二章:お兄ちゃんと周りの人たち その8

 僕はリビングで紅茶を飲みつつ、文庫本に目を落としていた。

 内容は青春、恋愛、時々SF、SFっていうのは少し不思議って方のやつ。

 僕は映像媒体よりも紙媒体を好むタイプだ。

 小説を好んで読むのは一つの物語を消費するまでに時間がかかるからというそれだけ。

 時間つぶしにはちょうどいいのだ。

 反対にテレビはあまり好きじゃない。

 理由は静かな空間が好きなのだ。

 こうして、静謐に包まれた部屋の中でページをめくる音とティーカップを動かす音がぽつん、ぽつんと流れていく。

 対して叉鬼はテレビが好きだ。

 リビングに居るときにはずっとついているくらい。

 僕自身はテレビが常についている空間が好きではないけれど、叉鬼がそれで楽しそうにしているのは好きだ。

 彼女の心地よい空間というだけで不思議と苦にならない。

 ――ガチャリ。

 リビングのドアが開く音がした。

 叉鬼が何か取りに来たのだろうかと思って振り返るとそこに居たのは叉鬼ではなかった。

「あ、先輩。ここに居たんですね♪」

 叉鬼の友人、園田あみはまぶしい笑顔を振りまいてきた。

 妹の友人を邪険に扱うわけにはいかない。

 僕は今いいところだったのにと思いつつ栞を挟んで本を閉じた。

 ついでに、一人の時間を邪魔された。

「どうしたの?」

 要件をさっさと済ませてここから立ち去って欲しいという思いから僕は尋ねたのだが、園田は僕の質問を無視してこっちに歩いてきた。

「あの、隣良いです?」

「座りたいなら退くけど?」

 僕は本を手に取ってソファーから腰を上げようとした。

 しかし、園田は僕の袖を掴んでくる。

「いえ、あの……先輩とお話ししたいんです。ダメです?」

 話したいって、いったい何を話すって言うんだ。

 とは思ったけれど、こいつは妹の友人だ。

 僕はため息を吐きたいのを我慢してソファーに座りなおした。

「構わないけど、なに?」

 園田は「やった」と小さく呟いて僕の隣に座ってくる。

「先輩って写真撮ってますよね」

「そうだね」

「私、先輩の写真が好きで、それでお話ししたくて」

「そうなんだ」

 写真のこと、普段は褒められると嬉しいんだけど、何か心に響かないものがあった。

「今年も、コンテスト出るんですか?」

「まあ、写真部の顧問がうるさいから」

「大変ですね」

「いや、そうでもないよ」

 今年も前回と同じ、日々撮った叉鬼の写真の中で一番いいものを出す、それだけだ。

「被写体が良いからね」

「今年も叉鬼ちゃんの写真にするんです?」

「まあね」

「わぁ、楽しみですっ! 実は叉鬼ちゃんと仲良くなったのってあの写真のおかげなんです」

「そうなの?」

「はい、クラスが一緒になって、あ、あの写真の子だって……それで仲良くなりたいなって思ってたんですよ」

「叉鬼は色々な顔を見せてくれる、だから写真を撮っててすごい楽しいんだ。普段は明るくて、太陽みたいな感じ、だけどふとした瞬間、あどけない美しさっていうか、それこそ例えるなら月みたいな、そういう瞬間を撮れると、嬉しくなる」

 賞を取ったのもそうだった。

 叉鬼の振り返りざまを撮った写真。

 カメラを向けられているのにも気づかずに「え?」みたいな顔をしている。

 そのあどけなさと、美しさ、柔らかな光のような、月の――。

「そうだ」

 僕はソファーから立ち上がる。

「月をバックに撮ろう――そうすればあの美しさがもっと引き立つ」

 僕はスマホを手にしてここ一か月の天気、月の満ち欠けを調べ始めた。

 もしも撮るなら満月、いや違う。叉鬼の美しさの本質は完全なものではない。

 だとするなら……十六夜。

 完全から外れた月、それこそが相応しい。

 今月の十六夜は、晴れだ。

 僕は内心でガッツポーズをした。

「あの先輩」

 園田に呼び止められて我に返った。

「なに?」

「写真、あんまり飾ってないんですね」

「写真? ああ、僕の写真ってこと?」

「そうです、賞とか取ってるのに」

「飾るって発想なかったな」

「えぇ~もったいないですよ! 絶対! 飾りましょ!」

 写真を飾る。もしそうすれば、もっと叉鬼を感じられるようになる。

 この部屋がいろんな瞬間の叉鬼で満たされる。

「いいかもしれない」

 僕が呟く。

「いいですよ!」

「ありがとう、園田さんが居なかったら思いつかなかった」

 僕はそう言って、ティーカップをシンクへ置いてからリビングを出た。

 写真を選定しよう。

 それで、叉鬼に話して、彼女が良いというなら額を買ってきて飾ろう。

 リビングは兄妹の共用スペースだから叉鬼に相談するのが先決だが、僕の心は踊っていて、叉鬼の写真を選ぶという行動に出ざるを得なかったのだった。


      ◇


 その日の夜のこと、入浴を済ませて自分の部屋に戻る。

 夕食の時間にでも叉鬼に写真のことを提案しよう、そう思ってドアノブに手をかける。

 ドアを開けて部屋に入ると叉鬼の姿があった。

「あ、お兄ちゃんお帰り」

 振り返った叉鬼の目を見て鳥肌が立った。

 いつもの輝きはなくて、この世全ての闇を詰め込んだみたいにくすんだ黒い眼をしていた。

 声が詰まってどうしてここにいるんだ? なんてありきたりなことばすら喉から出てこない。

 叉鬼は僕の部屋の隅にあるコンセントのカバーを開けて中身を見ているようだった。

「リビングにあったからもしかしてって思ったけどこっちにもあった……」

 ぼそぼそと何かを話しているのが聞こえてくるが内容は理解できなかった。

 あった、なんて言っているものの僕には何があったのか分からないし、叉鬼の纏ってる雰囲気的に聞くこともできなかった。

「ねえ、何かお話ししてよ」

「え――」

「せっかくお兄ちゃんのお部屋まで遊びに来たのに、だんまりとかつまんない」

「あっ……えっと……」

 必死に頭を回して僕は「そうだ、リビングに写真を飾ったらって園田さんに言われたんだ――」

 口にした瞬間、パキンと何かが割れる音が聞こえた。

 音の出所を探して見渡すと、叉鬼の手元のドライバーが折れていることに気が付いた。

 プラスティックの持ち手がひび割れて歪な形になっている。

僕は話すのを辞めるべきかと思ったが叉鬼が「それで?」と聞いてくるので僕は話をつづけた。

「飾ってみようかなって――それ、叉鬼の写真。さっき選んでたんだ」

「え? わたしの写真?」

 叉鬼の声のトーンが上がった。

 さっきまでの圧のある雰囲気が消えて部屋の中の空気が一気に柔らかくなる。

「あ、ああ……叉鬼が良ければだけど」

 叉鬼は開けていたコンセントを元の場所に戻してからすっと立ち上がりくるりとターンした。

 おさげのツインテールの髪がふわりと広がってから叉鬼の本体へ収束していく。

 その動きがあまりにも美しくて僕の思考が止まる。

「ちょっと恥ずかしいけど……お兄ちゃんが飾りたいならいいよ」

 両手を後ろで組んで上目遣いで僕を見つめてくる。

 心臓がどくんと震える。

 顔が熱くなるのを感じて目を反らした。

「じゃあ、額を一緒に――」

 叉鬼から目を反らしたのは間違いだった。

 ドアの前に立っていた僕と部屋の奥に居た叉鬼。

 三メートルないくらいの距離感。

 それを叉鬼は一瞬で超えてきた。

 僕の唇に柔らかい感触。

 長いまつげ、宝石みたいな瞳。

 甘い、魅惑的な香り。

 僕の意識は支配されている。

 動揺する間もなく叉鬼の唇は離れる。

「お兄ちゃん、キス初めて?」

 叉鬼と目が合う。

 魔法にかけられているみたいに僕は頷いた。

「えへへっ――叉鬼が初めて奪っちゃったぁ」

 そう言うと叉鬼はぴょんと後ろに下がってから僕の横を抜けて部屋を出て行く。

「そろそろお夕飯の準備しなきゃ♪」

 何事もなかったように去っていく妹の姿。

 ふわりとツインテールが待った。

 振り返る叉鬼の姿。

「今晩は、一緒に寝ようねお兄ちゃん」

 妖艶な表情で口にして先はまた僕に背中を向けて廊下を歩き、階段を下りて行った。

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