第20話 おいで、ユリア

 ヴィンチェンツォは、書類と本だらけの書斎の主である書斎机からデスクチェアを引き離し、踏み台に座る私のすぐそばまで持ってきて、腰を下ろします。


 二週間近くにもおよぶ、旧ペトリ辺境伯領行きがどうであったのか。


「結論から言えば、旧ペトリ辺境伯領を防衛する、という目的は果たした。ウェンダロスの多くは討伐、領内からは叩き出した。これでしばらくは旧ペトリ辺境伯領へ近づくこともないだろう」


 堂々と、ヴィンチェンツォは戦果を誇張することもなく、端的に述べます。


 つまりはどういうことか、私のもっとも気にしていることを告げるための前置きです。


 ヴィンチェンツォは私を真正面に見据えて、顔を綻ばせます。


「というわけで、お前の父と兄たち、それに家族と領民たちは無事だ。レーリチ公爵軍に合流してもらい、今は領内の警戒、ウェンダロスの残党探しに従事してもらっている」


 それを聞いただけで、もう、私は力が抜けて、大きな安堵のため息が漏れました。


「よかった。みんなが無事で、ほっとしました。あの、旧ペトリ辺境伯領のことは」

「すでに大まかな話は通した。カレンド王国が下した決定は覆らない、ならばあの土地はレーリチ公爵領として、その最前線の軍の指揮と委任統治者にペトリ家を任ずる。それなら前とさほど変わらず、あの土地を守っていけるだろう。つまり、ペトリ家はレーリチ公爵家が雇うから心配するな。王宮のことはまあ、父上がなんとかするだろうさ」


 最終的にはレーリチ公爵に丸投げ、ということはいいとして、万事上手くいったようです。最上の結果を持って帰ってきたヴィンチェンツォの仕事は終わりました、さすがです。


「しかし、あの蛮族どもを少ない手勢で退けてきたペトリ家は恐ろしいな……ああ、それと、お前と結婚する話をしたら、ぜひにと喜ばれたぞ」


 ピシ、と私は固まります。


 結婚の話をしなくてはならない、確かに。


 すでにレーリチ公爵やペネロペとは、先日のアナトリアの一件について口裏合わせをしています。経緯や侯爵たちを巻き込んだ騒動などの詳細はヴィンチェンツォには言わず、ただ結果だけを伝えよう、と。


 なので、私は慎重に、結果だけを伝えます。


「あの、ヴィンチェンツォ様、ご報告しておきたいことがあります」

「何だ?」

「アナトリア様のことです。無事、タドリーニ侯爵嫡男のベネデットと婚約したそうです」

「は?」


 呆気に取られた、とばかりの面白い顔になったヴィンチェンツォは、困惑していました。


「あの女が? どうやって?」

「色々とありまして……でも、婚約は嘘ではないようですし、これでヴィンチェンツォ様も安心できるだろうと思い、急ぎご報告を」


 ああー、ここで私がヴィンチェンツォに迫られて詳細を吐くことになると、口裏合わせが何の意味もなさなくなります。どうやってかわそう、ハラハラしていると、ヴィンチェンツォは空気を読んでか、それ以上突っ込んで聞いてくることはありませんでした。


「分かった。ユリア、欲しいものを言え。俺にできることなら何でも叶えてやる」


 ——突然すぎやしませんか、ヴィンチェンツォ。


「いえその、結婚の話は」

「あれはすでに了承済みだ。他には?」


 ——了承済みでしたか、まさか。


 どうしよう、どうしよう。いきなりです、いきなり欲しいものを言えと言われても、困ります。レーリチ公爵に結婚まで漕ぎ着けるようを頼まれていたものの、すでにヴィンチェンツォの中では結婚は了承済みのようですし、他に私が頼むことなんてなにかあるでしょうか?


 咄嗟のことになにも思いつかない私へ、ヴィンチェンツォは一つ軽く手を叩き、こう言いました。


「ああ、まず褒めなければならなかったな。よしよし」

「!?!?」


 ヴィンチェンツォは遠慮なく手を伸ばし、私の頭に当てました。そのままちょっと押し付けるように、撫で回します。


 初めはびっくりしましたが、これ、やられるとけっこう癖になります。撫で撫でにうっとりしていると、ヴィンチェンツォは空いている手を伸ばしてきました。


「ユリア、手を」

「お手ですか!?」

「違う。左手、ほら」


 私の左手を持つと、撫でる手を止め、ヴィンチェンツォは自分のジャケットのポケットから何かを取り出しました。


 なんだろう、と眺めていると、私の手のひらにを乗せました。驚け、とばかりにとんでもないものを乗せていきます。


「これが婚約指輪」

「はひ!?」

「これが結婚指輪」

「へあ!?」

「そしてこれがお前に似合うだろうと思って買ってきたプレゼントの指輪だ」


 なんということでしょう。驚きの奇声を上げる私の手のひらに、三つの指輪が現れました。


 シンプルな銀の指輪と金の指輪、そして一つだけダイヤモンドのあしらわれた指輪です。


 してやったりのヴィンチェンツォは、イタズラっぽい表情で私を眺めていました。私はもう、なにがなんだか分からず、慌てっぱなしです。


「もっと欲しいか?」

「いえ! 三つあっても私の左手薬指は一本なので!」

「何だその断り方は。なら、そうだな……うーん」

「私としましては、その、ヴィンチェンツォ様のご厚意で」

「ああ、子供が欲しいか?」

「ぶっ!?!?!?」


 私は瞬時に頭を思いっきり下げ、ヴィンチェンツォに吹き出した顔を見られずに済みました、多分。


 どストレートなヴィンチェンツォらしいと言えばらしい、その冗談は笑うに笑えません。


 私がぷるぷる肩を震わせていると、ヴィンチェンツォはその私の肩を叩きました。


「ははっ、冗談だ。しかし困ったな、『野蛮人バルバリカ』には淑女の愛し方が分からない」


 あ、冗談ですよね、よかった。冗談でよかった。


 私は必死に顔を取り繕い、やっとの思いでヴィンチェンツォをまっすぐに見つめます。


 なにを言えばいいのでしょう。しどろもどろな私は顔が火照って、空気が冷たく感じられます。


 意外とヴィンチェンツォは冗談が——その内容はともかく——お好きで、私に一気に指輪を三つもプレゼントしてくるような好意のダイレクトな表し方をして、その上ご本人は自分が公爵家の公子でありながら『野蛮人バルバリカ』だと自覚もあるようです。


 ということは、です。ヴィンチェンツォは、貴族風のまどろっこしいロマンスの言葉など、求めてはいないでしょう。


 私は、思いつくままに欲しいものを、なにをしてほしいのかを、まっすぐに伝えます。


「あなたに、に、似合うように、なりますから、愛してください」


 私は握っていた右手を差し出します。ヴィンチェンツォの手へ押し付けるように、作ってしまった鉄の指輪を渡しました。ヴィンチェンツォでも銀とか金とかダイヤモンドを選んだのに、私ったら鉄です。なんでしょう、この差は。


 しかし、ヴィンチェンツォがそんなことを気にするはずもありません。鉄の指輪を一つ自分の薬指にはめると、もう一つを私の左手薬指に押し込みました。他の指輪もまとめてです。


 ふふん、と得意げなヴィンチェンツォは、こほん、と咳払いをしてから、デスクチェアに深く腰掛け、両手両足を広げます。


「では、愛してやる。まずはほら、一度抱きしめておきたい」


 そう言って、ヴィンチェンツォは優しく呼びかけてきます。


「おいで、ユリア」


 呼ばれたなら、私は自分の足を止めることはできません。


 思いっきり、踏み台から立ち上がって、ヴィンチェンツォの胸に飛び込みました。それでもヴィンチェンツォは難なく受け止め、自分の肩に私の顔を抱き寄せて、しっかりと両腕を私の体に回します。


 ぎゅっと、ちょっと力強いくらい抱き止められて、私はヴィンチェンツォの首筋に鼻を押しつけました。


 ああ、幸せ。うっかりうっとり眠ってしまうほどに、ヴィンチェンツォはずっと私を抱きしめていました。


 どんな顔をしているのでしょう、見てしまうとだめでしょうか。でもそれはまた今度にしましょう。


 今はですね、あなたの匂いを憶えたいのです。

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