第8話 森の廃屋
栃木県の南部はほぼ関東平野となります。群馬県に隣接する足利市や佐野市、栃木市等は、北から続く日光連山の南端になるので、平地が少なくなり、逆に茨城県に隣接する真岡市や益子、茂木等の町は八溝山系の末端になってくるので、起伏が出て来ますが、東京から真っ直ぐ続くJR宇都宮線(福島県の手前、黒磯駅までは宇都宮線と呼びますが、東北本線の東京、栃木間をこう呼びます。)東京、埼玉、茨城を超えて、県都宇都宮まで東京駅から109.5キロ。その先の矢板駅を超えて141キロ。この間にトンネルは一つもありません。矢板駅を過ぎると、宇都宮線唯一のトンネルである針生トンネルがありますが、ずっと長い平野を走り続けるのが、宇都宮線の特徴です。
私が産まれ育った所も、坂と呼べる程の急勾配はほぼなく、広大な平地に遥か彼方に迄、平坦な田圃が広がっておりました。その広大な景色を区切る物は、田圃の中に点在する人家か森か神社でした。
昔からの農家は敷地も広い為、風や春先に舞い上がる砂埃から家を守る為に、屋敷森と言って敷地の周りに樹木を植えて、大木で庭と屋敷を囲んでおりました。門も長屋門という立派な作りの家が結構あり、広い敷地内には、母屋や離れ、納屋、大谷石作りの倉等が建ち、それでも庭で子供が遊べるには充分な面積があり、敷地の中にも畑を作っている家も結構ありました。
森はいたるところにあるため、場所によっては、車が通れない様な細い道があるだけで、かなりの広範囲にずっと続く森もありました。
小学生の頃は、自転車に乗れる様になっても、国道脇等は危険だと学校から言われたため、農道や森の中に続く林道を走り回っておりました。
林道は森の奥で幾つかに分岐したり、大きく迂回して元の道に戻ったり、思わぬ所に、ヒョイと出たりと、子供には、とてもワクワクする道でした。また、暖かい季節になると、沢山の虫や爬虫類が出てきます。よく見かけたのは、ヤマカガシや青大将等の蛇や色々な蝶や蛾、蜂、クワガタ虫やカブトムシ、コガネムシやドウガネブイブイ等の甲虫類、10センチ以上あるヤマナメクジ等々、好奇心の塊の様な子供には森は夢の国でした。
あれは梅雨も明けた夏休みの始まりの頃だったでしょうか。森には萎れたアジサイの残骸が生え、ぽつぽつと向日葵が先始め、青葉だった森が濃緑のジャングルに変わり、スズメバチがぶんぶんと飛び交い始めた頃でした。
私は、実家が地主である森にクワガタ虫を捕りに早朝から出かけました。私の地域では、なぜかカブトムシはそれほど人気がなく、クワガタ虫のほうが子供たちの憧れでした。クワガタ虫には地方名があって、今でも正式名称ではなく、そちらで呼ぶと同郷だとわかります。コクワガタの事をナタ、黒いコクワガタで身体が大きめな奴はドロボウナタ、ノコギリクワガタの小型の物はノコ、大型の物はジシンカ。大型で黒いのはゲンジ、赤いのはワニなどと呼んでおりました。ミヤマクワガタやヒラタクワガタは、もっと山奥に行かないと取れないので、普段近所の森でとれるのはほとんどがコクワガタかノコギリクワガタです。ワニやゲンジを見つけると、まるで宝を発見したトレジャーハンターのような気分でした。
我が家の所有する森は非常に小さい森で、すぐに別の地主の森につながってしまいます。
この地方では、クワガタ虫をオニムシと呼び、子供がオニムシトリに地所の森に入ったからと言って、怒る地主はほとんどいませんでした。当時の多くのオニムシ取りの子供は、虫籠など持っておりません。通学用の黄色いキャップに、捕まえたオニムシをどんどん入れてかぶるので、増えれば増える程、頭がゴソゴソしてきます。
その日は、ナタやノコや、ババと呼ばれるメスしかとれず、どんどん奥へ奥へと入って行きましました。途中に急に開けて、田圃や畠になっている所もありましたが、森から森へといけば、数キロは森から出ないで移動できます。
3時間も森を彷徨ったでしょうか。太陽は正午よりも西に傾いていました。随分奥に来たものです。
もう私の町か、隣村かも分かりません。すると、急に辺りが真っ暗になってきました。
栃木名物の雷が近づいて来たのです。ヤバい!と思って、何処か避難場所を。と森からあちこち探しますと、森の奥に大きめな人家が見えます。雨宿りさせてくれるかな。と思っているうちに、雨がぽつ、ぼつと、森の木々の葉に当たり出す音がしてきました。
仕方なくその民家に、猛ダッシュしました。すると、それはかなり変わった民家でした。普通、森の中に家を作ったとしても、塀や生垣等で森との境界を作り、その中に庭と母屋や納屋等を作るものですが、この家はその様な境界も納屋等もなく、ただ森の中に直に建っておりました。
作りは現代風ですが、総二階で、一階の左右真ん中に玄関があり、黄土色のモルタル作りで、敷地面積は50〜60坪ぐらいでしょうか。壁の表面には、沢山の蔦があちこちにはりついて伸びております。
「すみませーん。誰か居ませんか!」と、玄関を叩いていて気づいたのですが、人が居なくなってから、かなりの時間が経過している廃屋でした。
玄関は昔ながらの左右へ開く引戸で、その左側は多分廊下が縁側にそってあるタイプの昔風の家なのでしょう。で、おそらく廊下の突き当たりにドアがあって、中は和式のトイレだな。等と勝手に思っておりました。そちら側は雨戸が閉まっていて、隙間から覗いても真っ暗で何も見えません。
玄関の右側は居間があって、居間の奥がキッチンで、多分玄関の裏側辺りが風呂とかになるんだろうなあ。と推測しました。
そちら側はガラス戸が閉まっていて、直ぐその内側には障子が締まっていたのですが、障子紙はビリビリに破れ、障子の桟も一部は折れておりました。
丁度この頃、我が家が建て替えをする事になり、建築関連の大学を出た祖父と大学で美術を専攻した一人娘の母が、お互いに独自の設計図面を書き、ほぼ毎日親子で丁々発止をやっていたので、それ以外の家族は口を出さないで、二人のやり取りを観戦しておりました。
やがてそれぞれの主張を聞いているうちに、子供でも家の図面の意味が分かる様になり、色々な家を想像して図面等を書いて遊んでいたので、ある程度は分かるようになっていたのでした。
しかし、先程からいくら呼んでも誰も出てきません。雨はだんだん強くなってきます。仕方がないので、玄関に張り出した軒下で雨宿りをしておりましたが、みるみる豪雨となって来ます。
ふと縁側と玄関の境目を見ますと、床下の通風口の、小動物避けの朔が外れております。これは床下に入れるな。と、埃まみれ。泥まみれになりながらも、びしょ濡れになるよりいいや。と、廃屋らしき家の床下に入り込みました。
凄まじい埃と、黴と、シロアリが食っている木に臭う酸の臭い。そして、何か生臭い臭いと汲み取り式トイレの悪臭。床下に撒かれた殺虫剤の様な臭いが滅茶苦茶に入り混じっておりました。でも、びしょびしょになるよりはいいか。と、入って行きました。
地面には、沢山の蟻地獄の作ったすり鉢型の凹みがあり、カマドウマだのトビズムカデの小さい奴だのゲジだのがワサワサ逃げて行きます。
床下は土台が迷路の様になっておりましたが、あまりの豪雨に入り口近くには居られませんでしたので、どんどん奥に入って行きました。
天井となる床板は、黴ていたり半分腐っていて、触ると崩れたり、ぼろぼろと落ちてきました。
大体居間の下辺りかな。と思われる場所はキッチン側が土間となり、完全に塞がっていたので、雨が最も来ない所でした。
通気口や色々な隙間から光は入るので真っ暗ではなく、仕方がないので、雨が止むまでここにいようと思っておりますと、上から声が聞こえます。居間で誰か話をしている様です。「忍者みたいだな。大体悪者が打ち合わせをしているのを、天上の上とか床下で聴くんだ。」と、一人忍者になった気分で、腐った床板に耳をつけてみました。
「だから、もういいじゃない。二人でいけば。」という女性の声。「ほんとうに済まないなあ。俺があんな事をしなければ。」と男性の声。
「もう何回も何回も話し合ったじゃない。」「そうだなあ。」と言う様な話を、ボソボソ繰り返しています。二人とも、はっきりした声ではないのですが、悲しそうでもない。世間話をしているような感じでした。
そこて、大変生臭いというか、腐敗している臭いが酷いのは、この耳をつけた床板が一番臭い。という事に気づき、耳や顔半分も臭くなって、これは堪らんと思い、また出口の方に向かいました。
雨が小降りになっておりましたので、その雨で、臭くなった顔を洗い、また、ビショビショになった森を幾つか超えて自転車を停めておいた所に戻り、家に着いたのは16時頃でした。
頭の先から足の先まで泥だらけで、相当異臭をさせて帰ったらしく、祖母に、
「汚ったないから家に、そのまま入るな。」と言われ、庭で素っ裸にされ、頭から庭の井戸で組んだ水をぶっかけられ、シャンプーと石鹸で徹底的に洗われました。
洗われながら、今日見た家の話をしておりましたら、私の事をガシャガシャ洗っていた祖母の手が止まり、
「なんでお前はいつも、そういう所に出くわすのかねぇ。一度お祓いしてもらった方がいいねぇ。」といいながら、家に戻り、我が家に伝わるという神棚にあげる祝詞を唱えながら塩を持って来て、私の周りに撒いたのでした。
「ばあちゃん。なんなのさ。」と聞きますと、「多分お前が床下に潜り込んだのは、こんな家だろう。」と私が見たままの家を言います。
「あの家はな。隣町の、あの辺の元の地主さんの息子夫婦が住んでたんだ。もう10年以上前になる。地主夫婦が亡くなって、都会から来た詐欺師に母屋や田畑を取られちゃったんだよ。犯人は捕まったけど、土地ってのは私も分からないけど、色々面倒くさいらしい。で、母屋とか田畠は人手に渡ってしまったけど、森だけ戻って、そこに息子夫婦が家だけ建てたんだ。それで、騙された息子は凄く無理をして働いて、直ぐに病気になって働けなくなった。奥さんがパートに出ていたけど、このパート先も倒産してな。しばらく夫婦で森の中でひっそりと暮らしていた様だけど、10年位前に、近所の民生委員が尋ねたら、居間でちゃぶ台に座ったまま、二人ともミイラになっていたらしい。警察が来てマスコミもきて大騒ぎになったのも一瞬だったなあ。まだ、土地の相続とかが決まらなくて、ずっと放置されている家なんだよ。なんでわざわざそんな所にいくかね。」と、呆れた顔で見られました。
夜、捕まえて来たオニムシに砂糖水をやりながら、
「なんだか、幽霊の話し方って普通だったな。」と、思い出しておりました。 了
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