第2話 沙漠にて その一

 ――この空間、この時間、この全てがアタシの夢なの…… 『夢界』


   +++


 目が覚めると俺は沙漠に佇んでいた。

 もう一度言おう。

 沙漠だ。

 沙漠にボーっと突っ立っていたのだ。

 しかしよく考えると授業中の今、夢以外はありえないと気付かされた。


「ヤッベ!」


 そこは地平線が霞むほど広大な砂の海だった。

 視界の上半分が空に、下半分は砂に埋め尽くされている。

 焼けるような太陽がぽっかりと浮かび、陽炎――空と砂との境界が曖昧――まるで幻のようだった。砂しかない。

 ただ、足元から伝わる熱は現実感を伴っていた。非現実的なまでに。


「つか、何で沙漠だよ?」


 俺はどういう類の夢だと訝る。

 五時間目の授業は確かに眠い。そして、眠ろうとしていた。しかし、勤勉的かつ模範的な優等生の自分がここまで寝込むなんてミスを犯すとは思えない。もちろん、心にもない大嘘だが――今までの小中高の十一年間で、ここまで本格的に寝込んだ事がないのは本当だ。


 二度三度と瞬きを繰り返すが、幻の世界は消え去らない。

 念のために頬をつねってみるが左頬は痛いだけだった。

 凄まじい夢である。


 言葉に迷うが、授業中にこんな深く眠れたのは初めてだった。新境地か? 新しい扉を開いてしまったのか? 寝て覚醒したのか? 我ながら訳が分からない。


 次に何をして良いのかも分からない。どうすれば目覚めるか見当もつかない。

 頬をつねる以外の行動が思いつかない自分の独創性のなさに愕然とするが、いやもっと違うところに悩めよ、とも思った。

 大丈夫、まだ大丈夫だ。


「お――――――――――――――いっ!」


 と、俺は声の限りに叫んだが、乾いた空気で喉が痛くなっただけだった。


「お――――――――――――――いっ!」


 でも、まだ叫ぶ。返事はない。誰もいないのだから当然だけど。


「はなぁ―――――――――――っ! 好きだぁ――――――――――――っ!」


 叫んでから恥ずかしくなった。

 調子に乗るんじゃなかったと猛省する。

 座ろうとして、「アツッ! 砂アツ!」あちーあちーと飛び跳ねる。学生服の薄い生地ではとても防御しきれない。そう、俺は学生服だった。


 まぁ、夢だから良いかと自分を慰める。

 情けなくても起きてしまえば忘れるのが夢の常というものだろう。

 大体、砂漠に一人でいるとか、フロイト先生はどんな意見を持つだろうとか、そういうことを考えるとちょっと悲しい。

 そもそも学生服というあたりが、いかにも夢っぽいと言うか、普段通りすぎて夢っぽい。


 何だか色々考えるのがバカバカしくなってきた。

 大体、沙漠が夢だろうと――今の自分にはどうでも良いじゃないか。

 そう、今の自分に必要なのは――。


「勇気と想像力。それとちょっとのお金かなぁ……」

「何でどっかの喜劇王なのよ?」


 迅速確実適切なツッコミを受けた。

 ビックリして振り返るとそこには女の子がいた。


「…………」

「……どうしたの?」


 黙ったままじっと凝視すると、女の子は不思議そうに首を傾げた。

 数秒前までは気配もなかった場所に、五歳くらいの少女が確たる存在感を持っていた。

 熱くないのか、砂に直接女の子座りしている。長い髪だ。色がびっくりするくらい白く、丸みを帯びた顔立ち。うちの学校の制服を着て、大きな瞳がその年頃には不釣合いに理知的な輝きを放っていた。一言で評せば、賢そうな可愛いらしい子だった。

 俺が夢だなと確信するくらい、浮世離れした雰囲気の持ち主である。


「オハヨ」


 と、女の子は場違いなくらい軽い口調で挨拶してきた。

 もっとも、どういう口調が相応しいのか、正直俺にも分からなかった。

 とりあえず、挨拶がちゃんと自分から出来る点で俺の心証は良い。

 こう見えても礼儀にうるさいのだ、俺は。


「おはよう」と俺も鷹揚に頷く。

「うん。今日もいい天気ね」

「まー、雲一つないな。快晴だな」

「ここじゃ、雲があるほうが珍しいけどね」  

「雲が出たら、さっさと逃げたほうが良いんだろうな」

「何で?」

「いや、洪水とか」

「大丈夫よ。そういう心配はしなくていいわよ」

「ありがたいのかなぁ」

「だって、雲が出てから逃げても手遅れでしょう?」

「神は死んだ!」


 と、そこで女の子はくいっと、眉を吊り上げて面白そうに笑った。


「って言うか、いきなりそんな心配する? 普通『お、お前誰だ!』とか驚かない?」

「あー、いや、知り合いは選ぶんだ」

「……失礼ね、貴方」


 と、いきなり不機嫌になった。表情のコロコロ変わる子だ。

 夢でなければ、係わり合いになるのも面白いかもしれない。

 いや、もう係わっているけどさ。


「大体、喜劇王なのってツッコミは正しいようで、間違っているな。ハロルド・ロイドかバスター・キートンの可能性がある」

「一般的にはチャップリンでしょ。と言うか、今更ダメ出し? しかも、重箱の隅をつつくような。ってか、何でそんなこと知っているのよ」

「うむ、俺が人を選ぶ、という証明のつもりだ。ウザイだろ?」

「うん。ウザイ。ちょっと、いじめっ子入ってるし」

「で、君は誰?」

「名前はないの」

「じゃ、吾輩」猫である。

「……面白くない」

「そりゃそうだ。ちょっとびっくりするくらい面白くないよな。他の案としては名無しの権兵衛さん、とかどうだ?」

「どうだって……もう突き抜けて発想が古い。と言うか石化している。更に言えばちょっとどころじゃないくらいビックリしちゃって面白くない。ああ、日本語が乱れるくらいに面白くないわ……。何か屈辱ね。貴方、飼い猫の名前はタマでしょう」

「いや、トラ。ぶち猫だけど。君よりは年を食っているけどね、こう見えてもまだ若いんだけどね。花子さん」

「そうなの?」

「そうですとも」

「じゃあ、オジサンで勘弁してあげる」

「スタートがオッサン扱いっ? そりゃないだろ!」

「もう、わがままね!」

「えー、子供に子供扱いかよ」

「ふふんっ。で、本当に名無しの権兵衛で良いの? あ、花子だっけ?」

「いや、貴女が何者なのか教えて下さい」

「分かった! 分かっていたけど分かったわ! 貴方って莫迦なのね!」

「失敬な。まー、人より劣っていても莫迦ではないと信じたい。そんなハートが大切なんだと思うって偉い人が言っていたら良いなぁと思わないでもないかも」


 一回り年下の女の子に冷たい目で見られるのはなかなか辛かった。

 遠い目で溜め息を吐かれては、こちらとしても立つ瀬がない。ん? もしかしたら、最初からないのか?


「で、君は? 俺の名前は九田弘之。あだ名は三太夫」

「……あだ名の由来が気になるわね、アタシとしては」

「テメェ、そんなこと気にすんなよ!」

「えー、キレるんだー」

「冗談だ。気にしないで欲しい。で、君の名前は?」

「花子」

「合ってるじゃん!」

「ウソ」

「……すまん、今時のジャリがそんな高度な駆け引きを要求してくるとは知らんかった。これからはそういうつもりで対応しよう」

「あははっ、ごめんなさい。でも、間違いってわけでもないのよ。貴方がそう言ったから」

「? どういう意味?」

「アタシは貴方のパートナー。だから、貴方が呼びたいように呼べば良いの」

「パートナー? 何の?」

「ここはどこ?」


 どこと言われても正直、困るからそのまま答える。


「砂漠だね」


 個人的には『砂』よりも渇いているという印象が強いから、『沙』の一文字を使いたい。

 ここは『沙漠』だ。


「そう。果てしない砂の迷宮。あまりに単純すぎて逆に抜け出すことは困難」

「むぅ、そこはかとない絶望感が……」

「だからパートナーのアタシがいるんじゃない」

「つまり、君といればここから脱出できる?」

「さぁ?」と、女の子はイタズラっぽく笑った。


 はぐらかされても嫌な印象は受けなかった。

 正直、この女の子との会話が俺は楽しくなってきていた。別にロリでもないよ。


「……まぁ、良いや」

「良いの?」

「水はなく、方角も分からなければ、知識もない。おまけとばかりに記憶喪失。そんな中で不思議な女の子と会った。さて、この状況どう思う?」

「どう思うのかしら?」

「夢だ、と思う」

「それって現実逃避じゃない?」

「関係ないね。だって、どうしようもないだろ。何もないんだから」

「何もないわけじゃない。貴方がいるし、アタシもいる。十分じゃない」

「え? 不十分じゃない?」

「逆よ!」


 俺は思わずくくっと笑った。

 確かに彼女がいれば退屈しないで済みそうだ。

 早く起きたほうが良い? 授業の方はどうするんだ? そんな正論は放っておけ。どうせ今の授業は古典。しかも今田の古典だ。三蔵法師でもあるまいし、経典に興味はないのだ、俺は。

 それにこれからの道中どこまで行けるか分からないが、一秒でも長く誰かといられるのは幸せなことかもしれない。それが面白い女の子なら、喜ぶべきだろう。

 女の子もニコニコと楽しそうに笑っている。

 何となく心強い気がした。

 そして、女の子はぴょんと体重を感じさせない動きで立ち上がった。

 それでようやく俺の目線より少し上程度の身長だった。


「さぁ。行きましょう」


 微笑みながら左手を差し出した。

 俺はその小さな手を見ながら考える。なぜ、左手を差し出してきたのだろう? と。

 ちなみに、俺は左利きだ。

 ……まさかそれを見越しての行動だろうか?

 どう思おうと、きっとこの子は関係ないとばかりに微笑んでいてくれるだろう。

 会ったばかりなのにそう確信できる自分が不思議だった。

 俺は差し伸べられた手を掴んだ。

 柔らかい。

 それは前へ進む力になる。

 不安は幾らでもあった。

 独りだったら竦んでいたかもしれないし、諦めていたかもしれないし、はたまた自棄になっていたかもしれない。

 一番可能性が高いのは現実逃避だろう。

 夢の中で何を言っているのか自分でもよく分からないけど。

 しかし、隣に立つ人がいるという事実は心強い支えになった。

 夢かもしれないが、手の柔らかさと温かさを感じる自分自身を疑うことは――あまりにも無為だ。

 だから――自分に気合を入れるように言った。


「行く、か」

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