第8話 日本家屋と断頭台 その四

 ヒロユキは肩越しにちょっとだけ振り返る。

 そこには男の子がいた。

 そのすぐ後ろにいた男の子は俯き加減で顔がよく見えない。背格好からヒロユキと沙良の中間くらいの年頃だろうとヒロユキは検討をつけた。

 ヒロユキたちの後をつけるように歩く。かなりの早足だ。


 いつの間にかヒロユキ達は大通りから汚く、狭い路地裏に来てしまっていた。

 その両サイドの壁にはひらがなで汚く『世界を冒涜する運命――』などと宗教じみた文がペンキで延々と書かれてあった。

 それに混じって『たけこぷたあ』とか『どこでもどあ』とか書いていた。何でドラえもん? 意味が分からない。混沌としている。

 後ろの少年も沙良が手を引っ張っていく方向を予知しているように歩く。

 まるで通い慣れている様に道を覚えこんでいる足取りだった。


 そこでヒロユキは気づいた。いや、確信した。

 これは沙良が前から少年を尾けているのだ。相手の行く先を予測して動いているのじゃないか。

 器用な真似だとヒロユキは思ったが、もうこの程度では驚かない。

 少年は声変わり前の高い声で何かを呟いていた。かなりの早口で聞き取りづらいが、何とか聴こえてきた。


「――アミナダブにナアソンが生まれナアソンにサルモンが生まれサルモンにラハブによってボアゾが生まれボアゾにルツによってオベデが生まれオベデにエッサイが生まれエッサイによりダビデ王が生まれた」息継ぎの音。「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれソロモンにレハ――」


 手を引かれていたヒロユキが一気に加速し、沙良を引きずって走り出した。


「ちょ、ちょっと、ヒロユキ! どうしたの?」


 ヒロユキは答えずに、ただ走る。路地裏を抜け、大通りに一旦戻るがすぐに近くの路地に突入し、息が切れ足も重く、上腕が攣りそうになりつつも走る足は止まらない。

 人とぶつかりそうになっても器用に避け、目の前に障害があっても方向を変えてただ走り、走る。

 気がつくと、人のいないところまで来ていた。一旦抜けたのにまた路地裏にいた。

 ヒロユキが我に返って立ち止まった時には乳酸で手足がだるく、急激な運動のせいで頭が引きつるように痛かった。

 単純な酸欠だけど、キツイ。


「く、くらくらする」

「大丈夫……?」


 体を折って咳き込むヒロユキ。砂埃が気管に入って喉がいがらっぽかった。

 心配そうに覗き込む沙良はいつもと違い年相応に幼く見えた。その仕草に一瞬脳裏を過ぎるものがあったが――安心させるための笑顔を作ったヒロユキはすぐに忘れていた。


「いや、俺としたことが取り乱してしまった。面目ない」


 しかし、沙良は相変わらず平静だ。

 あれだけ走ったのに何ともないらしい。


「でも、本当にどうしたのよ、一体?」

「あいつは一体何なんだ?」

「『マタイの福音書の系図』よ。新約聖書の一節を暗誦していただけ」

「やっぱりか!」

「知っていたの?」

「はっきりと覚えちゃないがな。昔教会に通っていたんだ」

「あ、そういえばさっきそんなことを言っていたわね。でも、それと逃げるのがどう関係しているのよ」


 ふーっとヒロユキは深く息を吐いた。溜め息ではないが、そう受け取られても大差ない。


いやだったんだよ。あんなのが」

「キリスト教が、ってことで良いの? ヒロユキは全世界で最も信仰する人間の多い宗教のひとつを敵に回すわけ?」

「いや、そうじゃなくてどう言えば良いかなぁ……幼い頃ってすぐに何かを好きになったり嫌いになったりするだろ。俺はただ厭がってたんだよなぁ」

「何それ? 意味分かんない。ヒロユキは何が嫌なの?」

「怖かったのかもなぁ。えっと、カトリックだから神父で良いのか? その人が無愛想だったから怖かったのかもしれないし、置物? そういうのが不気味だったせいかも」


 沙良は解らないって首を振った。


「そんな理由であんなに必死に走ったの? 臆病すぎでしょ」

「まぁ、嫌なことがあったのは本当なんだけど、確かに。何でだろ? 気がついたら走っていたって感じだ。俺にも分からんよ」

「よく分からない……ね」


 沙良はにやっと笑って歩き出した。

 今度はどこに連れて行かれるのだろうか、と思っただけで流されるヒロユキだった。

 ふと雲を見上げたことを思い出した。

 風に身を任せるのは楽だろうなとか思っていたが、似たような立場のヒロユキはそんなに楽ではない。


「分からないって答えって素敵よね」

「そうか?」

「曖昧にできるって人間くらいのものよ。人間の定義ってそれでしょ?」

「違うだろ。つーか、他の生き物が悩まないなんて証拠があるのか?」

「そう。ヒロユキは正しい。もしかしたら、白亜紀に存在した恐竜だって恋に恋焦がれていたのかもしれない。犬だって夢を見ることが証明されているからね」


 そうかもしれないけど、それが本当かどうかは確かめられない。


「犬の見る夢ってどんなのかしらね?」

「俺は犬じゃないんでね。分かんないよ」

「そうね。生憎とアタシも犬じゃないようだけど」


 沙良は歩く速度は緩めずに全身で振り返った。

 要は後ろ歩きで話しかけてきた。他に人はいないけど、路地裏は汚くてごみごみしている。何でつまずくか分からない状態だ。


「前を向けって。危ないぞ」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ」

「大体、次はどこに向かっているんだよ?」


 ヒロユキは足に引っかかったゴミを蹴飛ばした。道はどんどん汚くなってきている。


「ここを抜けると広場があるの。大きな広場でね。そこは色々な目的で使われるの。お祭りや避難所。でも、今回は裁判所としてよ」

「それを見るわけか」

「その通り」


 頷いた沙良が後ろ歩きから普通の状態へ戻る。

 その時にヒロユキはキツイ臭いを発しているゴミを避けた。

 ふと違和感を覚えて、そのゴミを注視する。

 よく見ると、それは猫の死体だった。

 ヒロユキは考えるより先に足が止まった。三歩前にいた沙良を呼び止める。


「ちょっと待て、沙良」

「どうしたの? 裁判は間もなく始まるわ。急ぎましょう」


 なおも先へ進もうとする沙良にヒロユキは猫の死体を指差し、示した。


荼毘だびに付す。何か燃えるもんと火種はないか?」

「オーケー。藁はその角に大量に積んでいるわ。火種はライターがあるし」


 沙良は納得したように頷く。そして、袖から手品師のように百円ライターを取り出した。

 何から何までお膳立てされているが、もうこの程度では驚けない。

 ヒロユキ達はてきぱきと手際良く準備をした。猫をヒロユキの着ていたTシャツで包み、積んだ藁に横たえる。そこでここが汚く狭い――路地裏であることを思い出す。

 どう考えても木造家屋に挟まれたこの空間では危ないだろう。


「あっと、ここでやらないほうが良いか。火事になるな」

「大丈夫よ。全く問題はないわ。それより早く弔ってあげましょうよ」

「そうか。信じるぞ、パートナーよ」


 ヒロユキは無責任に言って藁に火を点けた。

 藁は一気に燃え上がる。あっさりと猫にも火がついた。蛋白質の焦げる臭いが立ち込めたが、気にならなかった。


「猫ってさ。死ぬときにどっか行くよな」

「そう? アタシ猫飼ったことないから知らないわ」

「まー、俺んちのがそうだっただけかもな。トラの母親がそうだったんだ」

「そう……」


 ふと思い出していた。

 もう、ずいぶん昔の話である。

 トラの母親がいなくなった時――死んだと幼心に理解し、泣きじゃくるヒロユキに近くの教会の神父が言ったのだ。

 慰めるつもりだったのだろう。

『父の元へ還っただけです。皆が辿る道です。泣いてはなりませんよ』

 ヒロユキはそれから自らの意思では教会へ絶対に近寄らないようになった。

 それだけの話だ。

 火は消えるのもあっさりとしたものだった。

 不思議なことにあの程度の火力なのに猫の死体は燃え尽きてしまった。

 少しだけくすぶっていたけど、多分大丈夫だろう。燃えカスを踏む気には――さすがになれなかった。


「じゃ、行くか」


 ヒロユキは感傷に浸りもせず、あっさりと歩き出した。


「あっと、ちょっと待ってヒロユキ」

「どうした? 広場で集会見に行くんだろ」


 沙良はにやにや笑っていた。面白くて仕方ないと言う具合に。


「方向が逆よ」

「…………」


 ヒロユキは無言のまま、さっさと方向を変えて進む。

 沙良は変わらぬ笑顔のままヒロユキに追いつき、そのまま背中に飛びついた。

 しがみついて、エヘヘと笑う。ヒロユキの顔をわざわざ覗き込むようにして。

 別に痛くはなかったし、重くもなかったが、殊更無愛想な声でヒロユキは告げる。


「降・り・ろ」

「イ・ヤ」

「…………」


 何も言わずにヒロユキはちゃんと背負った。


「ふふふっ」と沙良は幸せそうに笑った。

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