキは間近で沙良の肩を掴んだ。見つめ合う。

 沙良は戸惑ったように目を逸らそうとするが、ヒロユキがそうさせない。熱い視線を送り続ける。


「えっと、どうしたの? そんな真剣な顔して。禁断の愛? 告白?」


 彼女は乾いた笑い声を上げながら冗談っぽく言うが、


「まじめな話なんだ。本気だ。俺の本音なんだ」

「……何よ」

「俺は、殺し屋から足を洗う」

「はい? ……えっと、何? もう一回良い?」

「俺は殺し屋を辞める」

「はぁっ? な、何でよ!」


 沙良は信じられないという顔で狼狽している。小さな体でアタフタとする。


「俺は『比類なき武道家』に弟子入りするよ」


 妹は兄の言葉の意味が全く理解できていないようだった。

 いつヒロユキが笑い出すのか待っているようだったが、その本人は相変わらずの大まじめな顔だった。


「な、何考えているのよ!」


 沙良のヒステリックな叫びも、今のヒロユキの耳には全く届いていない。

 全く聞いてなんざいなかった。


「無骨で骨太そうな極限まで鍛え抜かれた肉体! 男は背中で語れと言わんばかりの後ろ姿! 眼光だけで人が殺せそうな隙のない目! 無表情の奥、鉄面皮の裏に隠された優しさ! まさしく極! 頂! 道! さすがだぜ、『比類なき武道家』! くはぁ! 格好良すぎだぜっ! おおおおおおおいっしぃ!」


 ヒロユキは勝手なことを喋り、興奮から地団駄を踏む。頭を掻き毟って焦燥を表す。


「何であの時に声を掛けなかったんだ! くそ! こうなったら後を追うしかない! まだ遠くには行ってないだろ!」

「ちょ、お、お兄ちゃん! 依頼はどうするのよ!」

「知らん!」


 ヒロユキは断言した。

 駅裏から考えて、『武道家』の行き先を想像する。

 ヒロユキがそのまま走り出そうと足を踏み出した瞬間、沙良は――。


「ストーップ。ちょっと待って」


 


「あ、れ?」


 今まで自分は何をしていたのだろう、とヒロユキは我に返った。

 ただ、思考は出来るが体は動かない。

 指一本どころか、まばたきも出来ない。それどころか呼吸さえ止まっているようだった。


「あー、やっぱり、お兄ちゃんってそういう人間だったんだ。一つのことに熱中すると他に目が回らなくなる人。見栄や外聞を棄ててでも利を得ようとする人。何かを果たせる代わりに、すごくはた迷惑でもある人。今のだったら、自分の仕事を放棄しているわ。それがどれだけ無責任かなんて言うまでもない」


 沙良は今までと雰囲気を一変させていた。


「それに自分の憧れをすごく大切にするんだ。なるほど。確かに『The war of art』――『武道家』は立派な人らしいし、特に今代――二十三代目は正義の味方みたいね。『石杜先生』と共に『獣姫』を止めた伝説は有名すぎる武勇みたいね」


 と、そんなことを続けて言った。まるで実在の知り合いのように。

 その姿は状況を俯瞰しているようで、喩えるなら小さな魔女のようだった。

 同じ土俵に立っているようには見えない。


「ここでの予定は狂ったけど、まぁ良いわ。別に殺す必然は無いもの。殺される必然もない。確実にアタシの世界は広がっているし、浸食も大きくなっている。アタシの立場ももうどうにでも出来るでしょう。さぁ、旅はまだ続くわ。だって、まだまだ途中だもん」

「た、旅?」


 ヒロユキはその単語に反応し、訊ねていた。


「そう、旅。ヒロユキは旅って何でするか分かる?」

「色んなものを見る、だろ」

「そう、それはつまり自分と出会うってこと。ふふふふふ」


 ……今の言葉が鍵を握っているとヒロユキは直感していた。

 自分が陥っている状況の、大切なキーワードだ、と。


「何? 何か言いたいことがある?」


 何と言えば良いか分からない。

 止まった世界の中で、思考も空転する。

 考えてみるとおかしなことが多い。

 そう、思い出した過去の世界――沙漠や断頭台でのエピソードの時に比べて、おかしいことをおかしいと思わなくなっていた。

 駅裏に誰もいないってどんな田舎だよ、とかそういう正常さが失われている。

 ただ、何が言いたいかと言えば、要約してしまうと一つだけだ。

 結局、お前は何なんだよ? という当然の疑問だ。

 その言葉は発声しなかったのに、沙良には理解できたようだった。


「アタシ? アタシの名前は沙良。あなたが付けてくれた名前がアタシの全て」


 でも、そうねぇと続ける。


「昔からアタシと同じような存在をこう指す人は多い」


 それはヒロユキの先ほどの思考と同じ答えだった。


「アタシは『魔女』よ。夢の世界を我がモノのように操る『魔女』なの」


 世界は子供の玩具と同じように簡単に壊れていく。

 瓦解していく世界。

 広がる闇。

 押し潰される自我。

 似たようなことが既に何回もあったような気がしたが、もう思い出せない。

 世界は広がっている。

 浸食は大きくなっている。

 その言葉の意味も考えながら、ヒロユキの存在も世界と同じように崩壊した。

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