第4話 沙漠にて その三
どのくらい歩いたかとっくに分からなくなった頃、ふと会話が途切れた。
砂を踏み締める音と俺の呼吸音しか聞こえるものはない。
太陽は変わらず高い。
ずっと中天のままで、夜の訪れを想像できない変化の無さだった。
もしかしたら、ある期間中の極地のようにこの沙漠にも夜はないのかもしれない。
そのまま無言の行進が続く。
もしかしたら少女が疲れたのかなと思って見たが、歩調が乱れているということもない。むしろ俺の歩き方よりも規則正しい。
声を掛けよう。
これは質問する良いチャンスだと、口を開こうとしたその瞬間に少女は、「ねぇ、」とタイミングよく言った。
「何?」
「考えてくれた?」
「何を?」
「アタシの名前」
そう云われてみれば、呼び名を考えてくれとか頼まれていた気がする。
「考えてないな。花子以外」
「花子以外で答えてね」
「失礼だぞ! 全国の花子さんへ誤れ!」
「間違ってどうするのよ」
「よく分かったな。お父さんは嬉しい」
「で、お父さん。可哀相な娘は名前が欲しくて困っているんですけど、いいアイディアはありませんか?」
「お父さん、そういうの苦手なんだよなぁ」
あだ名を付けられたくない人クラス№1。
絶望的かつ末期的なネーミングセンスには定評があるのだが……そんなに褒めるなよな?
大体、好きに呼んで良かったんじゃないのか、と俺は心の中でだけ慎ましく反論した。
「どんな名前が良い?」
「アタシらしいの!」
「……それって注文なしに匹敵するくらい困る答えだぞ」
「じゃ、可愛いの」
「花子に決定」
「もうちょっと頭を使ってよぉ!」
何が不満なんだよ、と思いつつ頭を働かせる。
期待と疑惑に満ちた少女の視線が痛い。
ぱっと思い浮かんだのは――。
「三太夫」
「それって貴方のあだ名じゃない!」
「砂漠から貴重な水を取って、
「莫迦にしてんの!」
「水子」
「不吉! と言うか、女の子にそんな名前付けるな! 縁起でもない!」
「ミズガルズオルム」
「ファンタジーか! つか、おかしいでしょ! ツッコまれないと分からないの!」
「じゃあ、三太夫」
「さっきも言った!」
芸人気質な自分が憎い。
そろそろ期待の視線が疑惑の視線になりそうだったので俺は必死になる。
思い浮かぶのはどうしようもなく殴られそうなものばかりだ。
ふっ、とその瞬間、自分が希薄になるような感覚に襲われた。
それは悪いものではなかった。
試験中にこの感覚になると大概良い結果しか出ない。
物事を上から見下ろしてくる感覚。
順序に流れるイメージ像。
砂。
沙漠。空。
太陽。熱い空気。砂丘。
影。足跡。会話。手のひらの感触。
学生服。陽炎。地平線。少女。
……水……『沙』。
頭で考えるよりも先に口が動いていた。
「――沙良」
今まで莫迦なことしか言ってなかったからか、少女は真剣に驚いたようだった。
少女がパッと花のような笑顔になるのを見て、俺は安堵した。
「沙良ね。なかなか良いじゃない。由来は何なの?」
「由来と言うか――」
唐突に俺はハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。
衝撃と言うよりは衝動。
少しの間、生涯でこれほどの圧倒的な体験をしたことのない俺にはそれが何か分からなかった。
「どうしたの?」
「いや……由来は、な」
のどに痛みが奔ったが、無視して――いや、我慢して続けた。
「沙漠に良いもの。必要な、美しい水、って感じ。可憐だろ?」
「可憐ね!」
「気に、入った、か?」
「気に入ったわ!」
少女――沙良は嬉しそうに、それはそれは嬉しそうに破顔した。
「これからもヨロシクね! えっと……えっと、ヒロユキ!」
沙良はどこか照れたように俺の名前を言った。
それは声音とアクセントのせいだろう。
聞きなれない新鮮な調子だった。
――実は沙良が彼の名前を言ったのはこれが初めてだったのだが、九田弘之にはそれに気づく余裕が残されていなかった。
目の前が真っ暗だった。
頭痛も酷い。
会話を無理して続けたせいか喉の奥が破れた。
どろりとした血の感触に狂いそうになる。
美味しい、のだ。
俺は
それでようやく自分が『渇いて』いるのだと悟った。
凄まじい、本当に理解できないほどの渇きだった。
あああ―――。
……意識が途切れそうになる。
あ―――アぁっ――――。
……耐えられるようなものではなかった。
何故こんなに唐突に致命的なのかまったく不思議だった。
特に何かをしたと言うわけでもないのに、今まで沙漠の強行軍で楽だった分の負債を払わされているようだった。
天地の区別がなくなり、立っているかどうかも判らない。
くらくらと、くらくらと。
まるで、恋に恋するように。
ストレスがピークに達したように。
「―――あァああアあぁああアアあっ」
俺の声にならない声。
沙良はそんな俺と関係なしに、軽く言った。
嬉しそうに。子供の如く。子供らしく。
その声は辛うじて俺の耳にも届いた。
「いや、名無しは辛くってね」
何もしていないと言うのは、間違いだった。
彼女に名を与えた。
それだけと言えば、それだけだが。
俺は気を失って、それ以上の結論と意識を失った。
そして、世界が始まった。
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