第14話 其は比類なき…… その一
――俺だってもう七年も生きているんだ。あんたが周りの奴に比べてどれだけ損しているかは知っているぜ 『W・D』
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「いやぁ! イヤ! 離してぇ!」
その悲痛な叫び声に――ヒロユキは現実に引き戻される。
天と地。どっちがどっちだか分からない。
平衡感覚が狂っている。目前には一輪のタンポポがアスファルトに負けず根を張っていた。
ここはどこだ? どうなっている?
ようやくそこで自分が倒れていると認識出来た。
認識は出来たが、何故、地面に転がっているかは理解できない。
理解はできないが、どうやら気絶していたようだ。首筋に鈍痛が残っている。
何が起きている? 何で倒れているんだ?
ヒロユキが顔を上げると――今の状況は危機的だった。
「お兄ちゃん! 助けてぇ!」
妹の沙良が複数の男に囲まれている。
男に共通しているのは、着崩れした格好と剣呑な目つき。首筋に刺青が見える者もいる。とても堅気には見えない。全員が懐を膨らませている。おそらくはナイフか何かの光り物だろう。それはそれ以上の殺傷力を持つ武器だと思いたくないという願望も含まれていた。
あまり関わりたくない人種だが、そうも言ってられない。
「嬢ちゃん悪いな。騒がないでくれ。黙ってついてくれば危害は加えねぇ」
理由は分からないが、沙良はヒロユキの前で拉致されようとしていた。
「キャー、助けてぇ、お兄ちゃん、助けてぇ!」
現在周囲に人影はないが、大通りに近い駅裏だ。
声を出し続ければきっと誰かが来てくれるはずだ。ヒロユキは期待して祈る。
「悪いが、ちょっと黙っていてくれや」
だが、その内の一人がチッと舌打ちをして、鳩尾を拳で突くと沙良は呼吸も出来ずに悶絶した。
沙良は声が出せなくなった。
崩れ落ちる体。ヒューヒュー、と呼吸不全になりながらも沙良はこちらに手を伸ばして言った。
「……に……た……けて」
必死に助けを求めている。
この祈るだけの情けない自分に対して!
周囲に人影は無い。他人の助けは当てに出来ない。
自分がやるしかないのだ!
男達は沙良を肩に担ぎあげ、転がっているヒロユキに背を向ける。去ろうとしているのは分かる。
しかし、体が全く言うことを利いてくれない。必死に地面を掻く。
「ま、待てっ……」
爪に石が挟まって鋭い痛みが走った。構わない。舌が回らない。声が出ない。喉に粘つくもの――吐き出すとそれは血だった。それでも立ち上がる。立ち上がろうとして膝が笑っているのは恐怖によるものではなかった。
体がいうことを利かない!
「待てっ!」
ヒロユキは息を吸ってもう一度叫ぶ。今度は少し大きな声が出た。
男達は一斉に振り返った。一様に浮かぶまたかと言いたげな表情。
「いい加減にしろ。もう痛い思いはしたくないだろう。君も」
どうやらヒロユキは痛い目に遭っていたらしい。記憶が飛ぶほど打たれた憶えは無い――思考の矛盾――が、全身が熱を帯びているのに気づく。
痛いというより、熱くて重い。
酷い熱に侵されているようだ。
確かにヒロユキは散々殴られたのだろう。
男たちの中で一番仕立ての良いスーツを着た男が、最も体格の良い男へと目配せを送る。
「はい……」
大男は頷いて、無造作にヒロユキへと近寄る。ヒロユキはその後の展開が読めたが、何も出来ない。
大男の拳のうねりは、目をつむってしまっているヒロユキには想像でしか追えない。次の瞬間、顎が砕けたかと思うような衝撃で吹っ飛んだ。
転がり、地に伏せ、意識が途絶えそうになる。
でも、気を失ったらおしまいだ。
「お……にぃ……ちゃ……っ!」
沙良の絶え絶えな悲鳴が耳に入ってきているが、違う世界の出来事のようだった。
顔を上げようとしたが、首筋の痙攣を知る。口の中もかなり切っていた。
血の混じった唾液が、土が、ヒロユキの顔をぐちゃぐちゃに汚す。
それでも痛みは失神しそうなヒロユキの精神をこちら側に繋いでいるのに役に立つ。
沙良が連れ去られる。
「おにい……ちゃん!」
今度はさっきよりもはっきりと聞こえた。
意識と肉体が剥離している。まるで幽体離脱だった。
ヒロユキはどうにか寝返りを打った。沙良が連れ去られるのが眼に映った。それだけ。見ることしか出来ない。無力さと悔しさで涙が滲んだ。泣く妹の姿が遠ざかる。
その時だった――風が動いたのは。
「大丈夫か?」
野太い男の声が降ってきた。
涙で滲んだ視界ではその姿はよく見えなかったが、印象としては山のような男だった。
揺ぎ無い意志に鍛え抜かれた肉体の持ち主に見えた。
それは不動の如く。
山の如く。
そして、とても優しく聞こえた。
「俺は良い……沙良を……妹をお願い、します!」
返事は、「ああ」とも「おお」とも聞き取れた。彼がくぐもった声なのか、それともヒロユキの耳の調子が悪いのかはよく分からない。
男は沙良が連れ去られた方向に眼をやった。
視線を引き絞る。
それは猛禽類とでも形容すべき視線だった。遠くの獲物を捕らえる、力強い眼。
そして、ダン、と駈け出す。
巨体からは想像できないスピードだった。
ヒロユキはどうにか起き上がる。だから、人知を超えた速度で追いかけるその男の後ろ姿が目に焼きつくことになった。
まず、服装はTシャツに空手着という軽装。
Tシャツの背中には行書体で大きく一字だけの印刷がなされてある。
それは普段の何気ない時に見れば、笑い出してしまうかもしれない。似合いすぎていて、あまりにもその人生を写しているようで、笑ってしまう。
そんな一文字だった。
道
ヒロユキはふらつく足元で、しかし、どうにか両足だけで立つ。
ただ、その目に残る背中を思い出しながら。
どのくらい経っただろう? そんなに時間は掛かっていないはずだ。
男は悠然と沙良を抱えて戻ってきた。
ぐったりとしている沙良はまだ十を過ぎたばかりだが、年齢よりもか弱く幼く見えた。男の存在感が異常だったせいだろう。
それは人が持てる存在感ではない。
超一流の才能を持つ格闘家が一生を賭けても辿り着けないであろう境地にあった。
むしろ、ここまでくると獣に近いが、信頼出来た。
動かない沙良を見て、ヒロユキは心配になる。
「……あの、妹は……?」
「安心しろ。君の妹は気を失っているだけだ」
男は地面に横たえるようにしてヒロユキに沙良を任せる。
ヒロユキはしゃがみ、その小さな体を優しく包むように抱き締めた。
「ありがとう、ございます。ありがとうございます」
「気にする必要はない」
「礼がしたいのですが」
同じ言葉は不要ということだろう。
男は静かに背を向けて、悠然と去っていった。
ヒロユキはその後ろ姿を凝視し続けた。
偉大な、『道』の一文字を背負ったその背中を。
それはとても広くて、大きかった。
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