第5話 日本家屋と断頭台 その一
――絶望は横たわっているんじゃねぇ。絶望は狼のように口を開けて待っているんだよ。豚のように横たわっているのは希望の方だ 『大食い』
+++
目が覚めると、伝統的な日本建築の町並みが広がっていた。
鬼瓦が屋根に敷き詰められ、漆喰の高い塀に囲まれている武家屋敷だった。
ただし、壁には大きく『いっつおおるらいと』と黒のペンキで殴り書きされていた。
他にも壁には色とりどりの落書きがあった。赤のペンキで『ぐっどじょぶ』、黄色で『ごっどぶれすゆう』とか。
簡単に言えば、ヤンキーの落書きで壁が化粧された日本家屋――正確には落書きは壁だけなので、家屋は無傷だが――が並んでいるのだ。何軒も何軒も、である。
人影は自分達の他見当たらない。
静かだった。
風の吹く音も聞こえる。
ヒロユキは地面にしゃがんで土に触れた。ひやりとしていた湿気の混じった土。
日差しも弱くなっていて肌寒いくらいだった。空を見上げると雲があり、太陽が隠されていた。
ここには沙漠の面影がなかった。
先程までの沙漠が夢だったのだろうか――という自問はしない。しても仕方ない、という結論が出たのにもう一度するのは芸人だ。
「これは夢かなぁ、沙良?」
だから、自分ではなく、他人に訊いた。
「さぁね」
そっけなく肩をすくめる沙良の服装は学生服から変化していた。
町娘風と言うか、萌黄色の簡素な着物を着て、髪をアップに纏めている。少なくとも今の風景には学生服よりも格段に似合っていた。
ちなみにヒロユキは相変わらず学生服だ。
もうどうでも良いけど。
「可愛らしい着物じゃないか」
「そうでしょ。何でも似合うって罪だわ」
ルンルンという声の聞こえてきそうな仕草で沙良は言った。
「ここらで熊の着ぐるみでもあれば良いんだが。顔の隠れるやつ」
「ヒロユキ、そんなのを着せたいの?」
「着せたいな。沙良の魅力は三百パーセントアップだ」
そう真顔で告げると、沙良は芝居っぽくよろけて天を仰いだ。
およよよ、とわざとらしく嘆きながら言った。
「そういう趣味だったんだ……」
「おうよ。俺のあだ名はミスターマニアックだぜ」
「犯罪ね。死刑よ」
「法治国家に属している人間とは思えない発言は止めなさい」
「何がどこでどういう制度かなんて、その国々で違うもんよ」
「正論だが、せめて言論の自由は認めようぜ。近代国家の一員としてはさ」
「そう願いたいわね。ところで、喉は渇いてない?」
言われてみると喉が渇いていた。
痛いくらいにカラカラだった。
その瞬間にあの血の感触を思い出してゾッとしたが、一瞬で忘れた。跡形もなく。そして、気にならなくなる。
「そう言われてみれば渇いているな」
「井戸があそこにあるから飲めば。水を飲むと人間って落ち着くでしょ」
「そうさせてもらうよ。さすがパートナー」
あくまでも錯覚かもしれないが、喉の渇きを潤したかった。
井戸は木枠に囲まれたもので、釣瓶を落とす一般的なものだった。
もちろん、井戸を見るのは初めてだけど、時代劇でよく見るタイプを思い出してもらえれば良い。
どうにかこうにか水を汲み上げ、その桶に直接口をつけた。
ごくごくと飲む。
口の端から少し零れたが、桶一杯分飲み干した。思っていたより体は渇いていたらしい。
ふぅっとヒロユキは溜め息を吐きながら座り込んだ。制服が汚れることなど気にもしなかった。井戸に体重を預けてへたり込む。
「……しんど」
冷静になって考えてみると、おかしなことはたくさんあったが、考えるのも面倒くさい。
空を見上げてみた。
雲がぽっかりと幾つか浮かんでいる。ゆっくりと流れていく。風に身を任せると言うのは気持ち良さそうだな、と思った。
「どう? 落ち着いた」
ボーっとしていたせいで、沙良がいつの間にか傍に立っていることに気づかなかった。
ふと違和感を覚えるが、それが何なのか分からない。
「眠いな」
「落ち着きすぎ」
「疲れた」
「そうでしょうね」
「ここはどこ?」
「さぁ?」
「……寝ても良い?」
「ダメに決まっているでしょ」
「ひ、膝枕を……」
「却下でーす。ペイが発生しまーす」
「あ、あと五分だけぇ。むにゃむにゃ。あ、これ寝言です」
「学校に遅刻するわよぉ!」
「ちぇっ。冷たいよ、ママン」
ヒロユキはズボンを払いながら立ち上がった。
立ち上がって、先ほどの違和感の正体に気付く。
何だか、沙良、成長していないだろうか?
理由は分からないが、先ほどの沙漠よりも沙良の身長が伸びているようだった。
でも、考えても仕方がない。訊いても教えてくれない気がするし。
「まぁいいや。ここって何だ?」
「んー、武家屋敷前よ。ほら、見ときなさい、あの瓦細工の見事なこと!」
「そうだな。で、これからどうすれば良いんだい、マイパートナー」
「単純なことよ。好きにすれば良いわ」
「放任主義は止めてもらえませんかね、パートナー。そういう態度が子供の非行を促進させているんですぜ」
「知らないわよ。そんなおつむの軽い奴のことなんて」
「オー。人を選ぶような発言は控えてくれい」
「その喋り方止めてくれればね」
「りょーかいでーす」
水を飲んで余裕が生じて、テンションがおかしくなった。少し落ち着こうと思う。
「そういえば、ここって武家屋敷前だよな?」
「そうね。そう言ったわよ」
「ってことは、武士がいるんだよな」
「そうね。武家屋敷には武士が住んでいるのが一般的ね」
「だったら、そいつらにいきなり襲い掛かられることがあるんじゃねぇか? 刀で斬りつけられるとかさ」
「どんな無法地帯よ。大丈夫。帯刀は既に禁じられているはずだから」
「何だそりゃ」
ヒロユキは今の言葉にふと違和感を覚えた。
武士がいて帯刀が禁じられている。
刀を持たぬ侍を本当に侍と呼んで良いのだろうか? そういう風習ができたばかり? もうそんな時代は当の昔に過ぎたのに? それとも廃刀令の出た明治直後?
何か根本的に間違っている気もした。
が、そもそも、色々なことがよく分かっていないヒロユキには、やはりここも普通ではないようだ、と結論付けるしかなかった。
俯いて考えていたヒロユキの腰の辺りを沙良が叩いた。
ヒロユキが顔を上げると、沙良はこちらを覗き込むように見上げながら言った。
「おっと、そろそろ来るわよ」
「……何が?」
「もう少し」
「だから、何が?」
「来たわ」
三度目の問いは発することができなかった。
沙良の言葉とほぼ同時にヒロユキの肩を後ろから叩く者が現れたからだ。
目の前にいる沙良ではもちろんない。
ヒロユキは計ったようなと言うより、謀ったようなタイミングに驚愕する。しかし、ぎこちない動作でゆっくりと振り返った。
そこには書生風の男性がいた。
ボサボサの髪でひょろりと痩せ、薄汚れた袴に羽織、中途半端な笑みを張り付かせている。愛想笑い?
実際の身長は中肉中背のヒロユキと大差なさそうなのに、猫背でやけに小さく見えた。
貧相な男子学生っぽい。
男は唐突に力強く言った。
「君、かなしいかな!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます