第10話 日本家屋と断頭台 その六

 ヒロユキはどこか他人事のような騒ぎに頭が冷える。


「これは本当のこと? 本当にあの男は殺されるのかよ?」

「本当よ」


 素っ気なく沙良は続ける。


「ヒロユキは知っている? ギロチンって貴族を痛み無く殺す道具だったのよ」

「そうなのか? 知らんかったよ」

「ここで思想犯は、それがどんな種類にしろギロチンで処刑なの。誰一人として心では認めなくても、ただ一人でその考えを守っていた。この行為に敬意を払ってね」


 誰一人として認めなくても。その言葉は、ヒロユキにとって重いものだった。

 沙良はヒロユキの背中をもぞもぞと乗り出し、顔を覗き込みながら言った。


「そう、誰一人として認めなければ、よ。言っている意味は分かる?」


 それは。


「もしかして、俺が手を挙げていれば」

「処刑は回避されていたわ」


 その瞬間に、ヒロユキは叫び声を上げた。


「ここに反対意見はいるぞぉおおおおおおおおおおおおおおお!」


 それは周囲を一瞬で静かにさせた。

 千人の視線が全てヒロユキに注がれていたが、ヒロユキは形だけでも胸を張ってその視線に耐えた。

 怯えを見せてはならない。俯いてはならない。それは意見を通すための最低条件だった。


「あー、君は先ほどの挙手はどうしたのかな?」


 髭男は普段の妙な喋りではなく、普通にヒロユキに語りかけていた。


「あ、えっと、」

「いたのかな。それともいなかったのかな」

「いました。……でも!」

「なら、君の意見は却下だ。君を含めて、誰一人として彼の処刑に反対するものはいなかった。今更何を言うのかな、君は」

「でも、俺は賛成にも手を挙げなかった!」

「なら、それは権利放棄だろう。無効だよ。そんなものが認められるわけないだろう」

「でも!」

「でも、か。君はそうやって意見を翻そうとしているのかもしれないが、そんなものが通じるわけ無いだろう。そんな甘いものじゃないんだよ、世の中は」


 頭が沸騰する感覚。視界が狭くなる。自分じゃ制御出来ない――怒り。

 そこへ、


「ヒロユキはあの議長の言うことに怒りを覚えているみたいね。でも、それはどこまで正しいものなのかしら」と、沙良がそんなことを言った。


 何か言い返そうと思うが、沸騰した思考では咄嗟に言い返せない。


「ヒロユキが権利を放棄した。そんなつもりはないかもしれないけれど、それは正しい指摘よね。だって、あなたは手を挙げなかった。そんなつもりはなかった。それがどこまで通用すると思う?」


 言い返す言葉がどうしても見つからず、それでも反論する。


「でも、俺は知らなかった」

「一人でも擁護ようごする者がいたら死刑は執行されないことかしら? だから? それがどうかしたの? 誰かが常に自分にとって大切な助言をしてくれる? そんな莫迦な話はあり得ないと思わない?」


 あり得ないだろう。しかし。


「でも、人が人の思想を裁くなんて、そんな権利だけは絶対にない!」


 沙良は笑った。何か大切なものを受け取ったというように。すごく嬉しそうに。


「そうかもね」

「そうさ!」

「でも、もうあなた一人じゃあどうしようもない事態よね」


 そう、事態は進行していた。


「おぉい、君ぃ。最期にぃ何か言い残すぅことはあるかぁ?」


 髭男が遺言を促すと、学生は一言だけぼそりと言った。


「……これも運命です」


 その納得したような声音にヒロユキの沸騰していた頭が爆ぜた。


「ふ、ふざけんなよっ!」


 この大人数なのに届くその呟きの違和にもヒロユキは気づかない。

 ただただ灼熱に支配されて叫ぶ。


「こんなつまらんことで死を納得するな! ふざけんな! 自分の意見を通しただけで人を殺すな! 思想犯? 認めてもいい意見といけない意見の違いもわかんねぇのか! 人の生き死にを決めるようなことじゃねぇよ!」


 ヒロユキの耳元で、沙良は囁く。


「熱いわねぇ。もっと飄々ひょうひょうとしているイメージがあったけど意外ね。まぁ、人なんて多面性があって当然だしね。自分勝手だけど、ヒロユキは一つだけ正しいことを言っているわ。

 人の死が仮にとても理不尽で突然なものだとしたら、理不尽に怒りをぶつけることも、身勝手に擁護することも同じくらい認められるものなのよ」


 思考の加熱されているヒロユキはその言葉の意味がよく分からなかった。


「でも、ここもおしまい。今回の終わりもさっきと同じ。さっきは『陽』で今回は『火』」


 ぎゅっと首にしがみついて沙良は言った。


「あーあ、人ってどうして他者を排除したがるのかしら?」


 その瞬間だった。それまで奇妙に静かだった人々がざわめきだした。

 誰かが切迫した声で叫んだ。


「火だ! 火が! 火が!」


 また違う誰かが恐怖に支配された声で叫んだ。


「逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!」


 そこまで混乱が巻き起こって、ようやくヒロユキは我に返った。


「あ? 何かあったのか?」

「ええ。あったわよ。出火したの」

「はぁ? いきなりかよ! どこで!」

「アタシ達は良く知っていると思うけどね」

「え?」


 誰かに後ろから押されてヒロユキはよろめいた。よろめいた時に前に立ち止まっていた人が走り出して――転倒する。

 その瞬間からわけが分からなくなった。

 人という人が走り出し、悲鳴が上がり、混乱が暴走を始める。集団ヒステリーだ。誰かに蹴飛ばされているのは分かるが、天地の位置は全く分からない。ただ、背中を守ろうとそれだけは考えていた。

 そして、静かになって顔を上げて――絶句することになる。


「何でだよ……」


 熱いと思っていた。

 いつの間にか周囲を火が取り巻いていた。周りには誰の姿も無く、その代わりとばかりに火の海があった。

 ヒロユキはその熱さに頭ではなくて背筋が冷える。

 その背中から沙良は楽しそうに言う。

 沙良の声色に恐怖は感じられない。


「逃げ遅れちゃったわね」

「あー、意味分かんねぇ。何で火の海だよ」

「ここは木製の建物ばかりだからね。まぁ、そういうこともあるかもしれないわよ」

「そんな一分や二分でこんな大火事が起きるかよ、幾らなんでもな」

「でも、現実に当りは火の海よ。どうするの?」

「ここって、避難所じゃねぇのかよ、全く……」


 どこにも逃げ道は無い。四方八方が火で囲まれている。

 というか、燃えるものがない広場なのに何でここまで火の海になっているのか分からない。それにしても他の人間はどうやって避難したのか? 何でいきなり火事は起きたのか? それよりもそもそもどうしてこんなことに巻き込まれているのか?

 しかし、そんな自問よりもはるかにその空気の熱さは恐ろしかった。


「ところで、さっき転んだときにケガは無いか?」

「大丈夫よ。ヒロユキはどう?」

「俺も大丈夫だが」


 それどころではない事態なのにどうでもいいことを心配している時点で、かなりヤバイのだろう。現実逃避万歳。いや、時と場合によるか。


「あー、クソ。逃げるぞ」

「どこへ?」

「どっかだよ」


 火は背後のほうが激しい。気がする。

 とりあえずギロチン台の方へ避難する。すると、そこにはあの学生がじっと佇んでいた。

 先に声を掛けたのは学生のほうからだった。意外と平静な表情だ。


「やあ」

「災難でしたね」

「これも運命だからと僕は愚考するよ。そして、最期に君と話し合える運命は素晴らしいものだと思う」


 ちょっとムッとした。だから、口調も荒くなる。


「そんな言い方は止めろ。逃げないのかよ。犯罪者も火事のときだけは逃げることが出来るんじゃねぇのか」

「死刑判決を受けてもそうなのかな? 勉強不足で分からないが、僕はそもそもどこで死んでも構わないと思っているんだ。だから、ここで死ぬのも運命だとは思わないかね?」

「思わない。それは怠慢じゃねぇか」

「それは素晴らしい考えだよ。僕と相反する人と語り合える。これも運命。素晴らしい運命に感謝しようかな」


 それは前向きなのかもな、とふとヒロユキは思った。

 こんな限界状況なのに、いや、こんな限界状況だからこそ自分の死を受け入れている。それはある意味でとても強いのかもしれない。ヒロユキにはそんなもの勘弁以外の何でもないが。

 目の前にまで広がっている火を眺めながら沙良に話しかける。


「降りろとは言わんが、ちょっと首が苦しいぞ」

「ひどーい。怖くて怯えてしがみついている女の子にそんなこと言うのぉ」

「ウソをつくな。そんな可愛げは別にいらん」

「アタシってカワイイ系のキャラで売ったほうが良いと思わない?」

「カワイイ子は決してそんなことは言わんぞ」

「芸能界の裏ってどうなっていると思う?」

「知らん。少なくとも人前じゃあそういう態度は取らんだろうな」

「そういう迂闊うかつさって必要だとは思わない? ほら、ギャップとか、萌えとか」

「一つ教えるが、それはかなり本末転倒だと思うぞ」


 それもそうかと沙良は笑う。目の前の絶対的な死を彼女も怖がってはいなかった。

 何だか色々なことが莫迦らしくなってヒロユキも笑う。


 火は段々と近づく。

 熱、熱、熱。

 熱い。

 これは現実としか思えない。

 しかし、そうとも思えないのだ。

 何だ? 本当に思う。


 一体、何が起きているのか?

 自分の身に何が起きているのか? 


「なぁ、そう言えばさっき、俺はよく知っているとかよく分からんこと言っていたよな? どういう意味だ?」

「大したことじゃないわよ。この火はね、ヒロユキが熾したものよ」

「はぁ? 何言ってんだよ? 俺がいつ火を……」


 熾していたと続けようとして思い出していた。猫を荼毘に付していたことに。


「……お前、大丈夫って保障してなかったっけ? なぁ、パートナーさんよ」

「あら? あなたはそんな簡単に人の言葉を信じる人だったの?」

「お前、小悪魔系で売ったほうが絶対に儲かるぞ。人気が出るかどうかは知ったことじゃねぇが。俺がプロデュースしてやるよ。芸名は花子か三太夫な」

「ようやく調子が出てきたわね。いい感じよ」

「ああ。そうだな」

「……思想犯にはギロチンで、放火犯には火炙りってね」


 そんなことを呟く沙良を見ながら、次は頑張ろう、とかそんなことを思った。

 死んでしまえば次など無いはずなのに。

 火は怒涛どとうのようにヒロユキたちを覆いつくす。

 燃焼効果で悲鳴も上げられない。

 沙良がどうなったか気になるが、背中には重みがない。気がした。

 しかし、そういう理解もほとんど夢現、幻のようで。

 熱さよりも酸欠で朦朧とし、意識を失う。

 そんな中で、

 肌が燃え、

 肉が焦げ、

 骨が崩れる。

 焼け焦げたタンパク質のにおいが、

 引きつる背骨が、

 全てが燃えつくされる感触が、

 知覚は出来ているが……理解は追いつかない。

 理解できたときには、

 自分はもう既に一かけらの消し炭でしかなく、

 一かけらの消し炭では知覚できない現実に気づき、

 無とはこういうことか、と考えた。


 そして、これが人の終末うんめいか、と悟った。

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